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ニーチェ「永遠回帰と超人」

『ツァラトゥストラ』がニーチェの主著であり、彼の哲学のすべてが含まれています。この主著のテーマは永遠回帰です。

永遠回帰こそがニーチェ哲学の最重要テーマです。永遠回帰とは、すべてのものが寸分たがわず同一の姿で永遠に回帰することです。同一のことが無限に繰り返されることです。

しかし、その啓示を受けたとき、ニーチェは恐怖を感じました。なぜなら、偉大な者だけでなく、ニーチェが吐き気を催すほど嫌いな「賎民」も繰り返し戻ってくるからです。

それにもかかわらず」ニーチェは永遠回帰にこだわりました。それは、有り余る力を持っていたギリシャ人が悲劇を必要としたように、超人も無限に繰り返される苦痛を必要とするからです。

『ツァラトゥストラ』の超人と、『悲劇の誕生』のギリシャ人は永遠回帰で結びついています。永遠回帰と超人、悲劇とギリシャ人は対応関係にあります。

超人やギリシャ人のように有り余る力がなければ苦痛に耐えられませんし、苦痛を必要とすることもありません。

永遠回帰も超人も太陽から着想を得た思想ですが、ニーチェが理想とした存在は、太陽のような溢れる力と豊かさを持った存在でした。それは、デカダンスやニヒリズム、死とは対極にある存在でした。

超人は、太陽だけでなく、ギリシャ人や無邪気な子供、生成と破壊の神ディオニュソスなど、様々な例えで表現されています。

超人だけが永遠回帰に耐えられるのです。超人にとって、悲劇や苦痛は快楽なのです。逆に、刺激のない平和な世界には耐えられないでしょう。

詩人が悲劇を書くのは恐怖や同情から解放されんためではない、恐怖や同情を避けずに乗り越えて、生成の永遠の快楽そのものになるためなのだ、破壊の快楽をも抱含しているあの快楽に。

『この人を見よ』「悲劇の誕生」

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さていよいよ『ツァラトゥストラ』の歴史を物語ることになる。この作品の根本着想、すなわち永劫回帰思想、およそ到達しうるかぎりの最高のこの肯定の方式は、

​一八八一年八月に誕生したものである。それは一枚の紙片に走り書きされ、「人間と時間を越えること六千フィートのところ」と添え書きされている。

あの日、わたしは、シルヴァプラーナの湖畔の森を散歩していた。ズルライ村からほど遠からぬところにある、ピラミッド型にそそり立つ巨大な岩のほとりにわたしは立ちどまった。

そのときこの思想がわたしに到り着いたのだ。
『この人を見よ』「ツァラトゥストラ」

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見よ、われわれはあなたの教えることを知っている。それは、万物は永久に回帰し、われわれ自身もそれとともに回帰するということだ。

また、われわれはすでに無限の度数現存していたのであり、万物もわれわれとともに無限の度数現存していたということだ。
『ツァラトゥストラ』「恢復しつつある者 2」

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わたしはふたたび来る、この太陽、この大地、この鷲、この蛇とともに──新しい生、よりよい生、もしくは類似した生へ返ってくるのではない

──わたしは、永遠にくりかえして、同一のこの生に帰ってくるのだ。それは最大のことにおいても最小のことにおいても同一である。

だからわたしはふたたびいっさいの事物の永劫の回帰を教えるのだ。──
『ツァラトゥストラ』「恢復しつつある者 2」

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それならわたしはかれらに、最も軽蔑すべき者について語ろう。それは末人というものである。

そのとき大地は小さくなっている。そして、その上にいっさいのものを小さくする末人が飛びはねているのだ。

その種族はのように根絶しがたい。末人は最も長く生きつづける。
『ツァラトゥストラ』「ツァラトゥストラの序説」

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「ああ、人間が永久に立ち帰ってくる。小さい人間が永久に立ち帰ってくる

わたしはかつて、最大の人間と最小の人間の裸身を見た。その二つはあまりにも似かよっていた──最大の人間さえ、あまりにも人間的だった。

最大の人間もあまりに小さい。──これが人間にたいするわたしの倦怠だった。そして最小のものも永遠に回帰すること──これが生存にたいするわたしの倦怠だった。

ああ、嘔気、嘔気、嘔気。──そうツァラトゥストラは言って、嘆息し、戦慄した
『ツァラトゥストラ』「恢復しつつある者2」

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人間にたいする大きい倦怠──これがわたしの首を絞め、わたしの喉の奥深くへ匐いこんだのだ。

そしてあの予言者が予言した「一切は同じことだ。何をしてもむだだ。知はわれわれの首を絞める」ということばがわたしの首を絞めたのだ。
『ツァラトゥストラ』「恢復しつつある者2」

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なに?生はこの賤民をも必要とするのか」毒で汚された泉が必要物なのか。悪臭を放つ火が。きたならしい夢が。生のパンのなかのうじ虫が。

