寒空の下で
見誤った。言葉を完全に読み違えた。
2時間ほど前の自分の判断を、激しく悔やんでいる。
今日は祝日だということを忘れて遅くまで残業してしまったため、終バスを逃した私は地元駅前のタクシーの待機列の最後尾に並んでいた。私の前は5人。東京都はいえ、多摩地区の小さな町なのでタクシーの数は大して多くない。番が回ってくるまで少しかかるだろう。
私の前は小柄な女性だった。背中だけでは年齢までは分からないが、杖をついているから高齢ではあるだろう。時折足元が揺らぐような感じが少し気がかりだった。やがて女性は杖を自身の体に立てかけるようにし、リュックを開けて中身を改め始めた。身体も大きく揺れてよろける。何度めかで支えようと思わず一歩踏み出した途端、足元になにか柔らかいものが触れた。毛皮の襟だった。
「これ、落としてませんか?」
女性に声をかけた。振り向いた女性は私の手にある襟を見てにっこりとした。
「ああ、よかった! なくしたかと思って探してたの」
「これをお探しだったんですね」
「ありがとう、見つかってよかった」
そう言ってリュックの紐を絞って結ぼうとするのだがどうもうまく行かない。片手に襟、身体に杖を立てかけてでは、紐を引っ張った拍子に杖が倒れるか襟を落とすか、その繰り返し。倒れた杖を拾って様子を見るが、紐を閉められても襟を仕舞い忘れていると気づいてまた開けて……とキリがない。逆に彼女に杖を渡して、襟をしまって紐を締めてあげた。今度はリュックを背負うわけだが、自力ではリュックに振り回されてよろよろと前に向かってよろけてしまう。あまりに危ないので、こちらも手を貸して背負ってもらった。
このことがきっかけとなって、なんとなく会話が始まった。しかしあれを会話と言っていいのか……。すぐに雲行きが怪しくなった。
「K駅(当時の我々の現在地)」
「昭和14年生まれなの。すっかりおばあちゃん」
「宗岡小学校だったの」
「実家が宗岡、埼玉の田舎な
彼女はこの一連をしきりに繰り返した。宗岡は近隣のS市の町名で、車で通ることもあるから私でも知っている町名だ。わが町だって東京の北のハズレの片田舎。宗岡周辺とは目くそ鼻くそ、どんぐりの背比べである。なんならS駅はK駅より栄えている。
このキーワードのような会話で、てっきり宗岡を目指しておられるのだと思い込んだ。これが間違い始め。同じことを繰り返す様子から、認知症が多少始まっているのだろうとは思いはしたが、23時過ぎにお一人でタクシーの列に並んでいるのだからとあまり心配はしなかった。いつもより遅くなっちゃった、などとつぶやかれたのも軽く考えた要因だ。遠くに暮らす母は彼女より4つ下でここ3年ほどで認知症が進んでしまった。一見問題ないようだが、今やろうとしたことを忘れてしまうし、同じことを何度も繰り返して話す。母は50代になった頃から山登りをしてきて、今でも毎日1万歩歩いているから足腰はしっかりしている。その点だけは違うけれど、なんだか母と重なるようで、繰り返される言葉をふわっと受け止めてしまった。
やがて、4台目のタクシーがやってきた。車に乗り込んだ彼女は、運転手さんにこう告げた。
「K駅に行ってください」
なんてこった! 彼女は現在地を確認していたのではなく、「これからK駅に行く」と言っていたのだ!
驚いた運転手さんと私が現在地がK駅だと告げると、今度は彼女が驚いた。
「なら、私の家まで行ってもらおう」
「ご住所、言えますか?」
思わず口を出してしまう。
「大丈夫大丈夫、ありがとね」
それを塩に運転手さんがドアを閉めた。
窓越しに運転手さんが首を横に振るのが見えるが、もう声は聞こえない。が、すぐにドアが開いて彼女が降りてきた。
「近いから歩いて帰る。あなたが乗って。気をつけて帰ってね」
そう言って彼女は手を振って立ち去った。なんとなくきょろきょろと見回しているようにも見える後ろ姿。
え、どうしよう。ついていこうか、交番はすぐそこだから、わからないようなら戻ってお巡りさんに託す手もある――
でも私は車に乗り込み、家に向かってもらった。
後ろ髪を引かれるとはこのことか、と思うくらい頭が後ろにひっぱられるような感覚を覚えたけれど、私は家に向かった。
運転手さんに状況を尋ねると、結局住所が言えず「私んちに行って」と繰り返したそうで、それでは走り出すことができないから降りてもらったという。実はこういう、認知症が進んでいて行き先がはっきりしないお客さんを乗せることは時々あるのだそうだ。地名が出れば走り出すことができ、会話を重なるうちに住所がわかって送り届けることもあるし、どうにもわからないままならそういうときは乗せた場所に近い交番に連れて行くらしい。するとその交番の迷子の常連さんなんてことも多々あるのだそうだ。
思い返せば、彼女の服装にも気づきのポイントがあった。毛皮の襟は持っていたものの、彼女が着ていたのは冬の外套とは言い難い、ニット地の上着だった。秋や冬でも日差しのある昼間の散歩ならちょうど良さそうだけれど、夜には向かない風を通してしまうタイプ。いつもより遅くなったと言っていたから、気に留めなかった。6人兄弟でその内4人が女で、たまに会うと話が弾むんだと言っていたから、そんな集まりが楽しくて長引いたのかな、なんて思ってしまったんだ。
いや、そんなことだってどうでもいい。彼女がタクシーから降りて歩いて帰ると言ったその瞬間に、歩み寄って「私もそっち方面だから途中までご一緒しましょう」と腕を取ればよかったんだ。なんでそのまま見過ごしちゃったんだよ。
奥さんのご両親を介護しているから放っておけない気持ちになると言う運転手さんの髪の毛は真っ白だった。きっと私よりも歳上だ。彼女と私の中間くらいかもしれない。私だって5年経ったら還暦だからそっち寄りだ。高齢ナイト。どうにか住所を聞き出して送り届けて、ご家族に怒られることもあるそうだ。どうしてこんなに料金が高いんだって。理不尽。それでもそういう人を乗せたら話を聞き出そうと思うのだそうだ。
彼女は迷わず帰り着いたのだろうか。今頃お布団でぬくぬくしているといいけど。
同じ彼女と再開することはないだろうけど、また彼女のような、母のような人と出会って袖が触れ合ったら、今度は迷わず寄り添いたい。
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