日記(ときどき更新)
二月十三日
アイのない恋人たち
「あんたが好きそうなドラマやね」
お母さんが洗濯物を畳みながら、独り言のようにつぶやいてくる。
私はすかさず「よくわかってるじゃないか」とツッコミを入れる。
「男女7人」と聞くと、昭和世代の人は「男女7人夏物語」のようなトレンディドラマを思い出すのだろうか。ファッションしかり、髪型しかり、なんだかギラギラしているし、話のスケールがデカすぎてあまり好みではない。でも、その頃の時代の空気を吸っていれば、泥船に乗って生きているような現代を少しでも楽観的に過ごせていたのではないかと思うと、羨ましくはなる。
このドラマは頻繁にベットシーンなど出てこないし、好きな人が海外(たとえばアメリカ)に行くのを必死に追いかけるみたいな、ありきたりな演出もない。「なにモジモジしてんねん」「こりゃ拗らせとるな」そんな声がいかにもお茶の間から聞こえてきそうだが、SNSやマッチングアプリを使って、すぐに「ゾーニング」して「見たくないものは見ない」が可能になった私達「Z世代・ミレニアム世代」からしたら「あーデジャブ。」の連発。
現代の若者に近いのは「淵上多聞」や「今村絵里加」のような人物だろう。いわゆる、今まで誰からも「愛」を貰ったことがないひとたち。親からも、異性からも。それは「仕事」でも同じ。彼らは、自分がやりたいと思ったことを受け止めてもらえなくて「なんで理解してくれないの?」と執着する。それは「あなたたちは天使で、ここはきれいな世界なんですよ」と教育されてきたからだ。タバコも酒も悪いものだと教えられたんだ、このままなんでも「正攻法」を取ってやろうじゃないか、と思う。でもそんなにこの世界はきれいじゃない。むしろ忖度にまみれている。でも私たちはわからない。昭和時代のように「むちゃくちゃでもいい」というクオリアが存在しないからだ。クオリアを共有できなければ私たちは分かり合えない。
その一方で、私は「久米真和」に惹かれる。
彼はきっと「言葉なんて、どうでもいい。」と思っている。
そんな奴が脚本家を目指すのか?そう思うかもしれない。だが「言葉では結局人は分かり合えない」と、数多ある女性経験の中で悟ったからこそ、彼は一見優しく見えるセリフを即興で人に伝えることが出来る。言葉なんて心底どうでもいいと思っているから「付き合う=性行為=言葉以上」だという認識が彼の頭の中で、こびりついて離れない。稲葉愛もそういう点では似ていて、言葉では響かないと分かっているから「もう真和しかいないよぉ」と彼の胸に飛び込んでいくのではないか。
「アイがない」と言っても、彼らの「アイがない」は底知れない。
二月十四日
忖度
「詰将棋みたいに外堀から埋める」
これが相手に言うことを聞かせる必勝法。
地域活動を始めて、嫌というほど忖度を見てきた。
私は大学生の時、団体を立ちあげて「子どもの居場所」を作ろうと思った。
行政に助けを求めたが、何時まで経っても核心にはいかず、連れまわされてばっかり。それなのに、行政が始動して始めた子ども食堂は、とんとん拍子で話が進む。「一つの町に一つ子ども食堂を作って実績アピール」という彼らの保身が透けて見える。区長に至っては団体に一言も連絡もなく、その団体の活動を自分のもののように講演していたりするという噂まで。そもそも真昼間にイベントを開催して、大学生が来れるわけがない。くそったれ。
「地域で活動したい」
となれば、やっぱり誰でも行政をまずはじめに頼りたいと思う。
期待していたからこそ、その落差に私は傷ついた。
そしていつからか「一つの組織だけに頼るべきではない」と思うようになった。今思えばそれは当たり前の選択なのだが、社交不安に陥っている人間は出来るだけ少ない人間との交流で精神的満足を得たいものである。悪く言えばずっと、常に、依存していたのだ。よく言えば、周りの人に愛されて育ってきたとも言えるが。
わたしはわたしが愛されないと知った。
こんな体験を何度も繰り返していたら身が持たないと思った。
だから、複数の依存先を作っておかなければならないと決めた。
それは人類全体に使える処世術か?
