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子供の学びについて考えない勇気

ここ1年ほど、いやここ数ヶ月子供にとって学びとはなんなのか、散々家族で話をしてみた。結局のところ、子供にとっての学びとはなにか、という問いは日本語としては成立するが、実態として存在しない問題であるというのが結論だった。

親は「子供の学び」について「◎◎というところにはいって良い学びをして欲しい」と考える。でもこれはどこまでいっても親の課題であって、子供の課題ではない。子供がどんな学びをしようともそれは子供の課題であって、親の課題ではないんだ。そこを何故か混乱してしまう。親は高いお金をはらって子供に学びをさせたことで満足しないといけないというサイクルに陥る。高いお金を請求している教育者と自称する人間は、自分達の教育メソッドが正しいことをお金もらって証明する。ここに子供はどこまでも不在ではないかとおもう。

もう子供の学びーがいいだの悪いだ、STEAMだーと考えるのは終わりにしよう。読み書きそろばんができればそれでいいんだ。あとは子供が他人に頼れるという自立ができて、社会の一員として生きられるように支援していくのが親の課題ではないかと強く感じている。

昨日、アドラー心理学に基づく育児プログラムのパセージだって、どこまいっても「子供への教育」はどこにもなくて「親への教育」しかないと気がついた。つまりどこまでいっても子供に教育なんてやるのは親のエゴであって、親が子育ての方法を学んで日々実践していくということである。

不適切な中核的感情欲求を満たさないスキーマではなくて健全なスキーマを持つとか、よくわからないけどやってみるような勇気を持つとか、よくわからないけどこの人についていけばいいやという師を見つけるとかそういう感覚が持てればいいんじゃないか。そのためには普通の生活で普通に生きられるスキルがあればいいんじゃないかとおもう。

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