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自分が何者かを振り返る①

自己紹介するにあたり


自分がどうやって今の自分になったのか、過去を
振り返ってみようと思います。

最近はスタートアップ企業で管理部門立ち上げやIPO準備などに携わることが多いのですが、過去のキャリアの中で最も長く、深く携わっていたのは「キャラクターIPビジネス」です。
広告会社勤務時代からこれに携わっていたので通算16年くらいでしょうか。

20代後半で大手広告会社からクリエイティブブティックを立ち上げる業務に携わり、そこで著作権管理やキャラクターIPビジネスを学び、30代で起業し、キャラクターIPビジネスで10年ほど会社を経営していました。

振り返ってみると、大学3年以降の人生のほとんどをメディア・エンタメ業界で過ごしてきました。


「どこかで誰かが救われている」


「自分が関わる仕事によって、どこかで誰かが救われている」という仕事に関わること。
これが、私が仕事を選ぶ際のポイントになっていたようです。
これだけ長い期間、メディア・エンタメ業界に生息していると、他の業種では、もはや「使い物にならない」のではないかとも考え、なんだかんだとこの領域で活動を続けています。

考え方の原点


仕事に対する考え方の原点となった体験があります。
30代の頃、キャラクターIPマネジメントを柱とするクリエイターのマネジメント会社を経営していました。扱った作品の中に、世界中で放送された幼児向けアニメがありました。日本では「おかあさんといっしょ」という番組で放送されていた「でこぼこフレンズ」という作品ですが、この作品をアメリカで見た子どものお母さんからメッセージが届きました。「アニメを見て、自閉症で家から一歩も外出できなかった娘がドアを開けて外に出ることができた。ありがとう。」という内容でした。
この1通のメッセージは、私の人生に大きな影響を与えました。自分がエンタメ領域の仕事に携わる理由が見つかった瞬間でした。

そもそもどういう経路で世界にアニメを発信するような仕事に関わることになったのか、過去から簡単に(済むかな?)自己紹介を含めて書いてみようと思います。

子ども時代のこと


私は大学で経営分析を教える父と、ピアノ講師の母のもとに東北の地方都市で生まれました。3歳でピアノを弾き始め、小学生の時に出場したピアノコンクールでスカウトされ、東京の先生のもとに毎週末レッスンに通うことになりました。小学5年生でした。当時はまだ新幹線が通っておらず、上野まで片道3時間半かかりました。(途中で新幹線が開通しました、大宮どまりでしたけど。)

東京にレッスンに通うこと8年


始発で地元を出発してピアノ(レッスン時間は長いと3時間ほど)と楽典(音楽の学術的なもの)と、ソルフェージュ(聴音とか初見とか)と3人の先生をまわり、終電で帰るという生活を小学5年から高校3年までの8年間続けました。(下落合、神楽坂、吉祥寺といった町を毎週レッスンのために訪れていました)
第一志望だった音楽高校の試験に落ちたため、一夜漬けならぬ一か月漬けで猛勉強の末、奇跡的に滑り込みで地元の進学校に入学しました。
長い人生を振り返ると、結果的には高校は進学校で良かったと後から痛感することがしばしばありました。
高校で学んだ数学や英語や国語の学習経験は学力の基礎となった気がしています。
効率的に物事を進め、諦めずに最後まで業務をクローズする力は若い頃の経験で養われたのかもしれません。
あと、酔っぱらったオジサンとのトーク術(帰りの車中、身に着けた技)。

大学進学の方針


大学進学は2つの方向で迷いました。一つは国立大学の教育学部の音楽科に行き、教職の道に進むこと。もう一つは音楽大学に進み、音楽家か音楽を学術として探求すること。

音楽高校受験に失敗した私は、高校に入った2か月間ほど、ピアノの先生についていませんでした。地元にいらしたあるピアニストの公開レッスンに出てほしいと依頼され、試しに出演したところ、面白い先生がいるから紹介したいと後に進学する大学の先生を紹介されたのです。この先生のレッスンは本当に楽しく、音楽の面白さに改めて引き込まれたのでした。そして、
この先生が教鞭をとる音楽大学を受験し、進学しました。
高校3年間と大学4年間の7年間は同じ先生に師事していたということになります。

東京大学ピアノの会


音楽大学というのは特殊なところで、生徒全員が音楽家(当たり前)です。私が在籍していた時は景気の良い時代背景もあって、同じ学年にピアノ科だけで550人も生徒がいました。私のクラスは「こ、さ、し」から始まる苗字だけw。校舎を歩けばあちこちから様々な楽器の音が聞こえ、全員そこそこ上手いし、とんでもなく才能豊かな人もいる。
個性的な人も多く、毎日違う鳥の羽で飾られた貴族みたいな帽子を被ってくる生徒や、フェラーリやポルシェで通学してくる生徒、胸にバラを挿してくる先生と、様々でした。あの「のだめカンタービレ」のリアル野田さんの母校でもあります。
「大学の中で生活していたら、著しく社会性に欠けた社会人になりそう…」という勝手な焦りをもって、きっかけは不明ですが東京大学のピアノサークル「ピアノの会」に入りました。この行動が、その後大きな影響を与えることになるとは、この時はまだ考えていませんでした。


※あれ?結構頑張って書いたのに大学卒業までもいけなかった…
To be continued…


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