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他人と自分の生き方を縛る「らしさ」

多様性を重んじる社会、ダイバーシティの取り組みが進むとともに、人々の価値観を「男らしさ」「女らしさ」から解放しようという動きが、近年盛り上がってきています。

そもそも、性別によって性格や行動を規範づける「らしさ」とは、一体どこで生まれたものなのでしょうか?

多くの人々が昔から使い続けてきた「男らしさ」「女らしさ」という言葉ですが、平安貴族ならまだしも、現代社会では実際に万人が共通して思い浮かべるイメージがあるわけではありません。
「女らしさ」をとっても、受け取り方は人によって違います。おしとやかで静かな女性をイメージする人もいれば、明るくてよく笑う可愛らしい人、セクシーで妖艶に男性を誘う人など、ぱっと思い浮かぶ姿は各々違うのです。
その違いはどこから生じるのでしょうか?

「男/女らしさ」=自分好み?

私は、全くの私見ですが、「らしさ」というのはとどのつまり、その人の「フェティシズム」に近いものなのではないか、と思っています。
例えば「女らしさ」でいうと、「女」として好ましい状態であること=好感を持っている、魅力を感じているという意味で捉えるとするならば、それは性志向に関わらず性的魅力を感じていると解釈することが出来るからです。

自分は、どういう女性を女性らしいと感じるのか。それには、自分の感情の動きによって「女性らしさ」を定義する「直接的/主観的観点」と、他者の主観的判断に従う形で判断する「間接的/客観的観点」の2点があります。

①直接的/主観的観点
女性を恋愛対象とする人が、どのような女性を見て好感を持つか、または女性にとって自分自身の「どうなりたいか」という目標や憧れ

②間接的/客観的観点
その場にいる最も地位の高い人、価値観に従うべき人、地域の風習がどのような女性を好んでいるか

一般的に、「もっと女らしくしろ」と価値観を押し付けてくるタイプの人に見られるのが①直接的/主観的観点での「らしさ」であり、「世間一般で言われる女らしさを自分は持てない」と悩む女性が苛まれているのが②間接的/客観的観点での「らしさ」と言えるでしょう。
言い換えれば、女性に対し「もっと女らしくしろ」と言うこと自体が、「もっと俺好みの女になれ」と言っていることとほとんど変わらないということ。女らしさを教示するのではなく、自分自身の女性の好み、フェティシズムを無様にもさらけ出しているだけなのです。

「女らしくしろ」という言葉に反感を覚えるのは、自分の恋愛対象でもない相手に「俺好みの女になれ」と性的欲求を押し付けられているかのような、嫌悪感と危機感に近いのではないでしょうか?
また、反感ではなく、むしろ後ろめたさを感じる、自分が「女らしく」ないことを申し訳なく感じるとしたら、それは「自分は相手の好みではない、相手から好感を持たれていない」ことへの悲しみでしょう。

「〇〇らしくしろ」という言葉から受け取るものは、その人から少なくとも好感を持たれていないということの証明と、自分の好みに服従しろという圧力の類です。それに対する反抗心や、服従を求められる劣等感を覚えるのは至極まっとうな心の動きだと感じます。

都合の良い「〇〇らしさ」

前節で「女らしさ」=自分が相手に女性として好感を持つ状態、という定義を示しましたが、実際には、好感などという前向きな意味ではなく、それは「自分にとっての都合の良さ」のようなものだと考えています。

目の前にいる相手が、自分の好みであったら都合が良い。
要するに、その人自身の個性や存在には興味がない。

社会生活を送る上で、出来る限り多くの人と良好な関係を築くことは大変重要です。小さなことで選り好みをせず、相手の個性を尊重し認め合いながら共生することが、職場でも学校生活でも求められています。
顔が好み、性格が合う、趣味など共通の話題がある等、良好な関係を築くには相手に対して何かしらの好感を持つことが必要です。そして、多くの人に好感を持つためには、まずは自分自身が引き出しを多く持つ努力をしなければなりません。

ですが現実には、同僚や同級生から「お前は女らしくないから好感が持てない」と突き放されてしまう場面が多々あります。女らしくないから男性社員と打ち解けられない、女らしくないから友達ができないんだ、など。

