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問題の解決は必要か?
我が家ではテレビをつけると気がつくとNetflixになっているので、ほとんどテレビをみません。時たま朝早い時間で一人の時にニュースをみていると児童虐待とか辟易とするものが流れています。その後Twitterなどをみていると原因はだれだ、犯人はだれだ、世間が悪いんだとか話になります。
こういうのをみて一つだけ言えることは「問題を解決しようとする限り問題は解決しない」ということです。問題の解決された状態は常に問題よりも後にくるのです。つまり問題が発生することが前提になっている。
じゃあどうすればいいのか?
「オレが責任を取るよ」という言葉を言う人間が一人増えるごとに、その集団からは「誰かが責任を取らなければならないようなこと」が起きるリスクがひとつずつ減っていくのです。(内田樹「困難な成熟」より)
これを一歩、いや10歩進んで9.9999歩もどってもいいので進めてみようとおもいます。我々は問題に出会ったときにそれを規定する言葉にした瞬間にある種の概念に押し込めて型にはめようとしてまっているはずです。それが言葉であるからである。ところがその言葉だけをつかうと人によって概念が微妙に違ってしまう。これが問題が解決できない本質ではないだろうか。
だからどうすればいいのか。
問題を規程した概念について、他の人がどのような認識でいるのかということについて問いを発しし続けることが必要なのではなかろうか。その問いには答えがある必要ではなくて、「他者」がどういう概念でいるかと考え続けることを「他者」と交換し続けることではないだろうか。
そうすればその問題についての概念自体の共有がおき、そもそも問題自体が発生することがなくなるのではないかと思う。
たとえば今起きている児童虐待の話だって、児童虐待が何故起きるかということを問うてもなにも解決しない。解決するためには、「児童虐待とはなにか?」という問いについて考え、「他者」が「児童虐待はなにか」ということを考え続け、それについて「他者」と話会うことが、児童虐待が起きない最善策であるということである。
「他者」についての概念についてはレヴィナスを思考することでまた無限に広がってくるが、ともかくこういう問いを立ててみるのも一ついいのかもしれない。
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