文劇3がとんでもなかった話

初めに


 このnoteは舞台『文豪とアルケミスト 綴リ人ノ輪唱』のネタバレしかない記事です。何なら前作、前々作の内容にもずかずか踏み込むのでまだご観覧いただいていない方は「とんでもねぇんだな」って事だけ理解して閉じてください。ご観覧後にふとまた読みに戻って下さったらちょっと嬉しいです。








軽い気持ちで観るもんじゃねぇ

 2020年9月12日13時05分。運命の始まりである。この時の私はまさか自分が約2時間半後に泣き崩れているとはこれっぽっちも思っていなかったわけである。
 今日は舞台『文豪とアルケミスト 綴リ人ノ輪唱』の初日である。このコロナ禍の中、私は生配信での観劇を選んだ。そして初回である昼公演を選んだのは、夜公演の時間に用事があるからだった。そのくらいの軽い気持ちだったわけである。
 どれくらい軽かったかというと昨日の晩まで「あー、そう言えば明日から文劇じゃん……初回なら明日観れるな、誰か一緒に(通話しながら)観るなら明日の昼公演観よ」くらいの気持ちでいたくらいである。


 で、実際今朝フォロワーに呼びかけたのがこちら

 幸い観るというフォロワー(しかも後述の通り、前作、前々作を一緒に観劇した友人だった)がいたのでe+と格闘しながらなんとか配信チケットをもぎ取った。

 開演時間前に友人と通話をし始め和気あいあいと「今回はどんな展開で来るかな」「ついに一推しキャラが舞台に出る~!」と話していると舞台の照明が絞られ、BGMが大きくなり、そして文劇3は開幕した。

 結論から言おう。
 これはとんでもねぇもんを観てしまった……
 これに尽きる。これしかない。本当に見終わった後言葉にならず、劇中盤からずっと続いていた沈黙は重く二人に圧し掛かる。
 どうしてくれるんだ文豪とアルケミスト、私はこの後病院に行くんだぞ……「アレルギーどうですか~痒くないですか~」とか聞かれるんだぞ……症状の経過全部吹っ飛んだわ……
 そんなことを考えつつ、『この感情は文章化しないとだめだ』と謎の使命感に駆られる私。そうして私は感想レポなるものをこうして初めて打っているわけである。

舞台『文豪とアルケミスト』とは?

 多分文豪とアルケミストを知らない人がこのnoteを見る事は無いとは思いますが簡単に説明をしておきます。

 『文豪とアルケミスト』というのはDMM GAMESから配信中の「文豪転生シミュレーションゲーム」である。良く分からないと思うが『近代文学の作家を錬金術で転生させて文学を抹消しようと目論む侵蝕者と戦うゲーム』である。女性向けゲームとして開発されている為、転生する文豪は皆イケメンだ。みんな顔が良い。最近は海外の文豪も転生する様になった。

 そして舞台『文豪とアルケミスト』というのはこのゲームを原作としたメディアミックスの一種、いわゆる2.5次元作品である。ゲームに登場するキャラクターを俳優が演じるのである。

 舞台『文豪とアルケミスト』は公式略称として『文劇』と呼ばれているので以下、そのように呼称する。この文劇は今回三作目で、第一作目の『文豪とアルケミスト 余計者ノ挽歌』(以下、文劇1)は2019/02/21~03/10まで東京と京都の二か所で上演された。そして2019/12/27~2020/01/13の日程で第二作の『文豪とアルケミスト 異端者ノ円舞』(以下、文劇2)が大阪と東京で上演された。

 私は上記二作品を劇場で観劇した。正直2.5次元作品にあまり触れてこなかった私だがとても良い作品だとおもった。脚本はシリアスに寄りすぎずコミカルな場面がかなりあった。しかしながら『文アル』の持つ信念からは外れずに描かれ、時には涙あり、熱い展開もあり、そして伝えたいテーマがはっきりと描かれていた。どちらもすっきりとした終わり方で胸のすく思いだった。

 文劇2の千秋楽で2020年秋に第三作の公演が決定したと告知されて私たちファンはそりゃあもうワックワクだった。

 そんな中でこのコロナ禍である。

 4月に緊急事態宣言が出されて以降、演劇に限らず様々な娯楽、芸術、文化が『不要不急』と言われて封じられた。

「本当に予定通りに今年中に文劇3は見れるんだろうか……」

 そう心配していた我々だったが、徐々に第一波の感染が落ち着き、第二波が来る中でもなお文劇3は上演される運びとなった。コロナ禍の中での新しい生活様式に合わせた、席を減らしての公演だったがそれでもやってくれるだけで大満足だった。