違う。複数の依存先を作って満足していたら、いつか不感症になる。
どんなに愛の言葉をかけられても、嘘じゃん、と思うようになる。
たくさんの人から愛をもらえれば、それは足し算になるか?
そんなことない。
結局は、子どもみたいに「抱っこして」「こっちきて」「手をつないで」と恥ずかしがらずに人に言えるのが理想だし、そんな無邪気な愛に動揺せずに受け止められるのが理想である。
計画を立てることは大事だけれど、幸せとは何か考えて生きている人はみな不幸。一番いいのは中動態でいること(周りからみれば中動態の人と主体的な人は同じだが)。じゃあ、みんなドラッグにハマればいいいのか?というと、そうでもない。自分の好きなことと自分の出来ることを見極めて、何も与えようとしなくても相手が勝手に幸せな状態になってるのが一番いい。
二月十五日
月の満ち欠け
「今日の月齢」を調べるのが習慣である。
なぜそんなことが日常になっているかというと「身体が重い」「身体が熱い」「頭が痛い」「身体が硬い」というときは、決まって満月だからである。読者の方からしたら大したことがないかもしれないが、私からしたら世紀の大発見なのだ。最近はスマホを見なくても満月の3日前になると、なんとなく「3日後が満月だ」と予測できるようになってきた。
そういえば、小学生くらいの頃に体調を崩すことが多くなって不登校になりかけたことがあった。その時は私に、忍耐が足りないせいなのだと思っていたが、今思えば、私の身体が月の満ち欠けや気圧の変化に敏感だったのがかなり大きな要因を占めていたんじゃないか、と今は思う(確認しようがないけれど)
このような自分の身体の特性があったので「学校」という場は私にとって居心地がいい場所ではなかった。そもそも先生が私の身体が「月の満ち欠け」や「気圧の変化」に影響を受けているんだよ、と提案できるような寛容な知識や心を持っているとはとても思えなかったし、先生は「外れ値」を見ようとしないで、自分の正義を貫き通してくる生物だと思っていた。
「身体の痛み」は、体験したものにしか分からないし、思いつきやしない。
いつも頭ごなしにわたしを諭そうとする奴らには「なにもわたしのこと見てないじゃん」と心の中で蔑むようになった。そして、そういう奴らはこういう文章を片っ端から読んで症状を分かった気になるんだ。さらにバカバカしくなる。身体の痛みを伴ったこともない人が「アライ」になれる?私は全く思わない。人に触れずに理解することは無理だ。触れずに理解するということは、相手をモルモットと同じ実験体として扱っているのと同じ。
相手を理解するときには、必ず痛みを伴うものだ。
二月十七日
藤堂志津子と千早茜
お二人の小説の中には、様々な関係の男女が錯綜している。
そしてみな、どこか共通する部分を持っているように思う。
それは宇宙の滅亡を考えてしまうくらいの、底知れぬ孤独なんだろうと思うが、二人は表現の仕方が違う。
藤堂さんの描く物語は、とっても現実的である。登場人物はみな、日々あくせく働く。セクハラに苦しむこともあるけれど、その悔しさをパートナーや愛人とのセックスで発散し、なんとか日常をやり過ごしていこうとしている。どこか「現実にしがみついていなきゃ」という心情が霞んで見えてくる。不倫の場面は沢山出てくるが、卑しく慰め合っているという感じは全くしない。「しっかりするところはしっかり切り替える」という賢さを、きちんと兼ね備えている。
