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【創作大賞2024 恋愛小説部門】甘く、酸っぱく、君らしく #2

「じゃあ、お母さん仕事行ってくるね。ゆっくり休んで。何かあったら連絡してね」
「……うん」
 これは仮病だろうか。仮病でもなんでもよかったのだから、この問いに意味はない。私は、布団を頭まで被って目をつむった。お母さんが車のエンジンをかける。出発すると音は遠ざかっていく。静かになった部屋で、私を笑う声だけが耳にこびりついていた。気持ちがずんと下がっていく感覚があった。
 お母さんが作ってくれた朝ごはんも喉を通らず、不意に涙が溢れた朝。普段、新聞紙から目を離さないお父さんが「どうした」と静かに焦っていた。
「……何でもない」
「何でもないって、泣いてるだろ。お、おい、母さん」
「はぁい。……何、えっ、ゆめのどうしたの!?」
 お母さんの背中をさする温かい手や、お父さんのティッシュを差し出す優しさに、私は嗚咽を漏らすことしかできなかった。これから学校に、あの教室に、あの席に行くのだと思うと苦しくて仕方がなかった。
「今日は休みなさい。一日くらい、いいだろう」
「そうね、ご飯も無理しないで」
 もったいない、と思うのと同じくらい、これを食べなかった分痩せるのかな、なんて考えてしまった。そんな微々たる量で、変わったら苦労しないのに。
私は、お母さんに付き添ってもらいながら自分の部屋へ戻った。すぐにベッドへと体を預け、お母さんに背を向けた。部屋の扉が閉まる音が聞こえる。
「大丈夫? 何かあったの?」
「……ごめん、なんでもないよ」
「ゆめの……」
「……」
 お母さんの声には、優しさの後ろに、不安と焦燥と困惑が混じっていた。『学校に行きたくない』『いじめられている』『愛奈と会いたくない』とはとても言えない。
「ゆめの」
 お母さんの手が、私の頭から背中を優しく行き来する。赤子をあやすような、優しい手だった。
「何か話せることある? お母さん、聞くよ?」
 あいつらの顔が脳裏をよぎり、シーツを強く掴んだ。どうして、私が苦しまなきゃいけないんだろう。体型だけでなく名前まで、馬鹿にして何が楽しいのだろう。
「ゆめのー?」
 どうして、愛奈は困っている友達を、私を、助けてくれないのだろう。本当はあいつらと一緒に私を笑い者にしたいのだろか。ああ、そうしたら、愛奈はいじめの対象から外れる。自分のために私を裏切ったのだろうか。
「ゆめのちゃん、」
「うるさいなあ!」
 思考に混ざるお母さんの声が邪魔だった。起き上がってそう叫ぶと、驚いた顔のお母さんと目が合う。悲しそうな表情に変わるのを見ていると、無性に腹が立った。カッとなった勢いで、滅茶苦茶な言葉を吐き出す。
「ゆめのゆめのって、もうっ、名前呼ばないで! 恥ずかしいだけなの! この体型も似合わない名前も! もっと可愛く産んでよぉ、こんなに太らせないでよ……っ! もう全部いやだ」
 枕を投げつけると、お母さんは眉を下げて小さく「ごめんね」と言った。
酷いことを言った自覚がじわじわと湧いてくる。静かになった部屋でうるさい幻聴に苦しみ、一人で泣いた。