 そしていざ開演したら今回の文劇は今までの文劇とは鋭さが違った。
 これが終了直後の語彙力も安定した情緒も何もかもを失ったオタクの呟きである。

 もう人間の形を留めてねぇな、コレ……

 果たしてワクワクで観劇を始めたオタクを文劇3がいかにとんでもない角度から刺していったのか。それを一つづつ言語化していこう。

あらすじ

※ここから完全にネタバレになるので注意してほしいです。

 まず関連する文劇1、文劇2のあらすじです。

文劇1
 話は太宰治芥川龍之介を含む文豪が転生をしたところから始まる。彼らは文学を侵蝕し、この世から消し去ろうとする侵蝕者と戦うという使命をもって転生をした。しかし、転生直後に芥川は自分が師である夏目漱石に見いだされた『鼻』に関係して友人を深く傷付けたことを思い出し、負の感情に押しつぶされる。結果侵蝕者に身体を乗っ取られてしまうが、太宰や他の文豪たちの助けもあって侵蝕者を打ち破ることに成功する。

文劇2
 文劇1の後の図書館の話である。新たに転生していた白樺派の文豪、有島武郎の『カインの末裔』が侵蝕された。その侵蝕は白樺派と呼ばれる三人の文豪を狙った一連の侵蝕現象の始まりに過ぎなかった。
 武者小路実篤の持つ親友・志賀直哉への嫉妬心に付け込み二人の本が急激に侵蝕されていく。しかし、二人は互いに本音をぶつけ合い、無事に侵蝕者を倒して自らの文学を守るのであった。

 さて、ここからが本題なのでくわしく。

文劇3
 話は太宰治が謎の男―――館長と呼ばれる錬金術師に転生させられるところから始まる。彼はそこで生前会う事が出来なかった憧れの芥川龍之介と出会う。舞い上がる太宰だが、その場には北原白秋、室生犀星、萩原朔太郎も転生していた。生前、近所に住んでいて仲の良かった室生、萩原と気の置けない会話を交わす芥川。更に芥川は北原を尊敬しており、敬意を払っていた。そんな姿に嫉妬を滲ませる太宰をからかうのは中原中也江戸川乱歩の二人だ。そんな中、北原の『からたちの花』が侵蝕されてしまい文豪全員が北原の作品世界に潜書し、浄化に成功する。その際に太宰は北原に怪我を負わせてしまうが、北原は補修後にそれを太宰に感謝するのであった。
 太宰は、現実で見た醜いもの、目をそむけたくなるようなものを文章に押し付けることなく望まれる優しい世界、美しい言葉を書き続けられる北原に感心するが、北原は「自分が書きたくないものを書く事もあった。自分が書いたものが戦争のプロパガンダに利用された事もある」と語り、自分の思ったこと、見たものをそのまま全てぶちまける太宰の『正と負両極端な性質の個性』を褒めるのだった。
 北原への嫉妬を無くした太宰は芥川と話し、軽傷を負っていた芥川に「次に侵蝕者が現れたなら自分が二倍働くから休んでてください!」と言う。自分に対しての憧れの強さと自分の死によって太宰が受けた絶望を理解した芥川は「この事態が収束したら友達として君の本を読みたい」と太宰に告げる。
その言葉に狂喜乱舞した太宰は館長にどうやったらこの事態は収束するのかを訊ねる。館長は「侵蝕される作品は“望まれない作品”が多い。その場合、本当に侵蝕を止める事が正しいのか?」と語り、太宰に「侵蝕を見過ごせば、君と芥川の作品だけは消えないように取りはかろう」と取引を持ち掛ける。太宰はそれを飲むのであった。
 一方で江戸川と中原と北原も侵蝕者の謎について意見を交わす。江戸川は「侵蝕が作者の負の感情から生まれるのであればどの時点で負の感情が侵蝕者に変化するのか、法則性が全くないのであれば『誰かが意図的に作品を消そうと目論んでいるのではないか』?」と自らの推理を披露する。
 そんな中、江戸川の『怪人二十面相』が侵蝕を受ける。北原、室生、萩原の三人は江戸川の作品世界に入り、侵蝕者と対峙する。一方で図書館に残っていた太宰のもとに自著を侵蝕された江戸川の看病をする為に残っていた中原がやってくる。彼は再び北原の作品が侵蝕されたので、浄化に行こうと太宰を誘うが、太宰は館長との取引を守り返事を濁して中原を見送る。中原と入れ違いに太宰のもとにやって来た芥川は太宰に詰問する。自分の分まで二倍働くと約束したのは嘘だったのかと。太宰はここだけの話、と館長の話を芥川に打ち明けるが、結果として芥川からの信頼を失ってしまう。
「君には失望したよ」
 そう芥川に言われた太宰の中に深い絶望が生まれた時、館長が現れ太宰の中に生まれた負のエネルギーを奪う。館長の正体は『戦前の軍国主義時代』を象徴とする錬金術師であった。苛烈な全体主義者である館長は後世に残り人に個性を生み出す様な作品を『意図的に消し去ること』を目的としている黒幕だったのだ。
 太宰が目を覚ますと、そこには江戸川と中原がいた。芥川は館長の手から太宰を救うために散った。黒幕である館長の野望を阻止するべく、三人は江戸川の作品世界へといっている残りの文豪と合流しようとした。しかしその前に北原たちと館長が出会ってしまう。北原は館長の正体に気が付いていた。三人を抹殺しようとする館長の前に中原が割り込み、館長へと特攻するが及ばず、孤独の詩人は北原たち三人に看取られて二度目の死を迎える。その後、萩原も侵蝕者の手に掛かり親友の腕の中で死んでしまう。怒りに満ちた北原は、侵蝕者たちに足止めをされながら叫ぶ。


