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ニーチェ「詩人は嘘をつく」

・詩人は噓をつきすぎる。ツァラトゥストラも詩人の一人だ。
・かれは君たちを欺いたかもしれぬ。

ニーチェは神と悪魔の両方の顔を持っています。読者を欺き高笑いすることもあります。そのため、ニーチェの言葉を真に受けてはなりません。彼の哲学は「遊びの哲学」であり、整合性や一貫性よりもむしろ遊び心やユーモア(ブラックユーモア)が重視されています。したがって、彼の人間性やレトリックを理解して真意を読み解くことが重要です。

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だが、かつてツァラトゥストラは君にどう語ったというのか。詩人は噓をつきすぎると語ったのか。──だがツァラトゥストラも詩人の一人だ。
「詩人」

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まことに、わたしは君たちに勧める。わたしを離れて去れ。そしてツァラトゥストラを拒め。いっそうよいことは、ツァラトゥストラを恥じることだ。かれは君たちを欺いたかもしれぬ。
「贈り与える徳」

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彼の著作には深みとともに一種の軽みが伴い、高級なジャーナリズムともいうべき文体が創造された。そこでは誇大妄想なのか、演技なのか、恐るべき真実なのか、パロディなのか判じがたいものがある。正気と狂気がいりまじったものがしだいに主流をしめるのを読者は感取されるであろう。
『ニーチェ全集12』(白水社)p489

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『この人を見よ』は、本文そのものが著者としてのニーチェの身分を危うくしかねないところから、それ自体が巨大なパラドクスを形成している。つまりこの著作は、自分自身の言明の信用を失墜させ、その真意を疑わせてしまうために、いわゆる「クレタ人のパラドクス」に似た事態を引き起こしているのである。

「あるクレタ人が、「すべてのクレタ人は嘘つきである」と言った」という言明、あるいは「この文章は嘘である」という文章は、自己言及的かつ自己否定的であるがゆえに、最終的にはその真偽を決定することができない。

それと同じように、『この人を見よ』もまた、読み手の意識をたえず揺さぶり、一義的な読解から逃れていく。文献学や解釈学が、テクストそのものの有意味性を前提とするのだとすると、このテクストはそうした文献学・解釈学に対するきわめて悪意に満ちた挑戦とも考えられるのである。
村井則夫『ツァラトゥストラの謎』

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『この人を見よ』において、ニーチェは──その意図はどうであれ──一個のパラドクスと化し、結果的には、その誇大妄想的な文体によって、自身を嘲笑し、自分自身のパロディを演じることになった。

パロディとは、本文の上に本文とは異なった意味を塗り重ね、意味を重層化していく話法である。

テクストがテクスト自身から距離をとり、著者が自分自身を茶化し、正体を晦ませることで、そこに読解の多様な可能性が生み出される。

すべての芸術家と同様に、悲劇作者もまた、自己および自己の芸術を眼下に見下ろすことができるときにこそ──つまり自己自身を嘲笑することができるときにこそはじめて、自身の偉大さの頂点に達するのである。 (『道徳の系譜学』三・三)

『この人を見よ』は、自己を讃美しつつ同時に自己を「嘲笑する」特異な作品である。したがって、『この人を見よ』をパロディとして読むということは、それをニーチェの狂気の徴候と理解するのではなく、そのすべての頁の裏側にニーチェの忍び笑いを探し出すことなのである。テクストをけっして真剣には受け取らず、しかし理解する──こうした読解の離れ業が、ニーチェの「文献学」の辿り着いた地点であった。
村井則夫『ツァラトゥストラの謎』

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ニーチェは、権威的に固定され客体化された価値体系の一切を、頭上から振り払おうとした。大いなる天空が一片の雲もなく無限に高く開かれてゆく広濶たる世界の大地の上に、生の無碍自在なる創造性を展開しようと欲したからである。この生の活動の無碍にして自在であるところを、ニーチェは「小児の遊戯」として捉えた。そこに私は彼における独自の「遊戯の哲学」を見る。これまでほとんど隠されてきていたニーチェの思想の核心、それは遊戯の哲学である。
信太正三『永遠回帰と遊戯の哲学』

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