では千早茜さんの物語はどうか。千早さんの登場人物はみな、一度泥に引きずり込まれたら、そこからどんどん落ちて戻ってこれなくなるような、そんなイメージがある。千早さんの物語はとっても幻想的である。しかしそれは「見えないもの」というわけではなくて、一部の人たちにとってはその世界が紛れもなくリアルで本物なのである。
千早さんの物語を読んでいると、不登校、LGBTQ、HSP、ギフテッドなどと人間を分類して理解した気になっているのが馬鹿らしくなってくる。だって、何でも作り出せる鬼みたいなやつがいて、誰にでも化けられる狐みたいなやつがいて、そんな奇妙な非人間と共存していた時代もあったのだから、少し周りに奇妙な行動する人間がいたくらいで動揺していたらバカバカしい。可哀想である、日常からお化けがいなくなったわたしたちが。
二月十八日
夕暮れに手をつなぐ
大好きな、永瀬廉くんと広瀬すずちゃんが出ているドラマ。
「青春ラブストーリー」と書いているのだけれど、磁石みたいに暑苦しくくっつき合っている様子が描かれているのではない。どっちかと言えばありがちな始まりで、空豆が失恋をしたことで橋から飛び降りそうになったところを音が助けるところから関係が始まる。一度は離れたものの、不思議なめぐりあわせで二人は共同生活を送ることになる。
二人とも「作曲」と「デザイン」という「才」があって、その「才」に身を任せて人生の波を泳いでいっているように見える。お互いがお互いの「才」に惚れ惚れしているのがとても素敵。「恋愛」という軸だけではなくて、「才能」という軸の上でも相手に惹かれているのが、良い。人間というものは、多次元的に見るべきなのだ。
わたしは、「君の膵臓をたべたい」の「桜良」と「春樹」や、「僕の心のヤバいやつ」の「市川」と「山田」のような関係が理想だと思っている。どちらの作品も最初、必ず男の子側が女の子側を拒否する。狐が高いところに実っている葡萄を見て「あの葡萄はかならず酸っぱいから」と諦めるみたいに。わたしはその葡萄が甘いか酸っぱいかよりも、彼らがどういうことがきっかけでその葡萄に出逢えるのかが大事である。彼らが行動して木に登ったって、必ずしも彼女らの気持ちを変えるとは限らないし、かといって動かなくてもあっちから葡萄が落ちてくる可能性もある。その何百万通りと考えられるストーリーを観察しているのがすきである。
誰でもそうだけれど、死にたいと思ったとき、社会に絶望したときに自分のことを掬ってくれた人は、一生忘れられないものである。「あの人は私の弱い部分を知ってくれているし、変わらないでいてくれるから」と。
でも、そう思う人ほどなかなか一緒にはいられない。二人でいればどんどんと深みにはまっていくし、一人でいるときに孤独を感じて、その孤独を相手で埋めようとして、依存して、相手が出来ること以上の愛で満たしてほしいと思ってしまう。必要以上の愛で、常に、私を満たして、と。そんな愛を諦めてしまうのも野暮だけど、本気でそんな愛を信じているのも身体が持たないので、複数の依存先に頼ってしまう。
「夕暮れに、手をつなぐ」の中に田辺桃子さん演じる「菅野セイラ」という女性が出てくるが、わたしは彼女から「自分と似ているところ」と「今まで依存してきた女性」の面影を見てしまう。砂のお城のように風が吹けば崩れさってしまいそうな儚い存在。そしてビイドロのように透き通った声。「私なんか」といいながらも、ハープを弾く彼女の姿には神様が宿っているような気がする。
自分の中にある「絶対的なもの=藤井風くんのいう『ハイヤーセルフ』」に絶対的な依存を出来る人が、わたしはすきだし、愛したいです。
きみはどうですか?