「もしお望みなら、この世からすべての文化芸術を消し去ったらいい! 小説も、絵画も音楽も、詩集も短歌も! 全て消し去ってみたまえ! その後この世界に何が残るのか……すなわち、人の心に何が残るのか!!」

 北原は館長を圧倒し始めるも、徐々に体に限界が訪れる。窮地の北原を救ったのは太宰であった。彼は館長を深い深い闇の奥へと突き落とす事に成功する。
 館長が去った後、室生は生前萩原が亡くなった際に詠った詩を詠みながら月を眺め、江戸川と感傷に浸る。しかし、室生は先程自分の腕の中で死んだはずの萩原の姿を発見する。急いで北原の元に戻ると、北原は萩原の姿に擬態した館長によって殺害されていた。
 蘇った館長を前にして何故ここまでするのかという疑問に江戸川は「生前の没年順に転生させた文豪を殺す事によって、再び同じ地獄を味合わせようとしている」と推察した。そして、残された太宰、室生、江戸川も館長と彼が呼び起こした侵蝕者によって散っていった……。
 文学の敗北。それを確信する館長だったが、最後の力を振り絞り、三度地獄の底から舞い戻った太宰と最後の戦いとなり、結果、館長は破れ去ったが、また、文豪も全員が死んでしまう。

「文学は必要がない。煩わしい個性を生む文学など必要がないのだ」

散り際に館長はそう言い残して散っていった。

太宰は最後に言い残す。

「もしまた転生できるなら……今回のアルケミストみたいな奴じゃなくて……もっと気前の良いアルケミストが良いけどな……」

 ………………
 太宰は今回の戦いの記憶を全て無くして再び転生した。そこはなんと……

 文劇1の初めのシーンであったのだ。
「また会えたね」
そう太宰に微笑みかける芥川。こうして文豪たちの戦いは続いていく―――

 観終わった時に浮かんだ言葉、それは『エピソード0じゃん……』である。
 つまり、文劇の世界を時間軸順に並べると『文劇3→文劇1→文劇2』の順になる。そういう事かーーーーーーーー!!!!騙された!!!

