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探求について考え直してみる必要がある

冬休みの宿題でジャック・ラカン「精神分析の四基本概念」とエマニュエル・レヴィナス「タルムード四講話」を同時に読み進めてみている。さらに副読本として、「精神分析の四基本概念 解説」という本を読んでいる。そこの中で、ラカンは精神分析は科学かということについて、話をしている。ここで探求というキーワードが出てくるので、ここにフォーカスを当てて考えをしてみたい。

ラカンの文章を引用からスタートしてみよう

興味深いことに、このことは科学といわれるもに関する十分きちんと定義された最前線に当てはまることです。またおそらく、探求する研究と、宗教の領域には何らかの親近性があります。「私をまだ見出していないなら、私を捜し求めることもないだろう」、これはよく言われることです。「すでに見出していること」がつねに、背後にあるわけですが、それは忘却という次元のなにかを刻印されています。ですから、そのときに始まるのは、心地よい漠とした研究になってしまうのではないでしょうか。(P10)

一読しただけではなにをいってるかよくわからない文章なので、「解説」のほうの該当箇所の引用を参考にしながら読み進めていきましょう。

ラカンによりば、「科学」には「探求の領域」と「発見の領域」の二つの領域がある。「探求するためにはすでに発見していなけれればない」わけだが、しばしば「科学」もまたすでに「発見」された知の枠組みを無根拠に前提にし、その枠組みの中で「探求」する。「すべての科学は纏まった一つの体系、いわゆる大文字の世界という体系に依存している、というデュエムの要請を受け入れることはできません。」それは結局のところ「観念的な」前提にすぎず、「実証主義的に暗に含まれる超越的補足」なのである。その領域における科学の「探求」は、むしろ神が発見されていることを前提にする宗教に近いが、精神分析はそのような意味でも宗教にも科学にも与しない。精神分析は「研究=探求」ではなく、あくまで「発見の領域」に関わるものといわれるものである。(P10)

探求という行為自体は、それ自身がすでに発見されている前提から逃れることできないという点において、探求にはなり得ないのである。この前提を理解していない探求は、探求ではなく、答えがある探求となってしまう。

探求という行為についてどのように扱えばいいのか?ラカンはあくまで精神分析の科学について議論をしているが、我々が探求について考えるには十分すぎるだけの情報量がここには存在している。

再び、ラカンの文章に戻ってみる。

科学の特徴、それは対象を持っていることです。科学は、「実験」と呼ばれる再現可能な操作によって定義される対象を少なくとも持っている、ということです。しかし、我われはきわめて慎重でなくてはなりません。というのはこの対象は変化するからです。とりわけ科学の進歩について変化するからです。現代物理学の対象は、のちほど申し上げるように、十七世紀に位置づけられるその誕生の頃の対象と今でも同じであるとなどと言うことは出来ません。また現代化学の対象は、科学が誕生したラヴォワジェの時代の対象と同じでしょうか。(P11)

ラカンで対象とみると大文字の他者といった概念が降り注ぎます。しかしここは純粋に対象として解釈していいようです。その上で、再現可能であることを要求される科学は、探求することによって、対象自身が変化していくのです。この対象の変化を探求の対象として考えるときには常に要請されていると考えられます。

つまり探求を行うということは、探求自身より常に探求のためのそれ自身が発見されている前提があり、そのことを深く認識した上で、探求により対象が変化しつづけることを認識しなければいけない。

そのことを踏まえてラカンは「実践から再出発しなければいけない(P11)」としている。つまり実践とはフィールドワークであるかもしれない。このセミネールXIがレヴィ・ストロースによって配慮して行われていることと、ストロースの「親族の基本構造」を考えれば対象について探求をおこなうことが構造主義そのものではないかと思えてくる。

では探求型学習とは存在しうるのか、という今回の根本の疑問に迫ってみたいとおもいます。学習である限りなにかを学ばないといけないという縛りが存在するはずである。つまり、探求を行うことでなにかを学習してほしいという意図が存在する以上、それは探求としてありえないのである。先ほどもいったように探求が、それがそれ以前に存在してることを前提としている以上、学習である限り、その前提の先にある「何か」を既定することでしか学習としては存在しえないのである。

その「何か」を規定することによって得られた学習とはなんだろうか。探求の追体験ということが可能かどうかということになる。しかし、既定された「何か」がある以上、それは既定された追体験でしかなく、それは純粋な意味でも経験にはなりえない。つまり、学習してほしい設計よりも常に下回る経験にしかならない。これではこの形の学習は学習としても、探求としても存在しえないことになる。

では、どのような形であれば存在できるのだろうか。それはラカンの言うとおり、純粋な対象の変化を認識し、常にフィールドワークをすることでのみ探求は成立する。つまりその行為自体が探求型学習そのものであり、探求型学習と探求について考えると反復同義として戻ってきてしまうのである。

逆に考えれば、探求型学習をしようとする限り探求になることはできない、ということがラカンの定義から読み取ることができる。さらにいえば学習設計者が探求型学習といった瞬間に、それはすでに探求の形をとった恣意的ななにかであることを意図していることを意識しなければいけないのである。

最後にレヴィナスの文章を引用して終わりにしましょう。

かの危惧を私たちは共有してはなりません。それを理解するだけで十分です。トーラーが語ってくれる物語の終わりでは、探索者たちが、その疑惑ゆえに、そしてこれから見てゆくことになりますが、その良心の疚しさゆえに、厳しく罰されることを忘れてはなりません。私たちがここでどんなことを話そうと、探索者達の内面的危機をどう忖度しようと、物語の終わり方と、それが教える有罪宣告が忘れられてなりません。(P151)

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