エッセイ / 返信ができない人間でごめんなさい
おなじ「文章を書く」という行為でも、それによってエネルギーが充電される場合と、消費される場合とがあることに気がついた。
私は今年の初めから、1日1つnoteを書くことを日課にしている。書きそこねた日も数日あったものの、今日までおおむね毎日投稿できていて、筋金入りの三日坊主である私にしては大健闘だと思う。
その裏で、本業(?)である弟子としての修行も、今年の初めから急に忙しくなっていた。去年の暮れから作り始めた小屋を1月中旬までに完成させるべし、という師匠からのお達しがあったからである。
正直かなりきつい、というか無謀な納期で、日付をまたいで、しかも氷点下まで気温が下がるなか屋外で作業をし続ける日もあったし、週に2日の休みも毎週作業に充てられた。
寒いなかでの体力仕事はもちろん、未経験でセオリーも要領もわかっていない仕事に取り組むことは、かなり気力と体力を消耗することだった。設計ミスが発覚し、大きなやり直しが発生したのも一度や二度ではない。私を含め、弟子はみんな心身ともにクタクタになっていた。
そんななかでも私は、ほぼ毎日noteを書いたのである。
どんなに疲れて部屋に戻ってきても、文章を書きたいと思ったし、日中のきつい作業の最中も、今日はどんなテーマでnoteを書こうか、と考えることを糧にしていた節があった。
一方で、誰かからの連絡にはほとんど返事ができなくなっていた。疲れ果ててしまい、返信内容を考える気力がどうしても湧かなかったのである。
「こいつnoteは更新しているくせに返信をよこさないぞ」と不信を買うんじゃ、という不安もあった。傍から見たら、noteを書くほうがよっぽど気力がいるように思えるだろうから。
でも私にとっては、noteを書くことは今日を生きるために必要なこと、つまりは充電のような、祈りのような行為だったのだ。
そんなことを考えていた矢先に、友人のシェアでこんなツイートと出会った。
驚いたのは、約5万人もの人がこのツイートに同意(いいね)を示していたことだ。うん、改めて、5万人ってすごい数字だよなぁ。
ある行為が、その人にとって充電の役割を果たすのか、はたまたエネルギーを消費するのかは、人によって本当に様々なんだと思う。消費されるエネルギー量はどれほどなのか、ということも。「なぜその程度のことができない?」と誰かに対して思ってしまったとき、そのことをいつも思い出していたい。
そんな前提を、少なくとも5万人とはすでに共有できているのだとしたら、それはすごく希望だなぁと思う。あとはみんなが、そんな自分とみんなを理解し、心から許してあげられたらいい。そうすれば、世界はすごくやさしい場所になるんじゃないか。
こうして私は、このnoteが連絡が滞っている関係各所への免罪符の役割を果たしてくれることを願ってやまないのであります。
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