虚構が現実を決壊させるシンゴジ実況

 #シンゴジ実況 の話の続きになる。

シン・ゴジラはまだ見てないんだけど、このTwitterのシン・ゴジラリアルタイム実況には、災害後のPTSD回復のための心理療法、演劇療法的な側面がすごくある感じがして、やたらと感動していた。
こんな感じで↓↓

映画そのものは観ていないけど、それらからはみ出した二次創作はインターネット、中でもSNSの発達によって今までの文脈以上の表現方法を得て、どんどんと広がっている。
今までは紙のやり取りでしかなかったものが、もっと簡単に画像もテキストも、音声もやり取りできるようになっている。コピーも加工も簡単になってあっという間に作られるようになった。

コンテンツが、広がった。

同時に、今まで絶対的な優位性を保っていた紙の本というデバイスが一気に窮地に落とされて、その優位性に準じて形成されていた経済構造が大打撃というのも、最近もっぱらの課題となっているけど。

でも、ただ単に純粋に一個人のコンテンツの受け取り手としては、経済圏の構造も存在さえもよくわかっていない状態で見ると、なんだか世界がほんとに手の中にあるような感じがしてしまう。

だって、ゴジラが東京駅破壊しているよっていう虚構世界のツイートと、博多で大規模な道路陥没事故が発生したっていうツイートと、公園のオブジェが突如発火して子供が焼死したというニュースのツイートと、すべてが同列に並ぶ。とかやっていたら、アメリカでは泡沫候補だった男が大統領に当選した。

コンテンツそのものに、リアルも虚構も区別はなく、テキストにして並べてしまえば同列で、区別・判別するのは読んでいる人間にすべて託されている。

「これはフィクションです」という表示義務もあるかもしれないけれど、それさえフィクションは素材にしていく。

虚構が現実を飲み込んで、押しつぶし、すり替えていく。

今まで現実のほうが強かったのは、虚構の入れ物であるデバイスが少なかったせいだと思う。
紙、映画や音声、どれも大掛かりな装置を必要とした。
紙は比較的容易に加工できたが、それでも限界は今よりもずっと低いところにあった。
そうやって、虚構と現実ははっきりと区切られていた。

それが、急にその垣根が低くなってしまった。

時間をかけて醸成するものも減り、作家の肉声がリアルタイムで届く様になっている。世界のどこにいても、ネットにさえつながれば。

コンテンツの枠を死守しようとする古き良きオールドタイプの作家もいるかもしれないけれど、その枠はもう決壊してしまっている。
映画を観ていない私でも、まるでゴジラが東京駅を破壊して回っている息遣いを想像する。

それが本家=映画「シン・ゴジラ」の成功ともいえるし、マネタイズできない分損失という事も言えるのかもしれない。

ただ、何が成功で何が失敗なのかは、この激動の時代にはあまり意味を持たない。
すぐその意味は変わってしまうからだ。
最低限のゴールを作り手や提供側が決めて、それをクリアできればいいのかもしれないし、それこそ想定外になったPPAPみたいな事になって、それがいい方向じゃなくて悪い事が次々起こった場合にどういう態度を取るのかという事だけは少し考えておくべきなのかもしれないけれど(たとえば犯罪に使われたとか。炎上はもう物の数には入らないくらいの話になってきてるのがちょっと怖いけど)

ただ、シンゴジ実況というツイートを見ているだけでも「現実に迷惑をかけるな!」とか「現時点でその情報は民間には出ていないはずだろ」とかの枠をはっきりさせたい原理主義者が頑張っているのをちらほら見る。
原理主義者は強く発言するので見つけやすいだけで、数としては多くないと思われるけど。

「これはフィクションである」という枠が、その人の心を強く支えているんだろうなあ。

つまり、受け取り手にも、古き良き創作のスタイルを好むオールドタイプが存在する事になる。
作り手、届け手、受け取り手それぞれのスタイルが混在しているし、まだすみ分けができる状態にもなっていない。

それでも人の創作意欲、表現欲求は、途絶える事はない。

媒体の混乱は、逆に尽きる事のない表現欲求のせいなのかもしれない。
次々に新しい表現を求めて、コンテンツは形を変形させ続けていくし、それを誰かが止める事はむずかしい。
(止めようと妙な条例を制定しようとしたり躍起になっている人もいるけれど、根本的なところを止める事は出来ない)

この参加型のツイート群は、新しいコンテンツのひとつの形として多くの人に認められた。今までも漫画のキャラクターの誕生日を祝うとか、古くはドイルがホームズが死んだ小説を発表したら喪章をつけて仕事に出た銀行員がいたとか、そういうオタク層ははっきりと存在していたけれど、もっと間口が広がって創作をしないし同人誌も買わないけどオタク層と同じくらいの熱量で作品を愛する非活動型ファンもあっさりと「その世界への参加」ができて、それが「ひとつの作品」と化していく様をリアルタイム・ライブ中継で多くの人が見ている。これは今までなかなかなかったことじゃないだろうか。
閉ざされた場所のごっこ遊び、風俗から執事喫茶までなりきりコンテンツがビジネス化されている日本でも、ここまでの規模でオープンなコンテンツは初めてなんじゃないのかなと思う。

いつか、2ちゃん原作の電車男がドラマ化したように、このムーブメントが原作となって保存のために映画化されたりとかするのかな。
(そういえば大人気アプリのねこあつめが映画化するんだっけ)

すでにコンテンツは作者や配信者(届け手)の制御を簡単に失う時代になってる。で、だからこそ、妙な新しいコンテンツが生まれてくる。
そんな、ドロドロした魔女の鍋みたいな場所に立ち会えているっていうのは、けっこうグッとくる。
そんなメタ認知があるうちは、現場に没頭できていないって事だし、ついでにいうとこの見立てがどうなるかなんて事も、さっぱりわからないというのが実際のところじゃないかなとは思うけど。

瓢箪から駒がでても不思議じゃない世の中になったのだ。

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