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二種類の人間

右脳型と左脳型

世界には男と女の二種類の人間しか存在しません。それは左脳型と右脳型と言い換えることができます。

そこには対立と結合の永遠の運動が存在します。対立は緊張を生み、変化をもたらします。結合からは新たな存在が生まれます。

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対立と調和

わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。

『マタイによる福音書』

対立するものを安易に調和させようとしてはいけません。対立関係には意味があります。すべての場面で和解や平和、調和が必ずしも良いわけではありません。

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二重人格

すべての人間は二重人格です。右脳型の人格と左脳型の人格が一人の人間の内に存在します。

もしメインキャラクターが右脳型ならば、サブキャラクターは左脳型になります。メインとサブは、状況に応じて入れ替わります

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二性一人格

二つの本性において混ぜ合わされることなく、変化することなく、分割されることなく、引き離されることなく知られるかたである。

『カルケドン信条』

キリスト教には「二性一人格」という教義が存在します。イエス・キリストは神であり、同時に人間でもあるという教えです。神性と人間性が混ざることなく、一つの器に存在しているということです。

「二性一人格」の教義は人間にも適用できます。右脳型と左脳型という二つの本性が混ざらずに一人の人間の内に存在しているからです。人間も二性一人格的存在なのです。

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三位一体

キリスト教の三位一体を人間の脳に当てはめると、左脳が父なる神、右脳がイエス・キリスト、そして脳梁が聖霊に相当します。

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二元論と一元論

神と悪魔、善と悪、光と闇、男と女、精神と物質、魂と肉体、表と裏、月と太陽、大地と大空、夢と現実、自由と必然、正統と異端、主観と客観、信仰と認識、科学と宗教など、

私たちはこの世界を二元的に見る傾向がありますが、左脳と右脳という脳の構造から、二元的な思考を自然にしてしまうのです。

神と悪魔、善と悪、光と闇の対立が二元論の原型

高橋巖『神秘学入門』p85

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ヘーゲルと西田幾多郎

左脳と右脳は脳梁で繋がっているため、脳は二つで一つでもあります。したがって、世界を対立ではなく和解、調和、結合させようとする一元化の働きも生じます。

私たちが対立と結合を繰り返すのは脳の構造によるのです。人間が対極にあるものを結びつけたくなる性質を持っているのも同じ理由です。

ヘーゲルの「弁証法」も、西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」も、人間の脳の構造からすると自然な発想なのです。

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様々な類型論

四つの血液型(A・O・B・AB)、占星術の四つのエレメント(火・土・風・水)、ユングのタイプ論(思考・感情・感覚・直感)など、様々な類型論が存在しますが、それらは左脳型か右脳型に分類することができます。

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発達系と人格系

人は誰でも、発達系的な特徴と人格系的な特徴とを持っている。両方をさまざまな割合で併せ持つハイブリッドである。

したがって、人間の集団は、より発達系的な色合いの強い極から、より人格系的な色合いが強い極へと連なる、一つのスペクトラムを構成している。

本来、発達系と人格系は足りない部分を補い合える関係にあるのだが、実際には、むしろコミュニケーション不全や相容れなさが顕在化しやすい。

濃い発達系の人と濃い人格系の人の場合、とりわけそうなりがちである。
老松克博著『共時性の深層──ユング心理学が開く霊性への扉』「今ここと発達系」

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人格系の特徴

典型的な人格系は、誤解を恐れずに言いきってしまうなら、普通の人、常識的な人である。見捨てられによるダメージに弱いので、つねに周囲からの評価を気にしながら、過剰適応気味に暮らしている。

人格系の悩みは尽きない。つねに過去を思い煩ったり未来への不安を感じたりしながら、矛盾と葛藤に苛まれている。神経症的と表現してもよい。

大きく逸脱するような行動はせず、まわりからすれば信頼が置けるが、そのかわり、よい意味で大化けすることもない。

緩やかな登り坂を進むがごとくに向上していくのをモットーとしており、基本的に地道な努力型である。おもしろ味や豪快さはあまりない。
老松克博著『共時性の深層──ユング心理学が開く霊性への扉』「今ここと発達系」