二月十九日
アイのない恋人たち 2
第五話も面白かった。
今回の話で真和がなぜ人を愛することからも愛されることからも逃げているのか、少しわかったような。まあその理由の一つとして大好きな人(=母親)が居てほしいときに居なかぅた、逃げた、という原体験があったわけだが。そこから「自分が心の底から愛した人ほどずっと一緒にはいれない」というふうに自分の人生を悟っていく。
稲葉愛は真和と同じ属性、つまり「同類」なわけだが、彼女から「わたしだけ変わってないみたいに言わないで。」と言われる。同類は同類同士できつく惹かれ合うのもわかるし、一緒にいれば「傷の舐めあい」になるのもわかる。そして、その「惹かれ合い」も「傷の舐めあい」もすぐに飽きることも分かっている。
今村絵里加の最後のセリフはよかった。
「わたしは逃げません。あなたが好きだから。」
理由のない、確信的で、絶対的で、純粋な、愛。
正和はそんなまっすぐな愛に恐れおののき、冷静になる。
「ずっとそばにいるとかそんな簡単に言わないでもらえるかな。」
別に仲のいい人はいっぱいいるし、孤独や絶望の感情が襲ってきても、その感情を埋めてくれる人はその人たちの中から探せばいい。
二月二十六日
アイのない恋人たち3
第六話。今回も面白い。
今回は「傷と再生」の物語。
今まで逃げて逃げて逃げ続けてきた「アイ」にやっとみんなが立ち向かう。
童貞の多聞や絵里加と、経験豊富な正和や愛とでは、克服しなきゃいけないものの種類が全然違うのかもしれない。
だけど、それはただ段階的に違う、ってことのように思う。
同じ種類の悩みを克服してよ、って相手に要求してもそれは難しい。でも
その瞬間瞬間で、みんなが超えなきゃいけない壁の高さは同じ。
まあ、ほとんどの人は自分が超えるべき壁しか見えていないけれど。
七人の中でも真和の孤独は際立っている。
絵里加や愛が殴ってでも止めようとしているのに、正和はそれを振り切って就活に行く。その場で吐き出せない本音を、面接の場で言ってしまう。
愛したいと思っている相手こそ、本音は言いづらい。
どうせ言葉だけでしょ。
追いかけて止めるとか、家に無理矢理入って止めるとか、金銭的にバックアップしてくれるとか。
おれに、そこまではしようと思わないだろ。
ほら。きみはその境界の内側で、その線を私が踏み越えていくのを、ただ眺めているだけなんだよ。
真和が持っているのは、そんな虚しさである。
二月二十八日
太陽諸島と多和田葉子
多和田葉子さんの小説は自由である。
こんなにも自由でいいのか、と思ってしまう。
登場人物の一人であるアカッシュは、インド人でトラッシュジェンダーである。「対象が消えてしまったかもしれないからこそ、幻のホームシックを感じることもあるよ。切断した手足が痛む幻肢痛ってあるだろう。」という言葉は、V・S・ラマチャンドラン「脳の中の幽霊(Phantoms in the Brain)」を彷彿とさせる。ラマチャンドランは「幻肢痛」をなくす方法を考案している。ここでアカッシュが「幻肢痛」という言葉を使っているのは、いずれ「性」に対するホームシックはなくなっていく、ということを暗示しているのだろうか。どちらにせよ、トランスジェンダーのアカッシュにこのような言葉を与える多和田葉子さんが、恐ろしい。
この小説の中では「ヴィ―ガン」や「フェアトレード」について登場人物たちで思索を巡らせている場面もある。
言葉というのは、どんなものも分けていってしまうもの。
そう思っていたが言葉一つで国の違いや性の違いまでも表す多和田さんはまるで、地球という世界劇場を飛び回って言葉と文学営為を運んでそれぞれ交互に受粉し多聞yミツバチのような存在。
影響を受けないわけがない。
多和田さんについては、また書こうと思います。
三月五日
アイのない恋人たち4