 学校に行けなくなって、気づけば三日が経っていた。クラスメイトが何か言っているのではないかと怖くてSNSは見れていない。ひたすら面白くもない動画を見て、音楽を聞いていると、気がついたら寝ていた。その繰り返しだ。焦りが無いわけがないし、お母さんとは気まずいまま。家での居心地がいいわけではないけれど、それ以上に学校に行きたくない。
 今日も、窓の外から下校中の生徒の声が聞こえてきた。あーあ、また一日無駄にしてしまった。今日は金曜日だから来週から頑張ればいい、と再び目をつむると、インターフォンが鳴り、肩が跳ねた。
「びっくりした……」
今、家には私しかいない。宅配だろうか。一階に下りてモニターを確認すると、そこには配達員にしては幼なすぎる人物が映っていた。驚いて通話ボタンを押す。
「……はい」
「あ、佐藤です。三田さ、あー……っと、ゆめのさんにプリント届に来ました」
「い、今行くね」
 家を訪ねてきたのは佐藤くんだった。慌てて、身だしなみを確認する。一応、人前に出られる服に着替えていてよかった。全身鏡の前で最終確認をして、扉を開けた。佐藤くんは、スクールバックを肩にかけ、手にはファイルと小ぶりな白い箱を持っていた。
「いきなりごめん。体調、大丈夫か?」
「うん……大丈夫。あ、プリントありがとね」
「家、一番近いから。お互い様だろ」
 小学生の頃、熱を出して学校を休んだ佐藤くんの家に、何度かプリントを届けに行ったことを思い出す。ケーキ屋さんのすぐ横の家。ブラウンの外装に、屋根はイチゴのように真っ赤な色をしている。お菓子の家みたい、とずっと思っていた。
 プリントを受け取ると、佐藤くんは少し間をおいて白い箱を差し出した。
「よかったら、食べて」
「……え、え、もしかして、ケーキ?」
「病人に勧めるものじゃないかもだけど。あ、一応ゼリーもあるし……」
 久しく食べていなかった『スイーツ サトウ』のケーキに、内心テンションが上がる。最近、あまり食べないようにしていたし少しくらいはいいじゃないか、と悪魔が囁いている。
「え、すごい……嬉しい! でも、お金が」
「それはいい」
「でも」
「いいって」
「いや、そういうわけには」
「じゃあ、」
 佐藤くんは、一歩距離を詰めて、一言提案をした。
「少し話せないか」

 私はケーキの箱ごと冷蔵庫に入れ、玄関に戻った。リビングまで上がるのは申し訳ない、と佐藤くんに断られたので、二人で玄関に座る。佐藤くんは、私の体調を気遣いながら静かに話し出す。
「三田が学校来れてないのって、あいつらのせいだったりする?」
 あいつら、とは近くの席の子たちや、例の四人組のことだろう。
「まあね……なんか、疲れちゃって」
 ははは、と虚しく笑い飛ばしてみるも、佐藤くんは真剣に話し続ける。
「これは、俺の場合だけどさ」
「うん?」
「俺も小学生の時、嫌なこと言われて学校行けないことがあって……」
 それは、まだ私が佐藤くんを同級生だと意識する前、四年生の頃の話だった。「男のくせにお菓子作りしてんの?」とクラスのリーダー格の男子が言い出したのがきっかけで、今まで何も言ってこなかったクラスメイトまで『スイーツ サトウ』の息子であることをいじりだした。佐藤くんからすれば、男性がスイーツを作ることは当たり前のことだったので、面食らったという。当時の同級生の知識では、スイーツなどの甘い物=女子の象徴、だったようだ。
「俺がみんなと違うのか、って思って。そう言われるのも仕方ないと思ってたんだけど……」
 佐藤くんは、最初こそスルーしていたものの、止まらないいじりに思わず手が出た。一人のクラスメイトの頬を爪で引っ掻いてしまったのだ。怪我をさせたかったわけじゃない。ただ、抑えがきかなかったと言う。なんとなく、私が意思とは無関係に涙が流れたのと、似たものを感じた。制御できない、あの感覚を。
佐藤くんは、その日のうちに学校に親が呼ばれた。お母さんの頭を下げさせたことが悔しかったそうだ。
「母さんにすごい怒られて、塞ぎこんで、話す気にもなれなくて。しばらく学校行けなかった。でも、父さんが変わらず試作のケーキを食べさせてくれてさ。その時、初めて学校でのことを話せたんだ」
 からかわれたことを話すと、佐藤くんのお父さんは「ごめん」と謝った。それがまた悔しくて、佐藤くんはぼろぼろと涙を流していた。
「俺は、父さんの作るスイーツが大好きだから、謝らないでほしかった。できることなら、みんなにも好きになってほしかったんだけどな」
 結局、『パティシエ』という職業を知るようになると、佐藤くんへのからかいは無くなったという。私と同じクラスになった頃には、そんなからかいをする人は誰もいなかった。
「だから、その、何が言いたいかと言うと……」
 佐藤くんは、えーっと、と頭を掻く。話自体にもそうだが、珍しく長く話してくれた佐藤くんに、私は少し驚いていた。
「三田にも、うちのケーキ嫌いになってほしくない。体型がどうとか、その、気にするなってのは無理でも……気にならない奴もいるしさ……えっと、あいつらの声だけが全てじゃないっていうか」
「……うん、ありがと、佐藤くん」
 不器用な彼の言葉が、ずんと沈んでいた黒い塊を溶かしていた。佐藤くんにも、私の体型いじりの声が届いてしまったことが少し恥ずかしかったけれど。
「言いたかったのは、それだけ。付き合わせて悪かった。部屋でゆっくり休んで」
「ありがとう」
 佐藤くんが立ち上がったのと同時に、玄関の鍵が開いた。仕事終わりに、スーパーに寄ってきたであろうお母さんが扉を開けて「あら」と呟いた。私と佐藤くんを、きょろきょろと見つめる。
「佐藤さん家の」
「あ、お邪魔しています。ゆめのさんにプリントと、手土産持ってきたので……えっと、これで失礼します」
 丁寧に一礼すると、佐藤くんは帰ってしまった。お母さんは「手土産?」と言ってその背中を見送っている。私は、少し緊張して、お母さんに声をかけた。
「お、お母さん、お帰り」
「ただいま。体調はどう?」
 頬に触れる手は、秋に移り変わった空気で気持ちよく冷えていた。私はその手にぐりぐりと頭をくっつけた。どうして、私を気遣ってくれる優しい人たちの声より、傷つけてくる人の言葉ばかりを見ていたのだろう。
「ふふっ、今日は甘えん坊ね」
 少し嬉しそうなお母さんの声に涙腺が緩んだ。

