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神と悪魔の顔を持つニーチェ 人間性とテクストの快楽

かつてツァラトゥストラは君にどう語ったというのか。詩人は噓をつきすぎると語ったのか。──だがツァラトゥストラも詩人の一人だ

ニーチェ『ツァラトゥストラ』「詩人」手塚富雄訳、中公クラシックス、Kindle版。

まことに、わたしは君たちに勧める。わたしを離れて去れ。そしてツァラトゥストラを拒め。いっそうよいことは、ツァラトゥストラを恥じることだ。かれは君たちを欺いたかもしれぬ

ニーチェ『ツァラトゥストラ』「贈り与える徳」手塚富雄訳、中公クラシックス、Kindle版。


ニーチェは神と悪魔の両方の顔を持っています。彼は嘘をつき、欺き、読者を眼下に見下ろし嘲笑することもあります。そのため、ニーチェの言葉をそのまま信じてはいけません

『この人を見よ』では、「なぜ私はこんなに賢明なのか」「なぜ私はこんなに利発なのか」「なぜ私はこんなによい本を書くのか」といった大袈裟な表現を繰り返していますが、その誇張によって「これはユーモアで言っているのですよ」ということを読者に伝えるためです。ですから、ニーチェの言葉を文字通り受け取ってしまっては、彼のユーモアを台無しにしてしまうことになります。

彼の哲学は「遊びの哲学」であり、整合性や一貫性よりも、むしろ遊び心やユーモア(ブラックユーモア)が重視されています。

ニーチェの文章を理解するには、彼の人間性やレトリックを理解することが重要です。特に『ツァラトゥストラ』や『この人を見よ』を読む際には、彼のキャラクター理解が極めて重要となります。

これはニーチェに限らず、あらゆる人間関係にも言えることです。相手の「言葉」にとらわれず、「人間性」を見るのです。人間性を知るには、相手の全体を見なければなりません。

しかし、相手の全体を知ることなどできません。ですから、理解や解釈には節度が求められます。他者理解において、「一を聞いて十を知る」ではいけません。人間には多くの側面があることを常に頭に入れておかなければなりません。他者理解には、「十を聞いて一を知る」くらいの慎重さと節度が必要です。

「良いところもあれば悪いところもある」のです。決めつけないことが重要です。ニーチェも決めつけられることを避けるために、ある場面では聖人のように振る舞い、別の場面では悪魔のように振る舞ったのです。

それだけでなく、読者に「読むことの快楽」を提供するために、意味が重層化した文体を生み出したのです。一義的な意味を求めようとする真面目な読者ではいけないのです。遊び心やユーモア、サービス精神を持ったニーチェの人間性やテクストそのものを楽しむのです。

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彼の著作には深みとともに一種の軽みが伴い、高級なジャーナリズムともいうべき文体が創造された。

そこでは誇大妄想なのか、演技なのか、恐るべき真実なのか、パロディなのか判じがたいものがある。

正気と狂気がいりまじったものがしだいに主流をしめるのを読者は感取されるであろう。
ニーチェ『ニーチェ全集 第十二巻』氷上英廣訳、白水社、p.489.

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『この人を見よ』は、本文そのものが著者としてのニーチェの身分を危うくしかねないところから、それ自体が巨大なパラドクスを形成している。

つまりこの著作は、自分自身の言明の信用を失墜させ、その真意を疑わせてしまうために、いわゆる「クレタ人のパラドクス」に似た事態を引き起こしているのである。

「あるクレタ人が、「すべてのクレタ人は嘘つきである」と言った」という言明、あるいは「この文章は嘘である」という文章は、自己言及的かつ自己否定的であるがゆえに、最終的にはその真偽を決定することができない

それと同じように、『この人を見よ』もまた、読み手の意識をたえず揺さぶり、一義的な読解から逃れていく

文献学や解釈学が、テクストそのものの有意味性を前提とするのだとすると、このテクストはそうした文献学・解釈学に対するきわめて悪意に満ちた挑戦とも考えられるのである。
村井則夫『ニーチェ ツァラトゥストラの謎』中公新書、Kindle版。

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『この人を見よ』において、ニーチェは──その意図はどうであれ──一個のパラドクスと化し、結果的には、その誇大妄想的な文体によって、自身を嘲笑し、自分自身のパロディを演じることになった。

パロディとは、本文の上に本文とは異なった意味を塗り重ね、意味を重層化していく話法である。

テクストがテクスト自身から距離をとり、著者が自分自身を茶化し、正体を晦ませることで、そこに読解の多様な可能性が生み出される

すべての芸術家と同様に、悲劇作者もまた、自己および自己の芸術を眼下に見下ろすことができるときにこそ──つまり自己自身を嘲笑することができるときにこそはじめて、自身の偉大さの頂点に達するのである。 (『道徳の系譜学』三・三)

『この人を見よ』は、自己を讃美しつつ同時に自己を「嘲笑する」特異な作品である。したがって、『この人を見よ』をパロディとして読むということは、それをニーチェの狂気の徴候と理解するのではなく、そのすべての頁の裏側にニーチェの忍び笑いを探し出すことなのである。

テクストをけっして真剣には受け取らず、しかし理解する──こうした読解の離れ業が、ニーチェの「文献学」の辿り着いた地点であった。
村井則夫『ニーチェ ツァラトゥストラの謎』中公新書、Kindle版。

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ニーチェは、権威的に固定され客体化された価値体系の一切を、頭上から振り払おうとした。大いなる天空が一片の雲もなく無限に高く開かれてゆく広濶たる世界の大地の上に、生の無碍自在なる創造性を展開しようと欲したからである。

この生の活動の無碍にして自在であるところを、ニーチェは「小児の遊戯」として捉えた。そこに私は彼における独自の「遊戯の哲学」を見る。これまでほとんど隠されてきていたニーチェの思想の核心、それは遊戯の哲学である
信太正三『永遠回帰と遊戯の哲学──ニーチェにおける無限革命の論理』勁草書房、はしがきⅰ。

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