そんなとき、敢えて「自分の好みじゃない」という言葉ではなく、「女らしくない」という言葉を使うのは、好感を持てずにいることを相手に責任転嫁するための非常に簡単で手軽な手段だからです。
「自分の好みじゃない」と言うと、相手を好ましく思えない自分のせいという意味合いになる。自分の引き出しが少ないせいで、相手に好感を持つことが出来ない、単なる社会人としての努力不足。しかし「女らしくない」と言えば、女性としてふさわしいふるまいをしていない相手のせいにすることができる。

「女らしくない」と言われた相手は、不快感とともに大変傷つきます。ただの「個人の好みであるか否か」だけの話に、叱責や非難、お前を認めないという意味合いを含まれてしまう。こんな理不尽な話があるでしょうか。

「らしさ」の暴力性

世の中にある「らしさ」は、男らしさ女らしさだけではなく無限にあります。
都会らしさ、田舎らしさ。公務員らしさに銀行員らしさ、販売員らしさ。学生らしさに社会人らしさ。LGBTらしさに障碍者らしさ。そして、私のような選択子なしらしさ。

レズビアンらしさ、ゲイらしさ、トランスジェンダーらしさに囚われて、苦しい思いをしている人や他者を攻撃している人を、SNS上ではとても多く見かけます。レズビアンならこういう女性が好きだ、ゲイならこうふるまうはずだ、”本物”のトランスジェンダー云々…
マイノリティの現場では、驚くほど強い「らしさ」の攻防が繰り返されています。世間一般の「男らしさ」「女らしさ」から脱却しよう、多様な価値観を認め合おうと叫ぶ人々の中にすら、「らしさ」による選別は行われているのです。むしろ、世間一般の「男らしさ」「女らしさ」の押し付けよりもはるかに強く。

人と違うからといって差別を受けたくない、ジェンダーフリーだと権利を求めて叫ぶ人々が、次第に「より純粋であること」を求めて、コミュニティ内で差別と排除を繰り返す。その時に使われる言葉はいつも「らしさ」です。

そのときの「らしさ」はやはり、自分にとっての都合の良さでしかない。
セクシャルマイノリティ、選択子なし、その言葉に引き寄せられ群がる人々の数が増えれば、おのずと価値観のバリエーションが増え、自分に近しい人を見つけづらくなる。労力をかけずに仲間を見つけられるはずのコミュニティで、多少なり労力をかけなければいけなくなる。
そこに面倒くささを感じるなら、それは個人の都合です。わざわざ「らしさ」を持ちこんで、自分と違う価値観の人に不要な責任を負わせながら排除していい話ではありません。

排除が生み出すのは、暴力です。どんな大義名分があろうと、その暴力は確実に人を傷つけます。
「らしさ」という言葉が孕んでいるのは、その暴力性です。
だからこそ、他人に対して気軽に押し付けて良い言葉ではないのです。

「らしさ」の呪縛

「〇〇らしくない、もっと〇〇らしくしろ」
「△△らしくない、△△のコミュニティに入ってくるな」

「らしさ」という言葉は個人であることを否定し、他人の都合に合わせさせたり、コミュニティから排除しようとする力を生み出します。
その対抗勢力のように出てきた、「自分らしさ」という新しく、またフレキシブルに見える価値観。
しかし私は、その「自分らしさ」にも一抹の不安を覚えます。

自分らしさ、自分とは何かを考え、言語化して定義づけする。
そのことに一体、何の意味があるのでしょうか?

私は、「自分は〇〇だ、こういうときにはこういう考え方をする人間だ」と自身を言語化することで、その定義に縛られてものの考え方を強引に自分の定めた方向へ持っていこうとしている人を、これまでに何人も見てきました。
本当に、感覚的主観的に感情を動かしているのか疑問に思うほど、「こういう場合、こういう人間である自分はこう考えるべきだ」と、作為的に思考を動かしているような。

そういう人と話をするたびに思います。
「らしさ」とは、一体何の役に立つものなのか。
人の感情の動きに定義など必要なのだろうか。

それはただの、足枷に過ぎないのではないか、と。

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