(続き)私の現代アート解釈、その途中
睡眠薬を飲みならがらの個人的なメモなので気にしないで。
(途中から、目が覚めてから書いてる)
現代アートって、わけわかんなくてつまらない、なんなら汚らしいものを偉そうに出してきて反感を買うもの、みたいなやつがあるけど、それはルートのひとつであって、すべてじゃない。
1920年代、それ以前とそれ以降、わかりやすくキュビズムあたりからクラシックとモダンに分岐して、我々は今モダンの世界に生きている。
人工物で構成された地域差の少ない、どの国やどの街にもスタバがあるような世界。
まずその分岐があったこと、以前以降があることを抑える必要がある。
大きな分かれ目は、キュビズム。
ピカソのアビニョンの娘たちなどが「よくわからない芸術の印象」代表になって、その印象が現代まで続いているけれど、その感覚の起点がこのキュビズム周辺にあると思う。
この背景には世界大戦がある。
機械化による大量破壊と大量生産。
技術により、個人の技能から機械的な技能へのすり替え。
これはすごい転換点だったのだと思う。
パリ、ピュトー派のデュシャン三兄弟の末っ子、絵を描くことを終わらせた男マルセルは、その時代背景を持って出現する。
マルセル・デュシャンが現代アートの祖みたいなことを言われてるけど、その前の流れも押さえておかないと話が見えなくなってしまう。
なので、現代の絵画を旧式のスタイルの中に出現させようとしたマネか、ポリティカルアートとして暴れ回ったクールベあたり現代の祖なのでは??というところまでは理解が進んできた。
↑これを読んでおけば大体わかる。YouTubeも必見です。
印象派、からの世界大戦、キュビズム。
世界大戦が生んだダダはとても重要な役割=芸術が意味不明でバカらしくてムカつくものという印象になる大事な働きをしている。
そして、デュシャンはニューヨークダダの作家と言われてる。
デュシャンは、インパクト大賞なのは間違いない。
セザンヌ、またはアンリ・ルソーの、下手くそが切り開いた新世界というのも、アレなんだけど、なんか……いやそれもそれで、「写真でリアルに映せる時代に、リアルじゃない事に視覚芸術の伸びしろがあるのでは!?!?!?」ってテンションが上がっちゃったのって、ほんと頭のいいやつのお遊びって感じがある。
普通の人は、リアルに見たままに写されたら、その方がいいわけです。自分の見ている世界とずれがない方が安心するのだから。
でも、本当の現実は嫌で、みんな画像を加工する。
いい感じに盛る。邪魔なものはフレーミングして入れない。素敵な角度で撮る。その時点で写真も現実ではなくなっていて、視覚芸術がそもそも「見えるものじゃなくて、できればこう見えたいもの」の世界であることが、むしろ現代は全員がうっすら理解し受け入れ始めている。
なので、本当にそのまま見えることは、むしろ良くない場合がほとんど(すべてに満足してハイになっている人以外は)。
その「見えたままを描かなくていい」をさらに広げて、「美しいものじゃなくて、気味が悪いとか、気分が悪くなるようなものも、人に影響を与えるエフェクトがあるならそれを芸術表現として取り入れよう」という尖った集団が出てきた。
その後押しになったのが、やはり戦争で。
スイスのチューリッヒに、戦争を逃れてきた若者たちがヨーロッパ中から集まっていて、頭のいいやつが戦争のフラストレーションでイライラしていた。
彼らは、亡命できるくらい金と地位のあるボンボンが多くて、同時に自分の人生が思い通りにいかなくなったイライラを抱えていた。集まっては討論していたらしいのだけど、そのうちに「意味のあるものに意味はない!」とか言い始めて、「意味がないものが素晴らしいんだ!」みたいな感じになって、大学の文化祭にかつて祖国で遊び慣れたキャバレーや舞台の出し物、みんなピアノとか音楽の習い事やダンスとかひと通りやってるから自分ができるものが結構あって、そういうのをまとめて無意味な事をさも意味ありげにパフォーマンスして、ぎゃあぎゃあと騒いでいたらしい。
これが、戦争でうまい事いかなくなったイライラを抱えている芸術家たちには簡単に伝播してしまったのだろう。
スイスへの亡命者たちから生まれたダダは、パリで「なんかチューリッヒが今めっちゃ熱いらしい」みたいな感じに受け止められて、各地でダダ活動が広がったという。
地名を先につけて、パリダダ、ニューヨークダダ、なんて呼ばれていたらしい。
彼らは、戦争のイライラがベースにあり、既存の価値観である「荘厳で美しい」への反逆心を炸裂させ、「みみっちくて無意味で無価値」なことに熱狂した。
これが、今の「芸術ってなんか意味がない事を変にうやうやしく持ち上げて、せめてきれいならまだわかるけど、なんか汚いシミとかついたやつに意味があるとか価値があるとか言ってて、マジわからんし、一生懸命きれいに作っている人たちに失礼だ」みたいな感覚と、ばっちりイコールでつながる。
