ラストメッセージ(4)ガンと闘うな、痛みと仲良くなれ

〔末期ガンをサーフする3〕

ステージⅣの食道ガンが見つかって10か月がたとうとしている。
先日は市役所に出すための介護保険の申請書を書いたが、病名を「末期ガン」と記入した。
「末期」である。
このあとはない、ということだ。

担当医とも当初から「根治をめざさない」という方針で同意し、そういう方向で治療をすすめてきた。
治療といっても、ガン根治が目的ではなく、日常生活ができるかぎり快適にすごせるようにするための治療である。

私のニーズは「生きのびる」ことではなく、「ガンを根治する」ことでもなく、「できるだけ生活のクオリティを落とすことなく毎日を快適にすごし、日々の時間をじっくりと味わいながら、やりたいことを心おきなくやりつくすこと」である。
「死ぬときまでできるだけ生き生きと生きること」である。
そのことは複数いる担当医も合意してくれている。

合意に至る前の、セカンドオピニオンをもらった医師のなかには、従来のような暴力的で強圧的な「あんた、のんきなこといってると死ぬよ。なんとしてでも生きぬく、その意欲を示してもらわないと、医者もそれに応えられないんだよ」と迫った者もいる。
その医師の熱意はありがたかったし、ある意味では職業倫理の深いすばらしい医師なのかもしれなかったが、いまの私には同意できない。

私はガンと闘わないことを選択した。
ガンと闘うことを選択するというのは、まずは抗ガン剤、そして放射線治療、摘出手術、さらに重ねて抗ガン剤という標準治療といわれる手順=ベルトコンベアに乗ることだ。
私はそれを選ばなかった。
近代的な専門病院や専門医は、そんな患者の意志を最大限尊重してくれることもわかった。

根治を目的としなくなったとき、治療が目的の消化器外科や化学療法科や放射線科といった病院の治療部門は、やることがなくなる。
ガンがどの程度進行しているのか、お願いすれば検査くらいはしてくれるかもしれないが、そもそも治療をしないので一見かなり冷たい対応となる。
しかし、こちらにはまだ気がかりがあって、快適に日常生活をいとなむには、たとえば痛みの問題があったり、食事や排泄に支障があればそれに対処したかったりする。

私の場合、食道にガンがあって、それがしだいに肥大して食道をふさいでいった。
食べたり飲んだりしたものが食道を通りぬけにくくなってきたのだ。
そのため、抗ガン剤による治療はおこなわず、また摘出手術もしなかったが、放射線照射治療はおこなった。
医師が食道閉塞には効果的だろうという判断をしたからで、私もそれに同意した。

食道のガン部位への放射線照射治療は全部で30回おこなった。
その結果、ガン部位はかなり縮小して、飲食にはほとんど支障がないほどまでに回復した。
これはありがたかった。
なにもしなければ食道はやがて完全にふさがり、水も通らなくなっただろう。
胃瘻をおこなうか、ステントを入れて強制的に通り道を確保するしかない。
あとは栄養失調で死にいたる。

食道への放射線治療はうまくいったが、今度は腰と下腹部への痛みが出てきた。
腹部大動脈の脇にあるリンパ節に転移があって、そちらが増大化・肥大化しているらしいが、痛みはそれが原因かどうかよくわからないという。
たしかに、腰とか下腹部はリンパ節から離れているような気がする。
医者も首をひねっている。
が、効果があるかもしれないということで、腹部への放射線照射治療を10回だけおこなうことになった。

現在、その治療が終わって10日ほどたつのだが、目立って効果が出たようには感じない。
つまり、痛みは相変わらずあるし、むしろ強まっているような気もする。
(ゆっくりとでもいいので効果が現れてくれるとうれしいのだが)

やれることは全部やったので(放射線治療はおなじ箇所には二度とできない)、あとは対症療法で毎日が快適にすごせるように工夫するのみ。

もっかのところ、最大の問題は痛みだ。
痛みがあると集中力もなくなるし、そもそもやる気がいちじるしくそがれる。
なにもやる気になれない。
ご飯もおいしくないし、ただじっとしているだけでもしんどい。

幸い、近年の医療は緩和ケアが進んでいて、さまざまなペイン・コントロールの方法や薬が出ている。
私は医療用麻薬のオキシコンチンを処方してもらって、最初は5ミリグラムを日に2回飲んでいたが、昨日から10ミリに増量した。

麻薬というとなんとなく聞こえが悪いのだが、痛みは緩和されるし、思ったほど副作用は強くない。
それほど眠くもならない。
集中力はそがれないし、感覚も鈍くならない。
鈍くなるのは痛みだけで、その他の感覚はいつもどおりというか、むしろ鋭敏になるくらいに思える。

完全な健康体とおなじ快適さとまではいえないが、ある程度快適な状態で私はやりたいことができる。

さて、ペイン・コントロールがある程度できて、ほかにはとくにやるべきことがないという状況のいま、私はなにをやりたいのか。
なにができるのか、そしてそれは本当にやりたいことなのかどうか、残り時間がどのくらいなのかわからないが、あまり多くはないかもしれない時間を使ってやるだけの価値が自分にとってあることなのかどうか。
私の生命が欲している本当のニーズはなんなのか。

これから私はそのことについて、自分の存在そのもの——とくに身体——とじっくり対話を重ねてみようと思っている。
いったい私自身はどんなことを望んでいるというのか、身体はどんなふうに答えてくれるのだろうか。

それを実行した結果、私にはどんなことが起こるのだろうか。
ガンは変化するのだろうか。

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