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荘子、臨済、ニーチェ、九鬼修造

私には4人の話し相手がいます。荘子、臨済、ニーチェ、そして九鬼修造です。彼らとの会話はとても楽しいです。

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キリスト教には、四つの福音書がありますが、私にも四つの福音書があります。それは以下の書物です。

・『荘子』
・『臨済録』
・『ツァラトゥストラ』
・『いきの構造』

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荘子、臨済、ニーチェを『ツァラトゥストラ』の「三段の変化」の駱駝、獅子、子供に当てはめるとすれば、ニーチェが駱駝であり、臨済が獅子で、荘子が子供になります。荘子は最終段階である「子供=超人」です。時間は未来から過去に流れますから(苫米地英人)、時間の流れとも一致しています。

ニーチェ=駱駝
臨済=獅子
荘子=子供

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荘子の生まれ変わりが臨済であり、臨済の生まれ変わりがニーチェであると言えるほど、彼らは似ています。

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『荘子』『臨済録』『ツァラトゥストラ』、この三冊は同じ人が書いたとしか思えないほど似ています。まるで、ペンネームを変えて書いているかのようです。

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九鬼修造の『いきの構造』は、恋愛に関する最高の指南書であると言えます。「いきな恋愛」とは、べったりとした距離感ゼロの「依存的な恋愛」とは真逆のものであることが分かります。ニーチェも男女について語っているところで、女性を独断的に神格化する典型的な「野暮な男」を描いています。

「いき」は媚態でありながらなお異性に対して一種の反抗を示す強味をもった意識である。
『いきの構造』

「なるほどわたしは男たちからは『深いもの』、『貞節なもの』、『永遠なもの』、『神秘なもの』といわれている。  
けれどそれは、男たちが、いつも自分の徳をわたしたちに贈っているだけの話。ああ、あなたがたは徳のあるおかただから」  
こう言って彼女、この信用のおけない女は笑った。
『ツァラトゥストラ』「舞踏の歌」

真理が女である、と仮定すれば──、どうであろうか。すべての哲学者は、彼らが独断家であったかぎり、女たちを理解することにかけては拙(まず)かったのではないか、という疑念はもっともなことではあるまいか。彼らはこれまで真理を手に入れる際に、いつも恐るべき真面目さと不器用な厚かましさをもってしたが、これこそは女(あま)っ子に取り入るには全く拙劣で下手くそな遣(や)り口ではなかったか。女たちが籠絡(ろうらく)されなかったのは確かなことだ。
『善悪の彼岸』「序言」

人間の心に巣食う、したがって男の心に巣食う「女性崇拝」は、およそ、わたしの世界への参入を不可能にするものである。そんな荷物をもっていては、とうてい、この大胆不敵な認識の錯綜した道へふみ入ることはできまい。かつて自分をいたわったことのない者、おのれの習慣の中に苛烈さをもっている者でなければ、苛烈な真理ばかりの中にあって平静で快活であることはできない。完全な読者の像を思いうかべるとき、わたしの念頭にうかぶのは、いつも、勇気と好奇心とのかたまりのような怪物だ。それにくわえて、しなやかな、狡知にたけた、すきのない人間、生まれつき冒険者であり、発見者であるような存在だ。
『この人を見よ』「なぜわたしはこんなによい本を書くのか3」

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ニーチェは、自分自身を芸術作品として扱うべきだと唱えていますが、これは九鬼修造の『いきの構造』とも通じるものがあります。ニーチェは「超人」あるいは「高貴な人間」を目指しましたが、「いきな人間」を目指してもいいでしょう。どちらにせよ、厳格な自己陶冶によって、自分自身を芸術作品として完成させていくのです。

「いき」の所有者は、「垢のぬけたる苦労人」でなければならない。

野暮は揉まれて粋となる。

「江戸の花」には、命をも惜しまない町火消、鳶者は寒中でも白足袋はだし、法被一枚の「男伊達」を尚んだ。「いき」には、「江戸の意気張り」「辰巳の侠骨」がなければならない。「いなせ」「いさみ」「伝法」などに共通な犯すべからざる気品・気格がなければならない。
『いきの構造』

『人間的な、あまりに人間的な』は、厳格な自己陶冶の記念碑である。
『この人を見よ』「人間的な、あまりに人間的な および二つの続篇」

わたしはつねに自分自身を超克し、乗り超えざるをえないものなのだ。
『ツァラトゥストラ』「自己超克」

汝は勝利を収めた者であるか、自己征服者であるか、官能の支配者であるか、汝の美徳を束ねる君主であるか?このように私は汝に問う。
『ツァラトゥストラ』「子供と結婚」

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ニーチェは、対極にある概念を用いることで自身の思想を読者にわかりやすく提供しています。ニーチェは自己満足的な思想家ではなく、読者の利益を考えて文章を書いています。『ツァラトゥストラ』の冒頭にも「万人のための書」と書かれています。

ニーチェの「超人」と「末人」は、「高貴」と「賎民」と言い換えることができますが、『いきの構造』における「いき」と「野暮」も類似しています。

「超人」と「末人」
「高貴」と「賎民」
「主人」と「奴隷」
「勇気」と「臆病」

「いき」と「野暮」

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荘子、臨済、ニーチェの共通点は、「理屈などどうでもよい」と思っているところです。しかし、聞き手が理解しないものだから、仕方なく理屈も書いています。『ツァラトゥストラ』の場合は、『善悪の彼岸』と『道徳の系譜』が理論書に当たります。

