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妊娠・出産が恐ろしい――「トコフォビア/出産恐怖症」とは何か

皆さんは、「トコフォビア」という言葉をご存じでしょうか?

これは、2000年に英国精神医学会誌に紹介された特定恐怖症の一種で、ギリシャ語の「toko(出産)」とphobia(恐怖症)を組み合わせた「出産恐怖症」と呼ばれるものです。
「出産すること」「出生という現象そのもの」への恐怖感から妊娠にネガティブな思いを抱くこと、中絶や子宮摘出を望んだり、鬱や不安状態を引き起こし日常生活に支障をきたすほど影響を与えることなど、妊娠・出産に関連して発症する一連の恐怖症をいいます。

「産まない選択」をした人々の中には、この出産恐怖症に当てはまるという方も多いのではないでしょうか。私自身もまた、その一人です。

「トコフォビア」とは何か

トコフォビアは、その発症時期や誘因によって「プライマリ」と「セカンダリ」の2つのタイプに分けられます。

原発性(プライマリ)
出産を経験していない女性に起こる。
自身の性的トラウマ、他者の体験談や映画・書籍等で過酷な出産エピソードを見聞きする、自身の意志確認や説明がないまま出産シーンを見せつけられるなどの経験が原因となり発症する。
続発性(セカンダリ)
既に出産を経験した女性に起こる。
前回の出産の過酷さがトラウマとなり、次の出産への恐怖心を覚える。

プライマリ/セカンダリ共にみられるトコフォビア女性の行動や思考の特徴は、
・妊娠を完全に避けるか、妊娠が判明したら中絶を選択する
・自然分娩ではなく帝王切開を選ぶ
といったものが挙げられます。

また、出産時の痛みへの恐怖感だけでなく、そもそも「妊娠」そのものに困難を感じている女性もプライマリ/セカンダリ共にみられます。
自身の体内に宿る胎児を「瘤」と捉え、その瘤が大きくなり自身の体型や体質に変化が生ずること、瘤が大きくなりやがて動き出すことなどに対する恐怖感を覚える、といった状態が確認されています。

トコフォビア研究の課題

トコフォビアは全女性の2.5〜14%が罹患するというデータもあれば、最大で22%の女性が罹患するというデータもあり、未だに症状の範囲が明確に定められていません。
研究によって調査範囲が異なるため、妊娠出産に対する軽度の嫌悪感から、出産だけに収まらない深刻な鬱状態まで含まれることもあり、罹患率の正確な数値を導き出すにはまだ研究が進んでいない分野と言えます。

また、「何の経験がそれを引き起こすのか」「どういった人が罹りやすいのか」といった発症原因やバックグラウンド的誘因を特定するのが難しく、現状では罹患者の調査による「罹患する女性の多くが鬱や不安、メンタル不調を経験する」という二義的統計しか確認されていません。

現在はまだ医療現場でもトコフォビアが日常生活に支障をきたす程の深刻な状態であるという知識が浅く、産院でもメンタル面での医療ケアが不完全であることを、英国精神医学会誌で問題提起されています。

日本におけるトコフォビア研究

この研究が発表されたのは2000年のことですが、日本では知名度は無いと言って良いほど低く、文献すら見当たらないのが現状です。
数少ない日本語ニュースソースでも、トコフォビアの範囲が「セカンダリ(経産婦の産後トラウマ)」もしくは妊婦が出産を控えてナイーブになる精神状態としてのみ捉えられており、恐怖心から妊娠を完全に避けようとする女性については触れられてもいません。
このことからも、日本では妊娠すること自体への恐怖心がまだ認識されておらず、出産の恐怖が「産みの苦しみ」だけでなく「自分の体内に瘤が出来、やがて動き出すこと」も含む、ということの理解がまだ極めて低いことがよく分かります。

日本では無痛分娩がまだ十分に広まっていない、受け入れられていないことも背景にあるでしょう。
日本でのトコフォビア対処法は、「痛みが怖いなら無痛分娩という手段がある」という解決案が最も有効な手段として締めくくられており、あくまで「痛み」のみに対処することがトコフォビア治療の本質のように語られています。
無痛分娩が一般的に行われている欧米では、無痛分娩により痛みの一部が緩和されることが一般的に知られていてもなお多くの女性が妊娠出産に恐怖を感じている事実から、トコフォビア女性の不安が出産本番の痛みだけではないことがきちんと認識され、妊娠そのものへの恐怖感にもスポットを当てて論じられています。

トコフォビア治療は受けるべきか?

以上のように、トコフォビア/出産恐怖症の研究とは、女性たちが妊娠出産への恐怖心を乗り越えて「本来なら望んでいるはずの出産」を正常に行えるよう医療がメンタルケア体系を構築すべき、というテーマのもとで進められている分野です。
日頃から「子供を産まない選択」をしている人々の中には、「本当ならば出産したいのに、極度の恐怖により妊娠出産を避けている人」のための研究なら自分には関係ないと感じる人が多いのではないでしょうか。

妊娠出産に極度の恐怖を覚える私も実際、トコフォビア治療を受けるということには懐疑的です。
今後実践的に体系化されていくであろうトコフォビア治療により出産の痛みや身体の変化に対する恐怖さえ取り除かれれば、出産を「したいと望む」もしくは「しても良いと許容する」まで心が動くのだろうか?

実際に妊娠出産に恐怖を覚えている今、それが取り除かれた状態での自分の判断を想像するのは非常に困難です。恐怖が取り除かれても大して変わらないような気もするけれど、もしかしたら自分で認識している以上に妊娠時の状態と出産の痛みを恐れ、「本当は産みたい」という気持ちを全力で押しつぶしているのかもしれません。
しかし、少なくとも「恐怖心さえ取り除かれれば、女性はみな出産を望む」という仮定はあり得ないものだと感じます。痛みに関係なく、そもそも子供を欲しいと思えない女性は確実に多数存在しているのですから。

トコフォビア治療のこれから

トコフォビアに対する対処療法はもちろん必要でしょう。しかしその体系の発展は、「治療さえすれば根本的に女性が出産を望む」という期待や仮定をしない、という前提を置くことが必要であると感じます。
「今までは、痛みの恐怖だけが子供を望まない理由だと思っていたが、治療によって恐怖感が和らいでもなお子供を欲しいと思えない。自分は根本的に出産願望がないということに気づいた」という結論もあって然るべきなのです。

妊娠を希望していないし、パートナーもそれを望んでいないのであれば、わざわざ時間とお金をかけてトコフォビア治療をする必要はないのでしょう。
しかし、映画などでの妊娠出産シーンへの強い嫌悪感や、友人の妊娠、ネット上や街中で見かける妊婦などに恐怖心を覚えているのであれば、それは多少とはいえ日常生活に支障をきたしていると言えます。
「妊娠したい」と思うための治療ではなく、「自分以外の人への嫌悪感」を緩和する目的であれば、カウンセリングを受けて自分の中にあるひとつの恐怖心に決着をつける機会は誰にとっても貴重なものとなるのかもしれません。

自分の心を不安や恐怖心から解放し、「真に望んでいるものは何なのか」を見つけることが、メンタルケアサポート全般に求められる意義のひとつです。
トコフォビアの治療体系もまた、他の恐怖症や不安障害と同様に、個人が「望む生き方」をするうえで障害となるものを取り除き、生き方に自由な選択肢を作るための手段として発展することを期待したいと思います。

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