 そこが一番の問題じゃないよね……

 このショッキングな内容に押し黙るTLのフォロワーたち。静まり返る文アルファン。観た人々の反応に恐れおののくこれから劇場で地獄を見るファンたち。

 ただし文劇3の内容は確かにショッキングな内容ではあるし自分の大好きなキャラクターが死んでしまうという描写もある。何なら北原など萩原に殺されるので双方のファンのショックの度合いは無限大である。
 しかし、ただ「みんなが死んでしまったから悲しい!」という単純なショックではないのだ。もっと深く、この国の文化芸術が今置かれている状況を『文豪とアルケミスト』という媒体だからこそ伝える事が出来る形で我々の喉元に突きつけてきたことに我々は最も動揺しているのだ。

北原一門と太宰、芥川の対象性

 私が一番初めに「ハッ」としたのは北原一門と太宰治についての対象性を北原の口から告げられた時であった。

 室生と萩原という二人の詩人にとって北原白秋という人物はまさに人生の中に現れた道標である。彼らはともに北原に導かれ文壇に立ち、彼を通じて生涯の友となる。彼らの詩人人生において、北原白秋という人物は常に側に居て優しく周囲を照らしながら自分の道を探す手助けをしてくれる灯台のような存在であった。
 そして太宰治にも同じく、彼の人生を変える程の強烈な光があった。それが芥川龍之介である。太宰が芥川の作品に触れた事によって彼の人生は変わった。しかし、二魂一体の二人と違い、その光は彼を照らす事なく突然に消える。芥川は太宰が作家になるよりもずっと前に、自らの手でその生涯に幕を下ろした。
 自分の道を照らしてくれる大きな光が常に側に居てくれた北原一門と、自分の目標となるべき大きな光が残した影を手探りで歩む事になった太宰治。今回、北原白秋を作品上の中心人物に置きながら、あまり彼と関わりのない太宰治を主役にしたのにはそういう思惑があったに違いない。

 また、太宰と北原は作中で自分達の作家としての在り方について意見を交わすシーンがある。
 感じたこと、見たものをそのまま作品にぶつけてしまう太宰と、現実世界の美醜を全て見通したうえで一旦自分の中にしまい込んで望まれる作品を紡ぎ出す北原。どうしてそんな芸当が出来るのかと太宰に問われた北原は、作家としての在り方、作品の生み出し方は作家の個性なのだから、君はそのままで良いと諭す。
 生前、望まれるままに望まれる作品を生み出して人気は得たが、それが正しかったのか分からないと北原は語る。戦争の為のプロパガンダに自分の作品が利用されることも有ったし戦争を翼賛する誌を望まれて書いた事もあったと。
 これが、今回の文劇のテーマなのである。

全体主義と文学

 近代文学史と第二次世界大戦という出来事は切っても切り離せない。坂口安吾や太宰治、檀一雄は戦時下の混沌を経験しなければ描けぬ作品をそれぞれ残しているし、北原のように詩人たちは戦争翼賛詩を大量に書いた。文学者たちは国の為に戦争を肯定する作品を多く残す。反面、江戸川乱歩を筆頭とする探偵小説に関しては厳しい検閲が課せられて、戦争直前から彼は満足に探偵小説を発表する事が出来なくなる。
 戦争体制が整っていく中で、人の心を揺さぶる文学は戦争の道具として利用される。そして国にとって『不要』な作品は無かった事にされ、封印されていった。
 これこそが今回のテーマである。人心を豊かにする芸術としての文学は全体主義の時代にあっては必要ではない。むしろ、人々に個性を与えるという点においては煩わしく、排除すべき存在だ。プロレタリア文学に関わる文豪が受けた非人道的な扱いにしろ、風俗を乱すと検閲された萩原の詩もそれを証明している。
 一個人である作家が『国』という巨大な権力に立ち向かうことは可能なのだろうか?それをこの作品は我々に問いかけてくる。
 終盤、萩原を喪った北原は「一作家風情が強大な権力に抗うなど無理だろう」と言う。それでも彼は『国』に立ち向かう。自分の言葉が、作品が、人の心を救う灯火となると信じ、それを守ることを室生に託して立ち向かうのだ。