 冷蔵庫を開け、ケーキを見つけたお母さんは「あらあら!」と楽しそうに声を弾ませた。一緒に箱の中を確認する。みかんゼリーが一つと、ショートケーキが三つ入っていた。
「ここのショートケーキ、ゆめの大好きだもんね」
「うん」
昼ごはんを食べていなかった私のお腹は、ぐる、と空腹を訴えた。「食べていいよ」とお母さんは優しく言った。お言葉に甘えて、ゼリーをいただくことにする。お店のショーケースに並んでいるのを見たことはあったが、食べるのは初めてだった。
『スイーツ サトウ』のみかんゼリーはシンプルだ。みかんゼリーの上に艶やかな果肉が二切れ乗っている。コンビニより特別感が出るのは、果肉の上に添えられたミントのおかげだろうか。オレンジとミントの色合いも素敵だ。
スプーンを入れると、少ない抵抗で掬うことができた。冷たく、優しい味が、空きっ腹に吸い込まれていく。果肉はジューシーで、より強くみかんを味わうことができる。緊張して少し乾いていた口に美味しく広がった。こたつで食べるみかんとはまた違った、洋テイストの味に酔いしれる。つるつると食べられてしまうものだから、気がついたら入れ物は空になっていた。こんなに美味しい物を食べて作られた体を、恥じる必要などないように思えた。
お腹はまだ空いていたけれど、心はかなり満たされていた。