引きこもりの絵里加の兄を真外に出した真和は、やっぱりアマノウズメノミコトだった。人生を悟ったふりをして不感症になっていた真和も、相次ぐ悲しみには耐えられなかった。
学校では「テスト」「受験」のような分かりやすい大きな目標があちらから勝手にやってきて、誰もがそれを生きる糧にすることが出来たのだけれど、社会に出てしまえば分かりやすい指標は自分で作らない限りはやってこない。周囲からの罵倒や嘲笑も、いつかは慣れてしまうものなのだけれど、結局最後は自分で自分の惨めさに耐えきれなくて破裂する。でも、隠れた天照大神を天井戸から出したアマノウズメのミコトのように、境界の内側に閉じこもってしまった人間を外に出すには、自分の感情をさらけ出さなければいけないものだ。それを真和も分かっているのだけれど、一人ではなかなか踏み出せない。だから絵里加と愛が後押しをする。
7人、だけでなく人類に共通していることだが、境界の内側から外側に向かおうとするときには、必ず拒否反応が出てしまうものだ。絵里加や多聞は「異性」という対象に怯えを感じているので分かりやすいだろう。絵里加は真和からのキスを、多聞は栞からのキスを一度拒んでいる。でも拒否している時間は、自分の身体に相手を受け入れるための抗体を作るための時間でもあるような気がする。
今回の7人は、自分の身体に抗体を作って、本当に掴み取りたい「アイ」に初めて向かっていくことが出来たのではないか。
四月十五日
過去から逃げている
わたしは人生の中でいわゆる「ドタキャン」と呼ばれるものを何度もしてきた。いろいろやらかしている。新しい人間関係を作れば、また信頼関係を一から積み上げていくゲームが始まるけど、世間はすごく狭くて、自分の突き詰めたいことを突き詰めていくほど、嫌な過去に向き合うことになる。
たとえば地域活動で一度仲よくしていた人で、急に連絡を取らなくしてしてしまった人がいる。音信不通になればこれから関わることはないか、と安心して日々を過ごし、新しい人間関係を構築してみるのだけれど、新しい人間関係を作った中にその人もどこかで繋がっていて「こんな人がいてね」と紹介されるたびに、息苦しい気持ちになる。
常勤で働くより、非常勤で働くほうが人間関係は楽だが、やらかすことが多くなるし、その火種が大きくなる確率の高い。わたしはスケジュール管理も時間把握も得意ではないし、出来ればやりたくない。非常勤の方がそういうことをやらなくてすむかと言えば、その逆で、ずっとその場にいないからこそいるタイミングで完璧にしておかなければならない。矛盾している。
学校なんて、非常勤が働くことを前提とした仕組みだとは思えない。なにかやらかしたら、真っ先に火の粉が飛んでくるし、仕事内容は勤務時間内では確実に終わらない。
最近、自分の衝動性と上手く付き合えるようになってきた。
でも、たくさんのものを犠牲にしすぎた。
過去の人間関係に戻れば戻るほど、信頼のない自分を知る。
もしかしたら些細なことで今の人間関係も失ってしまうかもしれない可能性をかんがえると、とてつもなく怖い。
朝起きるのは苦手、満員電車は吐き気がするほどではないが嫌い。衝動性のままに動くことはメリットもあるけれど、リスクが大きい。だいだい信頼関係を失っているきっかけは衝動的に行動したのが原因なことが多い。低気圧のときは頭痛がひどいし、満月の日は身体が溶けるほど熱くて苦しくて寝込んでしまう。表面上で取り繕った人間関係とかをすぐに察してしまうから、同じ人間とずっといるのは苦手だが、人の名前も日程も時間も忘れやすいから、あまり非常勤のような働き方も向いていない。ビジュアルシンカーだし、人の声の調子には敏感だし、表情やにおいの変化もすぐに感じ取れる(わたし自身はそんなこと望んでいないのに)
はあ、いつかすべて今持っているものも壊れてしまいそうだ。
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