コロナ禍における文化芸術

 この作品がこの時期に上演されるということは既に文劇2の製作段階で決まっていた。でなければ文劇2の千秋楽に今回の作品を匂わせるような告知を打てるわけがないからである。
 ということは、この作品は新型コロナウィルスの影響を受けて作られた物では無い、という事になる。そのうえでこの時期この内容を上演したのはあまりにも誂えたかのようだ。
 緊急事態宣言が発令されて、私たちの生活は一気に緊縮した。真っ先に制限されたのは文化芸術の分野である。
 劇場は閉められ、演劇関係者は劇の中止を余儀なくされ、博物館、美術館、文学館、図書館などあらゆる文化芸術の発信拠点は軒並み閉鎖された。
 『不要不急』とはなんであろうか。
 確かに、文化芸術に触れずとも、我々は生きていくことが出来るであろう。生命維持に直接かかわるものではないのかもしれない。
 けれども、もしこの世に本当に文化芸術がなければ、人は人でいられるのだろうか。人が『ヒト科ヒト目』の哺乳類生物ではなく、社会性を持った『人間』として生きる為に本当に必要な物。それが文化芸術なのではないだろうか。
 コロナ禍とは関係がないが、2022年度より使用される高校生向けの新学習指導要領では国語分野が『論理国語』と『文学国語』に分けられる事になる。この『論理国語』という科目ではレポート作成能力を鍛えるような、いわゆる実用的な文章力を身に着けることを目的としており、一切文学作品を学ぶ事は無い。文学作品の読解は全て『文学国語』に集約される。果たして生徒にどちらを学ばせるのかは実際の教師や学校の方針に関わる為、一概にいう事は出来ないが、大抵の人間が文学を学校の国語の授業から触れ始める現代において、これは大きな変革になるといえよう。
 それにしたってタイミングが全て揃いすぎでしょ……なんでこんな……文化芸術が『不要不急』と言って切り捨てられるのを間近で目撃してしまった直ぐ後におあつらえ向きの作品ぶつけてくるの……というか……コロナ禍が無ければ恐らくこの作品が訴える『文化芸術の持つ脆さ』を我々は一歩引いたところからしか見れなかっただろうな、と思うと本当にこの時期に上演したというのが、不謹慎ながら奇跡としか言いようがない。

北原白秋が訴える意味

 あらすじにも書いたとおり、北原は全体主義者の化身である館長に向かって思いの丈をぶつける。このシーンが本作品における最大の見せ場であるのは間違いない。と、個人的には思っている。Twitterの北原白秋記念館(非公式広報)さんも本公演を配信で視聴されていたようだが、やはりこのシーンが印象に残ったようであった。
 あのシーンはやはり、文豪とアルケミストに登場するキャラクターの中でもやはり、北原白秋にしか言えないセリフだと思うのだ。
 北原白秋が他の文豪とは少し違う点というのは、彼が文学だけではなく、他の文化芸術に携わる者たちと常に共に在ったという点だろう。彼は確かに文学者であり、詩人であり、歌人であり俳人であった。しかし童謡の祖でもあり、詩に曲を付け、子供たちの為の歌を作るという新たな文化を山田耕筰と共に作り上げた。
 また、彼は若き日にパンの会という会を開いていた。この会は青年文学者と美術家とが意気投合して開かれた文化芸術に関しての意見交換会(という名の酒宴なのだが……)であり、開かれた期間は短くとも、日本の浪漫主義の文化に多大な影響を及ぼしている。ちなみに、ゲーム本編にもこの会についての回想があり、ともに参加していた高村光太郎(彼は当時は彫刻家として参加していた)とまた共にパンの会を開き、文化芸術について語らうべきだと発言している。
 本作劇中で、太宰は「俺は文学が無いと生きていけない。文学は酸素みたいなもんだ」と述べている様に、劇中に出てくる文豪はあくまでも文化の中では『文学』にのみ力を注いだ者がほとんどだ。書いてて思い出したが、萩原だけは人生の途中までマンドリン奏者として音楽家になる夢を持っていたので彼もちょっと特殊だが、まあ結局「自分には詩しかないもの……」と言っているのでちょっとあっちに座っててください。
 文学のみならず、全ての文化芸術に関わる者の声なき叫びを言葉にして綴ることの出来る人間。それは、あの場において。いや。きっと文豪とアルケミストという作品内で北原白秋以上の人選は無かったと確信を持つ事が出来る。

