ひとかけらの期待もない中で生きる
ちょっと前回書いた内容で、いろいろ思い出したので続き的なものなんですが。(一個前のnote↓↓)
というのが、やっぱりこういう事を書くと、言われることが「大変な目にあったから、それが生きているんですね」という内容の事で。
個人的には、その考え方が一番間違いの原因というか、そこで右に曲がったら目的地につかないっていう大事なポイントで右に曲がっちゃうみたいなことじゃないかなーと思うんですよ。
前にもこんなこと書いていますけど。
つまり、条件付けでなにかを達成しようとするなって事なんです…。
といっても、なかなかピンと来ない事のほうが多いのかなと、最近周りの反応を見ていて思う。
たとえば、わかりやすいところでいえば、東大に行けばえらい!というのも条件付け。
実際、東大っていう知能の高い生徒を集めて学術を極めようとする学府の存在はレベルの高い人間が集まっている事が担保されていて、東大出身ですっていうと間違いなく一定レベルの頭のよさとか知能とか、そういう部分に評価が与えられた経歴があるってわかります。
それは否定されるものではありません。でも、イコールえらい、なのか?というと、「いやいやいやいや、東大出のアホもいっぱいいるけどww」という人もいるでしょう。
学歴があれば安泰、という条件付けが崩壊している事も、たぶん想像しやすいと思います。
それと同じでね、マイナス方面にもそういう条件付けが存在するわけです。
天才はどこか気が狂った人がおおい。
=気が狂っているひとは、天才だ!
待てや、と思います。
大変素晴らしい人格の方でも、天才的な発想を持って実現している人はいっぱいいる!
あのね、人の才能をちゃんと見ないとダメですよ。
12歳でバイオリンがめっちゃ弾けるとかが天才なんじゃなく、ただコンビニのレジを打つという作業でも時々抜きんでた天才がいるからね。
駅前のティッシュ配りでも、たまーに彼女のまわりだけ空気が違う、スポットライトを浴びているような子とかいるからね。
それらは紛れもなく天才です。
気が狂っていて、なんか海外の有名な大学とかですごいって言われる論文を書いた人だけが天才、という認識がまずおかしい。
天才というのは、抜きんでた才能でその場を圧倒するような、そういう存在です。しかし、それは意識にのぼらない部分でこなされていることも多い、見えないけど「なんか彼女がいると売り場がすごいうまく回る」みたいなぼんやりしたケースもあります。だとしても、それは天才の仕業です。
だけど、多くの場合「しょせんバイトの高校生」という条件付けで見られてしまっている。
他者を見るときにそういうバイアスがかかるのは、もう仕方ないし、それが常識というものだし、そんなのは人の価値観によっていろいろ変わるから何とも言えないけど、それを自分が何かやろうという時にまで持ち出してしまうのが非常によろしくない。
条件というものに過剰な期待を持っている。
「すべてを放り出して裸一貫で挑戦したら(=これが条件)、売上がのびるかも」
待って、そこに因果関係ある?
ない、とは言わない。
余計な事を手放して、集中力を高めて物事に当たれば、自分の力をいかんなく発揮できるかもしれない。
でも、それ、ほんと?
