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負の注目をしない努力は存在しうるのか(きっとない)

月曜日はアドラー心理学周辺などの話を書いていきます。
近いうちに有料noteに移行します。

 本当は先週の月曜日にアドラー心理学をテーマに書き始めようとおもっていた。でも何故かうまく書き出せないうちに月曜日がおわってしまってまた月曜日が来てしまったので書いてみます。

 アドラー心理学に基づく育児プログラムであるパセージについて学んでみると「親はこんなに怒らなくていいんだ」ということを理解できます。でも現実には怒ってしまう。どうやったら怒らなくできるのか、ということについて「正の注目」などをつかってともかく怒りという感情をなくすような行動をとるようにします。

 ところが、自分が親からされたことについて、スキーマとの対話を行なって和解をしたはずなのにどうしても食事の件の態度について注意をしたくなってしまう。でもよく考えてみると子どもの態度に怒りの感情が発生しているのではなく、「食事のときにはなにかを怒らないといけない」ということが前提になるのではないかと気がついた。この状態で正の注目をしても、正の注目の中にある負をみつけて、注目をしてしまうことになる。

 じゃあどうすればいいのか?そもそも子どもの態度になにも感じないようにすればいいのではないか。でも感じないという努力をすることは、感じることが前提になっているので、やはり感じてしまう。思考の海をさらに深く潜ってみよう。子どもの食事中の行動について、「食事の場にいる」という感じ方以外まで目を細めるようにしたらどうだろう。するとあらゆる行動が「食事の場にいる」という感じ方以外できなくなる。つまり負の注目をしてしまうのは、子どもの行動を細かく観察したいという目的によってにおきてるのではないだろうか。すこし感じ方のセンサーが敏感な状態をどうやっておとすかという視点でパセージのプログラムをみてみると、常に正の注目ができるような状態になってるかもしれない。

 ほとんどの親が感じている問題は子どもの態度の問題である。しかしそれは親の感じ方によって変わってくる。私の場合は、食事中箸を落とすだけで「ドジ」といったレッテル貼りや、いきなり後頭部をはたかれるとか、そういうことをされる。親はこの行為を躾という言葉ですべて説明できるような仕組みになっているのがそもそも問題である。別に箸をおとしたくておとしたわけでもないし、きっと箸をおとしたことない人間は誰もいないはず。そう考えると親のレッテル貼りは怒りといった行動は、親がその場の子ども行動を怒ることで端的にいえばストレス発散していたのではないだろうか。子どもの側からみると親の怒りについて一貫性を見いださないと、それこそ死んでしまうので、そこで不適切なスキーマが生まれるのだろう。

 あまりに深いところまで潜ってしまったので、アドラーの考え方に戻ってみます。食事のときの不適切な行動は親にとっても子どもにとってもだれ困らない。親にとっては負の注目がしやすい機会があるだけだ。負の注目をしないと努力をするよりも、負の注目をしてしまうような感受性を少し落としてみるといいかもしれない。もっと体も心も楽に生きてもいいはずなんだと思う。

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