バッテリィズの凄さ

M-1グランプリを見た。ヤーレンズと令和ロマンが本当に面白かった。両者ともに怒涛のボケっぷりで、コミカルであることってこんなに愛くるしいんだと再実感させられた回だった。
ただ今回のM-1で自分が思い入れがあったのはバッテリィズだ。去年の3回戦の動画を見て僕の魂に激震が走ったわけだが、今回のネタも本当に良かった。バッテリィズの漫才は、名前書いたら受かる高校に名前書き忘れて落ちる「バカ」なツッコミ?のエースさんと「常識人」かつ「大人」な振る舞いをする寺家さんによって構成されるわけだが、文章を読んで分かる通り、バッテリィズにはツッコミ?しかいない。ツッコミと「大人」である。ツッコミすらツッコミ?だし、ボケは??と思ってしまうが、成立している。彼らの漫才はこの構造であるがゆえに「バカ」も「常識人」も「大人」も全てカッコ付きのものにさせてしまうところに凄さがある。


以下の文章は上の動画にあるバッテリィズの漫才のネタバレを含むので、よければ漫才を見てから読んでくれたら嬉しい。
また以下は僕の解釈であり、僕はここに魅力を感じているという表明である。全く客観的な説明ではないし、漫才の解説ではない。僕はこんなふうに思っちゃったんだ考えすぎな僕を笑ってくれバッテリィズ!という感じだ。


バッテリィズはつかみでエースがいわゆる「バカ」であることを教えてくれる。基本的に「バカ」は侮蔑語で、「バカ」であるよりも「賢く」ある方が良い(とされている)。「バカ」な彼は、オシャレで静かなバーに行きたいという相談に対して<行きたないわ!なんで金払って静かにせなあかんねん!>と言う。
考えてみてほしい。これはツッコミなのだろうか。確かにフォーマットはツッコミである。ツッコミの原点である「なんでやねん!」から出発している感じがする。でも上の発言は僕らの常識に反している。面白いし、何言ってんのさって感じ。つまり期待を裏切る発言という点で、ボケの性質を備えていると言えよう。発言自体はツッコミのフォーマットをとっているにもかかわらず、僕らが頭の中で「なに言ってんの」とツッコミを入れることで、ボケとツッコミが成立している。つまり、ツッコミに見せかけたボケなのだ。

しかしだ。僕らは頭の中で「何言ってんの」とツッコミを入れるのだが、彼はおかしなことを言っているのだろうか。おかしそうなことは言っている。<なんで金払って静かにせなあかんねん!電車か!金払って静かにするのなんて電車だけでええわ>とまで言っている。でも少し考えたら全くおかしな発言ではない。はしゃぎたい人にとって図書館や美術館が楽しいわけないし、それと同様にオシャレなバーにも興味がない。。オシャレなことに魅力を感じない人は身近にいくらでもいるだろう。つまり「バカ」なエースと「大人」な寺家では価値観が違うのだ。そしてエースの発言を笑うということは、私たちのうちに寺家側の価値観、つまり「大人」の価値観が内面化されていることが分かる。つまり、生み出されるズレは基づく価値観の差異であり、ここで起こっている期待の裏切りは、通常持つとされる価値観ではないanother価値観のなかでは極めて筋の通っている発言によって達成されている。エースの発言を聞いて笑った一秒もしないうちに「確かにそうかも!」と思わされて、二重に裏切られることになる。しかもエースは狙っていない。確信をつく「バカ」である。コナンに着想を与える元太である。
これが極めて巧妙に起こっているのが、この漫才における二つ目のやりとりだ。

寺家<最近、夜中自分を咎め立てすぎて、焦燥感に苛まれて煩わしい気持ちになったりするんだけど、どうしたらいいと思う?>
エース<頑張れ!!!!>
僕の心に激震が走った。本当に良い。
寺家はうつ状態であることを匂わせる発言をしている。それに対して、エースは頑張れ!!と正面から忌憚なきエールを送った。たまらない。たまらないよ。

2018年頃から「頑張れ」はうつ状態にある人たちに対して言ってはいけないフレーズと認知され始めた。「頑張らなくてもいいじゃない」と「あなたは十分頑張っているよ」と現状を認めることが重要となり、「頑張れ」と背中を押すときは「無理しないでね」と添えることが健康状態の人たちの間でもマナーとなっていった。もう手放しに「頑張れ」と伝えることは無配慮なことなんだろう。

「頑張れ」と言いたいとき、ほとんど同じ意味の「応援してる」を使うようになった。今や「良識」を弁える人は、うつ状態であろう人には特に、手放しで「頑張れ」とは言わない。
だから笑いが起こる。不適当な返事だからだ。そもそも言っちゃいけないし、「頑張れ」しか言えない語彙のなさや、俺もそういう時あったわみたいな人生経験に基づく対処法がでてこない「バカ」さに笑える。
しかし、エースは言った。忌憚なく、全力の「頑張れ!!!」を伝えた。「頑張れ」と「応援してる」は違う。「頑張れ」は命令形であり、相手に行動を要請する。「応援してる」は自分の立場表明であり、相手に何も要請しない。エースは相手に行動を要請したのだ。頑張るのだと。それが心地良く、スピードに乗って一直線に心に突き刺さる。他人に「頑張れ」と伝える真髄がみえた気がした。
「頑張れ」は全然言っちゃいけない言葉じゃないと目の前で、その実践によってかくも明快に教えてくれた。断っておくが、漫才上のエースにそんな意図はない。ネタは寺家さんが作っているのでエースは本当にただバカだから安心してほしい。そしてバッテリィズの漫才自体にこんな意図があるかは知らない。念を押すが、以上は全部僕の勝手な解釈であり、これは全く解説ではない。

この「何言ってんねん」と「確かにそうかも!!」の連続がたまらなく気持ち良い。コペルニクス的転回漫才だ。この確信をつく「バカ」によって、発言だけではなく、メタに、構造として「バカ」と「大人」「常識人」の常識的な意味を疑わせてくれる。「バカ」だけど、賢いかも。「大人」ぶっているけど、確かに意味わかんないなとか。当たり前を当たり前じゃないものにしてくれる。マヂカルラブリー野田が言った「新しいタイプのバカ」という評はその通りで、ただの道化にとどまらない価値転倒をもたらす「バカ」なのだ。「バカ」であるが故に説教臭くないし、しかも本人は意図していない。笑いながらおお!となれる。

なんで時計台を見にいかなきゃ行けないのかわかんないし、確かに雪さえあればいい。楽しくて笑っちゃうし、そうだねと言いたくなる。彼氏にしたい。

バカすぎて講義がとんでもないのもいい。四角から線が突き抜けたときはたまらなく笑った。
本当に好きだ。動画のネタは最後に175Rを持ってくるセンスも良い。「バカ」が好きな音楽(とんでもない偏見だが、中学生の頃の僕は大好きだったし、メロコア自体がインテリではなく、愛すべき「バカ」のための音楽だと思っているので)だし、チョイスの仕方もいい。今まで見たことなくて、ヤーレンズの<電話かと思ったら私の右手か>くらい掴まれた。

フースーヤも最高だった。マスオさん三人をPerfumeじゃないと教えてくれてありがとう。僕は基本的に「大喜利」(予想の地平から遠く、自分じゃ取って来れないだろうなというボケくらいのニュアンス、こういうとトムブラウンが当てはまりそうな気がするが、そうではない。うまく説明できない。)が強いネタが好きで、それこそななまがりなんて本当に最高だった。でも「大喜利」が弱くても勢いがあって楽しいネタも最高だなって再実感した。本当にM-1最高でした。ありがとう。






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