ニーチェ「不倶戴天の敵」
ニーチェの宿敵であり、不倶戴天の敵であるのは、重力の魔と善人・同情です。
重力の魔は、「最高最大の悪魔」とも言われ、人間の足を下へ、深みへと引きおろすものであり、人生を重く感じさせる霊です。ニーチェは、重力の魔を舞踏と笑いで撃退します。
また、もう一人の敵である善人・同情に対しても、鋭い心理分析を行い、同情を殺す勇気、同情を超えた高みがあることを示します。ニーチェは、同情の克服を高貴な徳の一つと見なしています。
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【重力の魔】
わたしの足は、上へ、上へと努力してのぼって行った。上へ。わたしの足を、下へ、深みへと引きおろすもの、わたしの悪魔であり、宿敵であるあの「重力の魔」にさからって。
氷上英廣訳「幻影と謎」
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わたしは重さの霊の敵だ。とりわけてもこれは鳥の生態ではないか。まさに宿敵、仇敵、不倶戴天の敵だ。
佐々木中訳「重さの霊について」
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この歌は、舞踏の歌だ。そして重さの霊をあざける歌だ。わたしにとって最高最強の悪魔、人びとが『世界の主』と呼ぶ悪魔だ──。
佐々木中訳「舞踏の歌」
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人びとはわれわれにこう言う、「そのとおり、人生という重荷は耐えがたい」と。
いや、人間が自分で自分を耐えがたい重荷にしているだけである。それは、自分のものではないものを、あまりにたくさん自分の肩に載せて運んでいるからだ。
森一郎訳「重さの地霊」
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わたしは、悪魔にたいしては、神の代弁者だ。その悪魔とは、重さの霊なのだ。かろやかな者たちよ、どうしてわたしが神々しい舞踏に敵意をもとう。美しいくるぶしをもった乙女の足に敵意をもとう。
手塚富雄訳「舞踏の歌」
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人間にとって大地と生は重い。重さの霊がそう望むのだから。だが軽くなろう鳥になろうと望む者は、みずからを愛さなくてはならない。──わたしがそれを教える。
もちろん、病者の、中毒患者の愛で愛するのではない。そうだとすれば、自己愛も悪臭を放つ。
ひとは、みずからを愛することを学ばねばならない。健やかな、全き愛で──わたしがそれを教える。自分自身に耐えがたくて、さまよい歩くことがないように。
こうやってさまよい歩くことが「隣人愛」と呼ばれている。
佐々木中訳「重さの霊について」
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まことに、わたしは待つことも学んだ。それも徹底的に。──だがそれはわたし自身を待つことをだった。しかし何よりも習得したのは、立つこと、歩くこと、走ること、跳ぶこと、よじ登ること、そして踊ることだ。
だからわが教えはこうだ。飛ぶことを覚えたいなら、まず立ち、歩き、走り、踊ることを学ばねばならない──
佐々木中訳「重さの霊について」
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わたしがわたしの悪魔を見たとき、その悪魔は、まじめで、深遠で、おごそかだった。それは重さの霊であった。──この霊に支配されて、いっさいの事物は落ちる。
これを殺すのは、怒りによってではなく、笑いによってだ。さあ、この重さの霊を殺そうではないか。
手塚富雄訳「読むことと書くこと」
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いつの日か、人間に飛ぶことを教える者が現われたら、その人はあらゆる境界石の位置をずらしたことになる。
あらゆる境界石それ自体が、彼にかかると宙を舞い、彼は大地に新しい洗礼名を施すだろう──「軽やかなもの」と。
森一郎訳「重さの地霊」
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【善人・同情】
とりわけ「善人」を自称するものたちがもっとも有毒な蠅だった。罪の意識もなく刺し、罪の意識もなく噓をつく。
佐々木中訳「帰郷」
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善人たちのあいだで暮らす者は、同情による嘘をつくように教えられる。同情はすべての自由な魂のまわりに、どんよりした空気をかもしだす。善人の愚かさは、見きわめがたいものだ。
氷上英廣訳「帰郷」
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わたしの最大の危険はつねに、ひとをいたわること、そして同情することにあった。しかもあらゆる人間は、いたわられ、同情されたがっている。
氷上英廣訳「帰郷」
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あなたがたの目つきは残忍だ。そして、悩んでいる人たちを、さもうれしそうに、みだらな目をして見る。これはあなたがたの情欲が変装して、同情と称しているのではないのか?
氷上英廣訳「純潔」
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まことに、わたしは他人に同情することで、同時におのれの幸福をおぼえるような、あわれみ深い人たちを好まない。かれらはあまりにも差恥の念にとぼしい。
氷上英廣訳「同情者たち」
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ああ、同情者のしたような大きな愚行が、またとこの世にあるだろうか?また、同情者の愚行以上に、大きな害悪を、世に及ぼしたものがあろうか?
氷上英廣訳「同情者たち」
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偉大な人間が苦痛の叫びをあげると、小さな人間がたちまち、よりあつまってくる。そして快感にうずうずして、舌なめずりする。しかもそれをみずから『同情』と称する。
氷上英廣訳「快癒に向かう者」
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だが、同情はちかごろでは、あらゆる小さい人間たちのもとで、美徳そのものとなっている。
氷上英廣訳「最も醜い人間」
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同情を超えた高みを知らぬ、愛する者にわざわいあれ。
佐々木中訳「同情する者たち」
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勇気は最も優れた殺し屋だ。勇気は、同情をも打ち殺す。同情ほど底なしの深淵はない。
森一郎訳「幻影と謎」
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隣人愛とは、わたしの見るところでは、元来が弱さであり、刺激に対する抵抗不能症の一つのケースである──
同情は、デカダン者流のあいだでだけ美徳と呼ばれるのだ。わたしが同情心の持ち主たちを非難するのは、彼らが、恥じらいの気持、畏敬の念、自他の間に存する距離を忘れぬ心づかいというものを、とかく失いがちであり、同情がたちまち賤民のにおいを放って、不作法と見分けがつかなくなるからだ──
つまり、同情の手が一個の偉大な運命、痛手にうめいている孤独、重い罪責をになっているという特権の中へ差しでがましくさしのべられると、かえってそれらのものを破壊してしまいかねないからだ。同情の克服ということを、わたしは高貴な徳の一つに数えている。
『この人を見よ』「なぜわたしはこんなに賢明なのか4」
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【引用】
氷上英廣訳『ツァラトゥストラはこう言った』(岩波文庫)
森一郎訳『ツァラトゥストラはこう言った』(講談社学術文庫)Kindle版
手塚富雄の『ツァラトゥストラ』(中公クラシックス)Kindle版
佐々木中訳『ツァラトゥストラかく語りき』(河出文庫)Kindle版
手塚富雄訳『この人を見よ』(岩波文庫)Kindle版
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