「ただいまー」
「おかえり、お父さん」
「あぁ、ゆめの、体調は大丈夫か?」
「うん」
 午後六時を少し過ぎたころ、いつも通りお父さんが帰ってきた。私の肩に二度、ポンポンと強めに手を置いた。口下手なお父さんなりに励ましてくれているのだと思った。
「お父さん、おかえり。今日はケーキあるのよ~」
「めずらしいな」
夕食後、両親と一緒にショートケーキを食べた。佐藤くんのおかげで、三人でゆっくり過ごす時間が作れた。仕事柄、転勤が多く、単身赴任をしていた父は、初めて『スイーツ サトウ』のショートケーキを食べる。一口目からずっと「うまいな」と連呼している。
「ゆめのはこのショートケーキが一番好きなのよ」
「へぇ、じゃあ今年の誕生日はここで頼もうか」
 いつもお店で食べていたから、なんだか新鮮な気持ちだ。こっそりと小さなパーティーが開かれたような気分だった。コーヒーと紅茶も、いつもより実力を発揮している気がした。
「お父さん、甘いもの大丈夫なんだ」
「ふふ、むしろお菓子とか、ケーキとか好きよね」
「まあ、そうだな」
お父さんが甘い物が好きなことを、私は知らなかった。仕事が忙しかったとはいえ、『スイーツ サトウ』に行くのはお母さんとだけだったし、お父さんが甘いものを食べているイメージがない。むしろ、苦手なのかと思っていた。
 お父さんの新たな一面に驚きながら、私もケーキを頂く。ふわふわのスポンジと甘い生クリームが、舌をやわく刺激すると、脳が「ああ、この味だ」と懐かしい気持ちをよみがえらせた。つやつやのいちごの手前まで食べ、フォークでいちごを刺す。綺麗な赤色が生み出す、甘く白い生クリームとのコントラストが最高だ。あまずっぱさがじゅんわりと幸せな気持ちを運んでくる。この瞬間が、私は大好きだ。
「美味しいね、ゆめの」
「うん、美味しい」
 みんな食べ終えると、その美味しさの余韻に浸りながら飲み物に口を付けた。ほっと、息を吐く。ふいに、お母さんが問いかけた。
「そういえば、お金は大丈夫だった?」
「あー……、いらないって言われちゃった」
 二人は一瞬固まり、お母さんが慌てて財布からお金を取り出し私に渡した。
「明日お店に行ってこれる……? さすがにこれをタダにしてもらうのは……」
 私は、頷いた。現実は甘いことばかりではない。
 皿洗いをするお母さんの隣で、洗い終わった食器を拭いた。お父さんが、お風呂で歌っている声が聞こえる。
「あのさ、お母さん」
「なぁに」
「この前は、酷いこと言ってごめん」
 もう濡れていないお皿を見つめて呟いた。
「お母さんも、何も気づけなくてごめんね。ゆめのが学校で何があったのか分からないけど、いつでも味方だし、やっぱり私たちにとっては、ゆめのは一番可愛いのよ」
 鼻の奥がツンと痛くて、何も言えなかった。お母さんが私の濡れた頬を拭う。

 土曜日の昼時、『スイーツ サトウ』からお客さんがいなくなったタイミングで、お店の扉を開いた。店内には、レジの前に佐藤くんのお父さんがいるだけだった。一人でお店に入るのは初めてで、かなり緊張する。
「いらっしゃいませ」
「あ、あの。三田と言います、佐藤くんの同級生で」
「よくお母さんと来てくれていた子だね。今日は一人?」
 柔らかくほほ笑えまれ、緊張が少し解けた。
「はい。その、昨日、佐藤くんからケーキを頂いて……お金は断られてしまったのですが……」
 私は、お母さんから受け取ったお札をトレーに置いた。佐藤くんのお父さんは「そうかそうか」と笑う。しかし、お金は受け取ってくれなかった。
「代金は貰っていますから。大丈夫ですよ」
「え……?」
 もうお金は貰っている? 一体誰から? 朝、お母さんが払いに来たのだろうか。だとしたら、ひとこと残していくはずだ。お父さんが? でも、やっぱりそれなら連絡が……
「章のお小遣いから引いています。どうしてもケーキを届けたい子がいるからって言われましてね。三田さんのことだったんですね」
「え、と……」
 私は、色んな感情が混ざって、思考が停止した。
「章の顔を立てると思って、お金のことは気にしないでください」
 そう言われると何も言えなかった。全ては理解できなかったけれど、佐藤くんの善意を潰してしまうような気がしたから。深く頭を下げてお店を後にする。
 頭の中は、混沌としていた。お母さん、納得してくれるかな? というか、佐藤くんのお小遣いがいくらか分からないけど、今月もしくは来月のお小遣いは無いんじゃないの!? あ、佐藤さんの前で「佐藤くん」って言っちゃった。……佐藤くんにとって「どうしてもケーキを届けたい子」って他にもいるのかな。佐藤くんは……
「だめだ、月曜に話そう……」
 家に着く頃には、これ以上考えても無駄だと気づいた。あんなにこびりついていた嫌な言葉や声はいつの間にか小さくなっている。今は、佐藤くんのことで頭がいっぱいだ。

続く

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