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発達系の特徴

発達系は人格系とは対照的である。いつも「今ここ」に集中している。その徹底ぶりは半端ではない。だから、基本的に、目の前のことしか目に入っていないのである。

自分がそこでなす判断や行為が先々いかなる結果を引き起こすかということまではなかなか思いが至らないため、あまり葛藤も生じない。しかも、その集中は長続きしないのがふつうである。  

つまり、発達系は、衝動的、爆発的、本能的、反射的に行動し、その行動にはまとまりや一貫性が乏しいことが多い。それゆえ、成長という言葉にはあまり縁がないこともある。

人格系が長い坂道を登っていくかのように成長するのに対して、発達系は、成長することがあるとすれば、その軌跡は階段状になる。

ずっと変わりばえすることなく経過しているが、あるとき、不意に跳躍する。ジャンプ・アップするのである。
老松克博著『共時性の深層──ユング心理学が開く霊性への扉』「今ここと発達系」

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発達系の時間の流れ

彼らの生の時間の流れは、通常のような、過去から未来へという一本の線にはなっていない。線のように見えても、実際には、無数の点の並びにすぎない。彼らにはつねに「今現在」しかなく、過去や未来とのつながりは薄い。  

それゆえ、発達系はいつも目の前のことにとらわれている。目の前のことだけにこだわって動きがとれなかったり、逆に次々と関心が転導して、つまり目移りしてしまって落ち着きがなかったりする。

その場の気持ちに駆り立てられ、あとさきを考えずに行動するので、盲目的な猪突猛進の活動になりがちである。

しかし、爆発的な行動力を示したり、寝食を忘れて一心不乱に打ち込んだりして、他の追随を許さない圧倒的な成果を生み出すこともありうる。
老松克博著『共時性の深層──ユング心理学が開く霊性への扉』「発達系とイントラ・フェストゥム的存在構造」

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「神」格系

その日暮らしの生き方を好み、漂泊的な生涯を送ることも少なくない。「今現在」あるいは「今ここ」のあり方には、興味深いパラドックスが見られる。

じつは、それが発達系の大きな特徴の一つになっている。パラドックスとは、「今ここ」しかないがゆえに、過去も未来も、あちらもこちらも、こぞってその一点に流れ込んでくるということである。

発達系には永遠と無辺を集めてしまう超越的な力がある、と言ってもよい。発達系を人格系に対比させて「神」格系と呼んでもよいくらいである。  

それは深い宗教性につながっていく。永遠と無辺を一身に引き受け、いっさいがっさいを双肩に担っているのだから、当然のことだろう。

極端な発達系の人たちの場合、日常の何気ない言葉にも素朴で神さびた味わいがあることが少なくない。伝記を読んでみると、一つの宗教や宗派を立てたような人たちには発達系の特徴が色濃く見られることが多い。
老松克博著『共時性の深層──ユング心理学が開く霊性への扉』「発達系とイントラ・フェストゥム的存在構造」

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ジェネラリストとスペシャリスト

新興宗教のカリスマ性のある教祖は発達系(スペシャリスト)で、人格系(ジェネラリスト)の参謀が彼らについています。

発達系の才能が世に広まるのは、ジェネラリストの参謀が存在するからこそです。このように、左脳型(人格系)と右脳型(発達系)がうまく組み合わさると、相乗効果を生みます

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ロゴスとレンマ

レンマは「ロゴス」と対比される。ロゴスはギリシャ哲学でもっとも重視された概念であり、語源的には「自分の前に集められた事物を並べて整理する」を意味している。

思考がこのロゴスを実行に移すには、言語によらなければならない。人類のあらゆる言語は統辞法にしたがうので、ロゴスによる事物の整理はとうぜん、時間軸にしたがって伸びていく「線形性」を、その本質とすることになる。

これにたいしてレンマは非線形性や非因果律性を特徴としている。語源的には「事物をまるごと把握する」である。ここからロゴスとは異なる直感的認識がレンマの特徴とされる。

言語のように時間軸にそって事物の概念を並べていくのとは異なって、全体を一気に掴み取るようなやり方で認識をおこなう。仏教はギリシャ的なロゴスではなく、このレンマ的な知性によって世界をとらえようとした。
中沢新一『レンマ学』(講談社) p14−15

ロゴスの「自分の前に集められた事物を並べて整理する」能力は左脳型の特徴であり、レンマの「事物をまるごと把握する」能力は右脳型の特徴です。

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