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荘子、臨済、ニーチェのもう一つの共通点は、彼らのサービス精神にあります。彼らは、永遠と理屈を並べ続けるつまらない哲学者たちとは異なり、刺激的でテンポの良い文章で読者を楽しませてくれます。また、ブラックユーモアを多用するので、好きな人にはたまりません。

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荘子、臨済、ニーチェ、そして九鬼修造は、ユーモアと遊び心を持った人たちです。そこが彼らの魅力です。

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なぜ私が、荘子、臨済、ニーチェ、そして九鬼修造が好きなのかと言うと、彼らと「趣味」が合うからです。

そしてそれが──私の趣味なのだ。──善い趣味でも、悪い趣味でもない。私の趣味なのだ。それを私は恥ずかしいとは思わないし、もはや隠し立てもしない。
『ツァラトゥストラ』「重さの地霊」

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冗談が通じない人には、荘子や臨済、ニーチェの言葉の真意は理解できません。彼らの話は半分が真剣であり、半分が冗談だからです。嘘と冗談の大きな違いは、冗談は聞いた人がそれが冗談であると分かるように、あえて大げさで極端な話し方をする点にあります。しかし、真顔で冗談を言うこともあるため、冗談が通じない人はそれを真に受けてしまうことがあります。

ニーチェは『この人を見よ』で自身のことを「なぜ私はかくも賢明であるのか」「なぜ私はかくも頭脳明晰であるのか」「なぜ私はかくも良い書物を書くのか」と表現していますが、これも真顔での冗談です。「何言ってんだこいつは」と読者の心を刺激する意図があります。同様に、臨済が仏像を焚き火にしたのも、荘子の話が極端に壮大なのも読者の注意を引くためのテクニックと言えます。

彼らはブラックユーモアが大好きな人たちなので、彼らの話を一字一句真剣に受け取るべきではありません。大袈裟な表現が出てきた時は、彼らのユーモアを楽しみながら、裏に隠された真意を読み取らなければなりません。

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臨済は、「私の言葉を鵜呑みにするな」と言い、ツァラトゥストラは、「君たちを欺いているかもしれない、嘘をついているかもしれない」と言います。彼らが伝えたいのは、「私の大袈裟な表現や過激な行動にとらわれず、その背後にある真意を読み取るように」ということです。彼らは読者の「固定観念を破壊するため」に、あえてそのようなことをしているのです。

諸君、わしの言葉を鵜呑みにしてはならぬぞ。なぜか。わしの言葉は典拠なしだ。
『臨済録』「示衆」

まことに、わたしは君たちに勧める。わたしを離れて去れ。そしてツァラトゥストラを拒め。いっそうよいことは、ツァラトゥストラを恥じることだ。かれは君たちを欺いたかもしれぬ。
『ツァラトゥストラ』「贈り与える徳」

だが、かつてツァラトゥストラは君にどう語ったというのか。詩人は噓をつきすぎると語ったのか。──だがツァラトゥストラも詩人の一人だ。
『ツァラトゥストラ』「詩人」

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ニーチェと臨済は「自分自身を信じよ」と言っています。これが覚りの大前提です。哲学書や宗教書を何千冊と読んだところで、覚ることはできません。

まず大胆に自分自身を信ずるがよい──おまえたち自身とおまえたちの内臓を信ずるがよい。自分自身を信じない者のことばは、つねに噓になる。
『ツァラトゥストラ』「無垢な認識」

今わしが君たちに言い含めたいことは、ただ他人の言葉に惑わされるなということだけだ。自力でやろうと思ったら、すぐやることだ。決してためらうな。このごろの修行者たちが駄目なのは、その病因はどこにあるか。病因は自らを信じきれぬ点にあるのだ。もし自らを信じきれぬと、あたふたとあらゆる現象についてまわり、すべての外的条件に翻弄されて自由になれない。もし君たちが外に向って求めまわる心を断ち切ることができたなら、そのまま祖仏と同じである。
『臨済録』「示衆」

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荘子、臨在、ニーチェは壮大な人間ですから、小さな人間が大嫌いです。彼らから学び、自己の小さな世界を破壊し、飛竜に乗って、彼らの住む「世界の外側」に遊びに出かけましょう。

そのとき大地は小さくなる。そしてその上で、一切を小さくする最後の人間が跳ね回っている。その種族は地蚤のように根絶やしがたい。最後の人間はもっとも長く生きのびる。
『ツァラトゥストラ』「ツァラトゥストラの序説」

ああ、人間における最悪といっても、なんと小さいことよ。ああ、人間における最善といっても、なんと小さいことよ。
『ツァラトゥストラ』「快癒しつつある者」

小さな知恵は大きな知恵に及ばないし、短い寿命は長い寿命に及ばない。何でそれが分かるのかと言えば、朝菌(茸の一種)は一ヵ月を知らないし、蟪蛄(蟬の一種)は一年を知らない。これが短い寿命の例である。楚(南方の国名)の南に冥霊という木があり、五百年を春とし、五百年を秋としている。大昔には大椿という木があって、八千年を春とし、八千年を秋としていたとか。ところが今日、人間界では長寿と言うと彭祖(伝説上の長寿者)ばかりが名を知られ、大衆はこれにあやかりたいと願う。悲しいことだ。
『荘子』「逍遥遊篇」

藐姑射(はこや)の山(神話上の山)に、神人が住んでいる。肌は氷や雪のように白く、体のしなやかさは乙女のようだ。穀物は一切食べず、ただ風を吸い露を飲み、雲気に乗り、飛竜を操って、世界の外に遊び出ていく。彼の霊妙なエネルギーが凝結すると、あらゆる物は傷病なく成長して、五穀も豊かに実るのだ。
『荘子』「逍遥遊篇」

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