小話:世界が広がる瞬間
何もする気が起こらない。体から魂が抜けてしまったような気がした。大好きな絵も描く気が起こらなかった。私は公園のベンチに腰をかけ、背もたれに脱力してしまった体を預けながら空を見上げた。私の沈んだ気分に反して夕暮れの公園は憎たらしいくらい美しい。
好きな画家の個展を訪れた。あまり有名な画家ではないけれど、Twitterで人目見た時、一瞬で心が惹きこまれた。曖昧な世界の中に陽だまりのようなあたたかさのある絵が私は好きだ。目を閉じると個展で見た木の絵が浮かんで来た。真っ暗な闇の中で内側から光を放つような木。ファンタジーのようでありながら臨場感があって、自分がその絵の真ん前に立っているような錯覚を起こした。
大好きな画家の個展で心躍るような絵を見て、どこかふわふわした気持ちがあるのに、心の大半を占めるのはどうすればよいのだろうという焦りだった。私も絵を描くのが好きだ。絵であの画家のような誰かの心を温めたい。誰かの心を自分の絵で動かしてみたい。いつかは個展をやってみたい。けれども自分の描いた絵は理想とは程遠い。一般的に見るとうまい方なのだろうが、表現という面から見るとやはり物足りない。心を動かすものではない。ずっと書き続ければいつかはと思っていた。しかし今日の絵を見て、心の片隅に書き続けてもあんな絵を描けっこないという思いがちらつく。
ふとカバンの中にある絵の存在を思い出して、カバンを漁った。常に持ち歩いているスケッチブックや色鉛筆が指に当たる。ようやくカバンの底から一枚の小さな絵を取り出した。ただただ絵を描くのが楽しかった時に夢中で書いた絵だ。自分の描いた絵の中では気に入っていたのだが、どうしても今日見た絵と比べてしまう。絵の描き方は人それぞれに良さがあるのだ。全く違う作風だ。そうわかっていても比べてしまう自分が嫌だった。
「こんなもの」とぐしゃっと丸めて、ちょっと惜しくなってまたシワを伸ばす。再びもう捨ててしまおうと丸めてはシワを伸ばす。丸めては広げ、丸めては広げ、何度か繰り返した末にようやくゴミ箱に放り投げた。
がさがさと後ろから音がして、小学校低学年くらいだろうか。幼い女の子が私の横を通りすぎた。先ほど放ったぐしゃぐしゃの塊を拾ってこちらに戻って来る。
「なんで捨てちゃうの? 綺麗な絵だよ」
女の子はあどけない顔でこちらを見て、首をかしげた。
「もういらないの」
絵と共に自分のやるせない思いを投げ捨てるように答えた。
「いらないなら、もらってもいい?」
女の子がその絵を欲しがることがとても不思議だった。あんなものはただの落書き。なんの価値もないもののはずなのにその子の心を掴んでいるのが自分の絵だということが不思議だった。
「いいよ。そんなもので良ければあげる」
ぱっとその子の顔が輝いた。「ありがとう」と頭を下げて、はっと何かを思いついたらしい。ポケットの中から何かを取り出した。
「目つぶって。手をひらいて」
言われたとおりにすると、こつんと硬くて、丸くて、冷たい何かが手の上に転がった。そっと目を開く。
「硝子玉のおすそわけ。空にかざすとお空の世界が見えるんだよ」
女の子はそういうと再び丁寧に頭を下げて、私の絵を胸に抱えて、どこかへ走り去ってしまった。
「お空の世界が見える……か」
あの子の楽しそうな顔を思い出しながら硝子玉を空に透かす。
「あ……」
日の光が透けて、いつもの空がより透明度を増す。空はただ水色だけではなく、硝子で歪んで複雑な青、水色、白がまじりあっている。こんなに美しいものがまだこの世にあったのか、と大げさな表現が頭の中に浮かんだ。透けた光が私の心を温かく照らしてくれるようだった。この景色を絵に描きたい。この美しさを表現したい。
立ち上がった私の頭の中には次に描く絵の構図が既に浮かんでいた。
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