私がコンサルタントが嫌いなのは、いくつか理由があるんだけど、彼ら(特にやっすい薄っぺらなコンサル)は「条件」を選定して、そこから結論を導き出す事をベースにしている気がするっていうのが大きい気がする。
コンサルティング受けたことないから、何も言えないけど。印象でしかないし、かなり悪い印象でものを見ているから、立派なコンサルタントからは「ちげーし」と言われるかもしれない。
でも、当事者でないコンサルタントの視点というのは、つまり他者から見て冷静な現状判断というもので、それを金出して買っているという印象。さらに、そこで得られる他者から見た現状というのは、つまり「今ある条件」ということでもある。
もし、その「今ある条件」が、ことごとくマイナスだったら。
それでも、絶対に何があってもプラスにしないと、死ぬか、良くてホームレス確定だったら。
今ある条件になんか頼っていられないんです。こればっかりは。
条件がダメという事は、すべてに期待できないという事です。
ひとかけらも期待できる何かがない。
しかも、マイナス方向の条件付けもことごとく結果に結びつかなかった。ものすごく苦労して、厳しい条件でいろいろ試したけど、ダメだった。
マイナスの条件であっても動いてはくれなかった。いつかは報われるなんて、それ待ってたらその前に死ぬかホームレスなんだけど。
脳みそが、空白になったような感じがしました。
目の前が真っ白になるみたいな感じか。いや、目は見えてた。なんというか、感情が消えたというか。もう、泣いてもわめいても怒っても、助からないってわかった。
簡単にいうなら、絶望しかなかった。
でも、絶望があった。
パンドラボックスみたいに、絶望だけが残った。
ついで、本当に今あるもの、残っているものだけが見えるようになったのです。余計な期待や、甘い希望が全部消えて、今あるものだけが残った。
それこそが、絶望が与えた恵みだったと思う。
そして、わたしは本当に今あるものだけで、つまり自分ができる事だけで勝負することを、やっと、やっと始めた。
やっと、期待値とかでなく、等身大の自分の力だけで努力を重ねる道を選び、そうやって努力をすることができるようになった。
それは、最後の、本当の希望だった。嘘偽りのない真実の、手の届く希望だった。その時は、そう思えなかったけど。
結局、人は自分ができる事しかできないんです。
期待や希望で自分ができる事を見失って、実際には何もできない状態に陥っている人が多かった。それに私もそうだった。
ビジョンや理想は大切だけど、結果として足元が見えなくなって、結果として何もできなくなる人になってしまうなら、ビジョンも理想も夢も捨てちまえ。そいつらは私にお金なんかくれやしないんだ、むしろむしり取って行くんだ、金にならないものはもう価値がない。だって金がなきゃ死ぬんだから。
私に死ねって、言ってるの?
それなら私だって、ひとこと言わせてもらいたい。
ふざけんな、死ぬくらいなら殺すからな。お前に、金がないという事実に殺されるくらいなら、わたしはどんな手を使ってでも殺してやる。
苦労した人には人格者が多いっていうけど、半分あたりで半分ハズレ。
正しくは「苦労したことで人格者といわれる人になれる人だった(そうじゃない僻んで妬んで死んでいった苦労人もたくさんいる)」という事だと思う。
そして人格者でいれば問題が起こりにくいという下心満載で人格者になっている人もいっぱいいる。
いい面ばかりを、過剰な期待をもって見る癖が、人間にはある。
そう思いたい、という不安がそれを支える。
期待は裏に不安がある。
期待は、条件を重視する。結果にたどり着くことまでカバーしていない。
それに期待というのは、すごく重い。ツラい。
子供に過剰な期待をかけて、結局潰しちゃうエピソードはたくさんあるけれど、それはすべて目の前の子の現実を、まっすぐ見ていないという事だ。今の自分を否定されながら生きるのは、とてもツラい事だ。
子供は親を愛しているのに、愛している人から「今のお前ではなく、未来のお前が大事なんだ」と言われた、一生懸命努力するけど、やっぱり限界ってある。
そういう事だ。
条件に期待しない、という視点を得て、それで生きる事ができると、「無理しなくていいんだな」って思える。
ついでに自分が無理しているな、ウソついてるな、踏み外しているなっていうのも感じ取れる。
そうなってから、やっと自分のできる事がはじまる。
……事がおおいと思う。(絶対条件とは言わない)
未来をちゃんと想像して、ワクワクして夢を叶えるっていうのは、ウソじゃない。
でもね、その前にやることがあるんだ。
条件に頼ることをやめること(それがプラスでもマイナスでも)。
絶望も苦痛も悲しみも不安も、あっていいと認めること。ムリに癒そうとしないこと。彼らが与えてくれる恵みは結構大きい。その時にわからなくても。
そして、それさえ、別に意味なんかないと投げ捨てること。
意味を持って生きようとしないこと。
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