むさぼるようにわたしの生命力をかじり荒らしたものは、かれらへのわたしの憎悪ではなくて、嘔気であった。
『ツァラトゥストラ』「賎民」

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わたしの人間愛とは、他人がどういう人であるかを感じ取ることにあるのではなくて、わたしがその人間を感じ取ることに耐え抜いているということにある──わたしの人間愛は絶えざる克己である

人間にたいする、「賤民」にたいする嘔吐感が、いつもわたしの最大の危険だった。
『この人を見よ』「なぜわたしはこんなに賢明なのか8」

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止まれ、小びとよ」と私は言った。「私か、それとも、おまえか、だ。しかし、われわれ二人のうちで、強いのは私のほうだ──。

おまえは私の深淵の思想を知らない。この思想に──おまえは耐えられないはずだ」──
『ツァラトゥストラ』「幻影と謎」

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ツァラトゥストラという典型における心理学的問題は、これまで人々から然りと言われてきた一切のものにたいして未曾有の程度で否と言い否を行なう者が、それにもかかわらず、どうして否定精神の正反対になりうるかということである。

もっとも重い運命、使命という宿命を負うている精神が、それにもかかわらず、どうして、もっとも軽快な、もっともこの世を離れた精神たりうるか──どうしてツァラトゥストラが一個の舞踏者でありうるか──ということである。

現実にたいしてもっとも苛烈な、もっとも恐ろしい洞察をしており、「もっとも深淵的な思想」を思想した者が、それにもかかわらず、どうしてそれを生存に対して異議を唱える根拠にしないのか、

そしてその生存の永劫回帰に対してさえ異議を唱えないでいられるのか、──異議を唱えるどころではない、さらに進んで、自分があらゆる事物に対する永遠の然りであり、

巨大な無際限の肯定と承認」であるということの根拠を、どうしてそこに見いだしているのか、という問題である・・・・・・

ツァラトゥストラは言っている。「どんな深淵の中へも、わたしは、わたしの祝福する然りのことばを運ぶ」と・・・・・・。しかしこれもまたディオニュソスの概念そのものなのである。
『この人を見よ』「ツァラトゥストラ」

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古来の人間のうちでもっとも上出来で、もっとも美しく、もっとも羨望に値し、もっとも強く生へと誘惑する力を具えた、あのギリシア人が

どうして、ほかならぬ彼らがどうして、悲劇を必要としたのか?

そればかりではなく、芸術を必要としたのか?なんのためなのか、ギリシアの芸術とは?
『悲劇の誕生』「自己批判の試み」

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すなわち、享受と無邪気とは、もっとも羞恥心に富んだものである。両者ともに、求めて得られるものではない

人はそれらを自然にもつのでなければならぬ。もし求めるなら、人はむしろ、罪過と苦痛を求めるべきである。
『ツァラトゥストラ』「新旧の表」

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悲劇はいったい何に由来することになるのか?おそらくは快感に、力に、あふれるばかりの健康に、あまりにも大きな充実に由来することになるのであろうか?
『悲劇の誕生』「自己批判の試み」

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詩人が悲劇を書くのは恐怖や同情から解放されんためではない、恐怖や同情を避けずに乗り越えて、生成の永遠の快楽そのものになるためなのだ、破壊の快楽をも抱含しているあの快楽に

​この意味でわたしは、わたし自身を最初の悲劇的哲学者と解する権利をもっているのだ。ということはすなわち、厭世哲学者の極端な対極者という意味である。
『この人を見よ』「悲劇の誕生」

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小児は無垢である、忘却である。新しい開始、遊戯、おのれの力で回る車輪、始原の運動、「然り」という聖なる発語である。

創造という遊戯のためには、「然り」という聖なる発語が必要である。そのとき精神はおのれの意欲を意欲する。世界を離れて、おのれの世界を獲得する。
『ツァラトゥストラ』「ツァラトゥストラの序説」

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わたしはこの人(ヘラクレイトス)の近くにいると、ほかのどこにいるときよりも、寒さを感ずることがなく、快い気分になる。

かれにおける、流転と破壊との肯定は、ディオニュソス的哲学における決定的要素である。また対立と戦闘の承認、「存在」の概念をすら拒否して憚らない生成の思想──

そこに、わたしはどうしても、今まで考えられたもののうちでもっともわたしに親近関係をもつものを認めざるをえない。

「永劫回帰」説、すなわち、万物は制約のない完全な循環を無限にくりかえすのだという見解、──このツァラトゥストラの教えは、結局はすでにヘラクレイトスによって説かれていたと言っていいのかもしれない。
『この人を見よ』「悲劇の誕生3」

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【引用】

浅井真男訳『ニーチェ全集第一巻 悲劇の誕生』(白水社)
手塚富雄訳『この人を見よ』(岩波文庫) Kindle版
手塚富雄訳『ツァラトゥストラ』(中公クラシックス) Kindle版

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