太宰と芥川の果たされなかった約束と果たされた約束

 芥川は「いつかこの事態が収束したら、友人として君の本を読んでみる」と太宰に約束をする。その結果、太宰は事態の収束を焦るあまりに館長に利用されてしまい、尊敬する芥川に「君には失望したよ」という言葉を投げかけられる。そしてそのまま、芥川は太宰を守って死んでしまう。太宰と芥川の交わした約束は果たされないまま、太宰は全ての記憶を無くしてでももう一度転生することを選択する。
 そしてそこから文劇1に話は繋がっていくのだが、1を観た方は良く思い出してほしい。
 そうなんです。文劇1でも太宰は芥川に「自分の本を読んでください!!」と本を渡すのだ。そしてその本は芥川を致命傷から救う。物語終盤。芥川は静かに太宰の本を開く。遂に文劇3では果たされなかった約束が果たされる。
 もうですね、オタクこれに気が付いたの観劇後友人と泣きながらdiscordでお話してる時だったんですけどね……
 それまでの100倍泣いたね。
 これは……ッ!『魔法少女まどか☆マギカ』OP……ッ!!
(かわしたやーくそくーわすれーないよー)(例のあの曲)
 
もう二人の涙腺は大崩壊。例え記憶はなくともあの日の約束はちゃんと果たされたのだ……!!太宰と芥川のすれ違いは文劇1で救われたのだ!!
 そして文劇3では芥川が太宰を守るが、文劇1では太宰が芥川を救う。
 この構図も完璧。あの日守られるばかりであった太宰が芥川を救い、更には「先生にもし罪があるのなら、作品を残してさっさと死んでしまった事です!」と喝を入れ、結果として文劇2では芥川は今生では「生前のように自死などせずに生きる」という前向きさを得ることになる。
 これ以上オタクの情緒をおかしくしないで欲しい。

江戸川乱歩二週目説

 これは文劇1を観劇した後の感想だったのだが、「あの江戸川乱歩、”知りすぎてる”」と友人と話していた。「あいつだけ二週目なんじゃないか」「怪しすぎる」とかなんとか。
 しかして文劇3が上演された事により、文劇1の前に文劇3の事件があった事が明かされてしまいました。
 ……やっぱりあの江戸川は文劇3の記憶を有しているのでは…………?
 確かに江戸川乱歩というキャラクターは狂言回しやらワトソン役やらとにかくそういった役回りには最適のキャラクターです。文劇1における彼は、主人公である太宰や芥川たち他の文豪よりも一足早く転生をし、錬金術師からの指示役を任されていると発言しています。それ故か、作中でも彼は侵蝕者についてや作品世界へ入る潜書について、侵蝕された本である有碍書についてある程度の知識を持っており、まだ何も知らない他の文豪達に説明をする役を担っています。
 それがなんだかすべてを知ってそうな雰囲気を持っていて……いやそういうキャラクターなんだけどね!と思っていたのですが、そのあまりにも余裕がある態度だったので、とても印象強かったのを覚えています。
 そして今回の江戸川乱歩。普通にピンチになるし追い詰められるしそうなると余裕がなくなる……

「やっぱり文劇1の乱歩はこの事件の記憶あるんじゃねーの…?」

 記憶あり転生ならば彼がどんな時でもトリックスターとして余裕を崩さなかったのも頷けます。だって文劇1より3の方がはるかにやばかったもんね!

最後に

 気付いたら1万字になりそうなのでもう〆ます。
 今回の文劇は世界観監修のイシイジロウ氏が直前に「ある意味で文豪とアルケミストの世界観の集大成と言える作品になっています」と発言されていました。文豪とアルケミスト、アニメになった時にあまりにも内容が良作だけれども人の心の無い容赦ない史実の抉り方と演出と脚本でユーザーを地獄の底に陥れたのですが、まさか文劇でも同じ様な事をされるとは思っていませんでした。
 どうしても日本人は『戦争』というものに対して距離を取りたがります。理由は様々でしょう。日本は敗戦国ですし今でも『第二次世界大戦』という出来事は風化させてはいけない歴史でありながら、目を背けていくことを望まれる出来事です。
 その『戦争』というもの、はては『軍国主義の統制下における文化芸術の排斥とプロパガンダに利用された歴史』にまで足を踏み入れ、我々の目前に突きつけた今回の作品は、間違いなく異色作でしょう。
 けれども、新たな全世界規模の厄災を前に再び人間の個性を生む文化芸術の光が閉ざされようとしています。
 そんな時代にあって、我々に多くの道を指し示す道標として、文化芸術がいかに重要な物であるのかを改めて考えさせてくれる。そんな作品になっていたと思います。
 本当に私はこの作品に出会えて感謝です。
 感謝感謝、漣は感謝です!


どっとはらい

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