ニーチェ哲学の真髄
ニーチェの主著は『ツァラトゥストラ』ですが、他にも初めは『力への意志』というタイトルでしたが、後に『一切価値の転換』というタイトルに変えた理論的な主著を計画していました。
これらの主著のタイトルから、ニーチェの哲学が、『ツァラトゥストラ』の「三段の変化」に凝縮されていることが分かります。
「般若心経」は仏教の教えを超コンパクトに要約したものですが、同様に「三段の変化」もニーチェの哲学を超コンパクトに要約したものと言えます。
森一郎訳「三段階の変身」
氷上英廣訳「三段の変化」
小山修一訳「三段の変化」
手塚富雄訳「三様の変化」
佐々木中訳「三つの変化について」
駱駝=ツァラトゥストラ
獅子=力への意志
子供=一切価値の転換
ツァラトゥストラを駱駝に当てはめたのは、ツァラトゥストラ=ゾロアスターが善悪二元論の教えを説いていた人物だからです(ツァラトゥストラという名前には「皮肉」が込められています。この皮肉については最後に解説します)。
そして、「三段の変化」の結語こそが、ニーチェの哲学の中で最も重要な言葉と言えます。
以下に「三段の変化」の結語を複数載せましたので、お好きな翻訳を選んで、般若心経のように暗唱や写経するのも良いでしょう。
小児は無垢である、忘却である。新しい開始、遊戯、おのれの力で回る車輪、始原の運動、「然り」という聖なる発語である。創造という遊戯のためには、「然り」という聖なる発語が必要である。そのとき精神はおのれの意欲を意欲する。世界を離れて、おのれの世界を獲得する。
手塚富雄訳
幼な子は無垢である。忘却である。そしてひとつの新しいはじまりである。ひとつの遊戯である。ひとつの自力で回転する車輪。ひとつの第一運動。ひとつの聖なる肯定である。そうだ、創造の遊戯のためには、わが兄弟たちよ、聖なる肯定が必要なのだ。ここに精神は自分の意志を意志する。世界を失っていた者は自分の世界を獲得する。
氷上英廣訳
幼子は無垢だ。忘れる。新たな始まりだ。遊ぶ。みずから回る輪だ。最初の運動だ。聖なる「然りを言うこと」だ。そうだ、わが兄弟たちよ。創造という遊びのためには、聖なる「然りを言うこと」が必要だ。ここで精神は自分の意志を意志する。世界から見捨てられていた者が、自分の世界を獲得する。
佐々木中訳
幼児は無垢である。忘却、新たな始まり、遊楽、自ら回る法輪、最初の動き、聖なる肯定である。そうだ、我が兄弟、創造という遊楽のために、 聖なる肯定が必要なのだ。そこで精神は自分の意志を欲する。世界を失っていた者が自分の世界を獲得する。
小山修一訳
子どもは、無邪気だ。忘れる。新しくはじめる。遊ぶ。車輪のように勝手に転がる。自分で動く。神のように肯定する。そうなのだ。創造という遊びのために、兄弟よ、神のように肯定することが必要なのだ。自分の意志を、こうして精神は意志する。自分の世界を、世界を失った者が手に入れる。
丘沢静也訳
幼児は無邪気であり、忘却であり、新しい初まりであり、遊戯であり、みずから回転する車輪であり、第一の運動であり、神聖な肯定である。そうだ、創造の遊戯には、兄弟よ、神聖な肯定を必要とする。精神は《みずからの》意志を意欲する。世界を失ったものは、《みずからの》世界を獲得する。
秋山英夫・高橋健二訳
子どもとは、無垢であり、忘却であり、新しい始まりであり、遊びであり、おのずと回る車輪であり、第一運動であり、聖なる然りを言うことである。そうだ、創造という遊戯のためには、兄弟たちよ、聖なる然りを言うことが必要なのだ。今や精神はおのれの意志を欲し、世界を失った者はおのれの世界を勝ち取る。
森一郎訳
小児は天真爛漫なり、健忘なり、新しき発端なり、遊戯なり、自転の車輪なり、最初の運動なり、神聖の肯定なり。さなり、我が兄弟等よ、創造の遊戯に必要なるは神聖の肯定なり。今精神はそれ自らの意欲を意欲す。世界を失える者はそれ自らの世界を獲得す。
生田長江訳
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ツァラトゥストラ(ゾロアスター)は善悪二元論を説いた人物ですが、ニーチェはその名前を使って善悪二元論を否定しました。このことから、ツァラトゥストラという名前に「皮肉」が込められていることが分かります。
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