追憶~冷たい太陽、伸びる月~
巡る縁①
第13話1960年代―緑の風を追って②
佐奈子は長崎市内の私立高校・聖マリアンヌ女学園に入学した。
終戦後の経済発展真っただ中、後の平成時代末期から盛んになる奨学金制度や私立学校独自の特待生制度がない昭和時代。それでも母子家庭の娘を私立学校に入れることは、親にとって大した負担ではなかった。
特に長崎では長く続く海外貿易の歴史が影響して、米軍基地を置く佐世保市と並んで国際・語学教育に力を入れる私立学校を良しとする住民が多かった。
その価値観と聖マリアンヌ女学園の教育体制は後の令和時代まで続く。
しかしトビヒ族の母と佐奈子は、決して語学への興味でこの私立学校を選んだのではない。
聖マリアンヌ女学園が長崎の国際交流を発展させようと取り入れた教育には、当然ながら日本人とは異種人を受け入れる姿勢も含まれている。ミッション・スクールであれば、なおさら他者への寛容さは生徒にも求められる。
その教育体制を利用して、母子は佐奈子がサングラス着用で肩身の狭い思いをしないようにと図った。
都心と比べると、長崎では異端者を除外しようとする姿勢が令和時代でも多少濃く残る。
終戦後の昭和では米国への敵対心一つで日本を復興しようと気持ちが昂る国民が多く、その価値観は国際教育を受ける娘の家庭でもそれなりに影響していた。
それでも佐奈子は公立学校時代と比べて堂々と学校生活を送れるようになった。
漆黒の髪と薄黄ばんだ素肌、桜色の唇など当時の日本人らしく典型的な外見であったこと、母子ともに国籍も日本で氏名もすべて漢字であることが佐奈子を純日本人というカテゴリーに分類されていたからだ。
聖マリアンヌ女学園の中で佐奈子が他生徒と異なるのは、色覚障害者であることのみ。障害ゆえにサングラス着用を学園側に許可されれば、上品な育ちの生徒は誰もが佐奈子を責めなかった。
佐奈子が人間ではなくトビヒ族であることに気付いた者は一人もいない。
好都合の生活のもと、佐奈子自身の使命が始まった。
当時弱小部であった陸上部に入部し、最後のインター・ハイでは九州大会では総合優勝、全国大会ではハイ・ジャンプと走り幅跳びにて個人優勝を果たした。
短距離、長距離、リレーなど走りがメインの競技は、同級生の中で俊足な人間に任せて、佐奈子自身の脚力を披露する機会を可能な限り避けた。
その後体育大学への入学、プロ選手生活を経て引退してもなお、佐奈子の使命は続いている。
一つは佐奈子自身が玄人として陸上、他に足を使う競技の知識を得る。
一つは人対人でのネット・ワークが拡がる社会に生きるトビヒ族同胞を、人間の興味から逸らすこと。
そのためには母の同胞・トビヒ族、父の同胞・ハナサキ族両方の目と佐奈子の目をネット・ワーク化すること。
本来の姿の同胞は皆、佐奈子の目の一部であった。
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