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信念が強いと他人が見えなくなる。正しいと楽しい食の中庸を考える。

突然だけど、私は台所は聖域だと思っている。朝起きてきて、昨日のお皿を片付ける。布巾を新しいものに変え、タオルを取り換える。豆を炊いたり、ダシを引いたり、コトコト煮込んだり、コーヒー豆を焙煎したり。食材と私が通じる場所、凛とする場所である。祈りの時間でもあり、瞑想の時間。だからこそ、できるだけ綺麗に保ち、無駄を省き、動きやすい動線を作る。できるだけ。

と、神聖なイメージと、丁寧に暮らしてますなイメージ感を醸しつつ、お湯を沸かしカップラーメンに注ぐ。買ってきたコロッケをグリルで温める。いつもいつも料理に時間をかけてもいられない。お腹が空いてどうしようもない時は、台所で立って食べたりする。夕方にはビール片手に料理をするのが楽しい。振り幅は大きい方が面白い。

吉本ばななさんのキッチンを読み込んでいた時期があった。
料理を作ることが自分との対話だったと氣づけた、私のバイブルの一つ。



台所は、昔は位の高い人しか入れない場所だった。毒を盛り、将軍様を死に追いやることもできる。逆に薬を煎じ、薬効のある食材を使って料理を作り、健康にすることもできる。命を預かる場所という考え方。

これを、今の家庭に置き換えてみる。やはりいつでもどの時代でも料理を作る人の役割は大きい。

そこが、無意識ながらにわかってるから、結婚したり、同棲したり、なんせ料理を誰かに作るという事態になったとき、大切な家族や、大切な人のために、美味しくて健康にいいモノを作ってあげたい。という意識が働く。

美味しい!って笑顔がかえってくると、ますます嬉しくなって、また作ろうって思える。

食べてるものの栄養素を知る。陰陽の食材を知る。料理法を知る。レパートリーが増える。できなかったことができるようになる。

きっと、楽しくスタートしてたはず。

ところが、あるときから

これは体に良いからOK
あれは体に悪いからダメ

良いモノは正しい
悪いモノは正しくない

カップラーメンはダメ
ジャンクフードはダメ
添加物たっぷりの総菜はダメ
抗生剤たっぷりの肉はダメ

無農薬の野菜は良い
ダシをちゃんと取ってる料理は良い
手作りの料理は母親の愛情だから良い

いつのまにか
正しい・正しくないに縛られてしまう。

楽しかった、が
やらなくちゃいけない、にすり替わる。

これ、あなたが本当に望んでいる生き方でしょうか?

美味しいね(まずいね)って笑いながら、一緒に食べたり飲んだりする時間を望んでたんじゃなかった?その時間がずっと続きますように、だから健やかに生きよう。そのために食の勉強もし出したんじゃない?

やらなくちゃが増えると、やりたいという心の声はかき消されてしまい、鉛筆の芯みたいに、1つの信念に尖らせる。自分の信じるものが強すぎると、独りよがりになってしまう。大切な人のために、は、本当にその人のためになってるのか。

検証してみる価値は必ずある。



偏ってたと氣づけたら、チャンス。あとは中庸に戻ればいいだけなんだ。両極を知らないと真ん中はわからない。あなたの中庸の幅を決めればいいだけ。

楽しいを見つける。美味しい!に戻る。
自分の中の意識を戻す。変える。

やってみたいは、やらなくちゃいけないを超える。
楽しいは、正しいを包み込む。湧き出る泉のように私たちを元氣にする。


その後で、信念を変えてしまおう。

体に悪いモノが入ってるかもしれない。
良いモノばかりで構成されてるかもしれない。

どんなモノが、体内に入ってきても大丈夫。
どんなに悪いモノでも、必要なモノは取り込み、要らないものはちゃんと排除できる。私は大丈夫。



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