彼らは、つまり戦争で傷ついた若者たちは、自分の未来をぐちゃぐちゃにした権威を憎んでいた。自分の親を、祖父を、それらの国を。
だからそれに歯向かいたいが、歯向かえる力もなかった。せめて価値のない事でバカ騒ぎして、なんとか自分たちの実存を保とうとした。
それには、きれいで美しいものや、皆が立派だと認める=権威が否定するものにならないといけなかった。
だから、そこから現代アートが始まるので、美しさの否定は絶対に必要なルートであり、かつて素晴らしいと言われた職人技や高い技術などは全否定する姿勢が反映されたものは、王道も王道。
そして「意味が分からない」「適当なことを偉そうに言って嫌い」という外野の声が出るくらいでないと、表現としては弱い。
なので「現代アートって嫌い」という感覚を普通の人が持つのは、大正解なんだと思う。
彼らの伝えたいことを、実に簡潔に受け取っている。
権力側であり、美しいものがよいと思っている、普通の人たちの感想として「汚い、嫌い」という否定が出るのは、大成功。
っちゅうことがわかってきた。
ちなみに、チューリッヒの、ダダ発祥の地とされるキャバレー・ヴォルテールを見に行った。割とこじんまりとした建物で、私がいった2023年の6月は向かいが石鹸屋のラッシュだった。
芸術鑑賞にまつわるいくつかの誤解は、誤解させるようなことをわざと作家のほうがしているってことも理由だったのだなというのがわかってきて、嫌悪感も、イライラも、不安も怒りも、人間の感情や感性としてどれも否定される必要もなければ、美しさや優しさなどと等しく貴ばれなくてはいけないということまでが、一本の線でつながっていく。
だからこそ、芸術表現は救いになるんだろうね。
否定される感情や感性はこの世には存在しない、という世界。
ただし、巧い下手のほか、コネとか権威とかの人間界のごたごたは引き続き濃厚に漂うからゴメンな!みたいな。
一瞬の救いをちらつかせつつ、その100倍めんどくさい苦悩を与えてくる。
で。いうてデュシャンから100年は経ってしまった現代の、現代アート。
ここは、まだ私はよくわかってない。
まず過去の誤解を解くために、西洋美術史をサラーッと触って、歴史と地理と技術の進歩と、大まかな宗教と、人間の倫理観道徳観などの地域的な違い、そして文化文脈をしらないと、理解できないことがたくさんある。
やっと、理解できてない部分があるんだなというのがわかるところに来れた。
そうなって、「アートとは何でしょう?」みたいな雑な問いかけで作るコンテンツのバカらしさがはっきりわかっちゃって、「あー……」みたいな感じがすごいある。
歴史、地理、技術の進歩、宗教、気象、食事や体質、価値観、倫理観や道徳観(男女差別や人種差別などのヘイトや排斥運動)、その時代の識字率、そういうありとあらゆる学問を突っ込んでやっと話を理解するベースに来て、その理解から個人の表現である作品をどう理解していくのかがあり、それらの背景を全部無視して「鑑賞者本人である私の感覚」がどうなのかを外の意見に引きずられずにはっきりと打ち出していく、みたいなのが、芸術鑑賞の醍醐味になる。
だから、「アートとは?」じゃねえんだよなーみたいな感じにはなっちゃうよね。もっと詳しく説明してある程度の情報を共有し合った上で、いつの時代のどういう流派のアートの、その何について(技術的な事なのか、それらがもたらした影響なのか)話すか絞ってほしいなと思う。
でも、「アートとは何ですか?」という問いはそういう事じゃないんだと思う。「アートってよくわかんないけどいい感じのことってあるじゃないですかー?あれってもうちょっと具体的に言うとなんなんすかね?どういうのがおしゃれってことなんすか??おしゃれについて話したいんす俺!」みたいなことを聞いていて、そういう事をテーマとして投げ込むことで煽って動きを作りたいという、浅はかなボールを投げ込んできている訳で、そのくらい浅はかなボールのほうが何も知らない人間にはまあいいんかなって感じなんだろな、という感じがある。
安土桃山時代の屏風と、昭和の怪獣フィギュア、どちらの方が価値がありますか?みたいな話なのか、どちらも同じように価値がありますがその価値の違いはどのあたりですか?みたいな話なのかで、もう全部ズレていく。
怪獣フィギュアというか、怪獣映画や初期ウルトラマンなどは、当時の日本の新進気鋭の芸術家たちが作ったものだから、あれも明らかに現代アートの文脈にあるらしい。
とはいえ、そういう話は結局プライドとプライドのぶつかり合いとか、単純にメンツの戦いとかだったり、おじさんたちが趣味のものを持ってきてイチャイチャし合う世界なことがほとんど。
まじで。
そこに女性はいない事もないけど、本当になんていうか、女中かおっぱいか、みたいな役割しかない。おじさんたちって、おじさん同士でイチャイチャするのが本当に好きだからさ…。
女子ウケの権化みたいなアーティストの蜷川実花さんも太客はおじさんだと聞いて、なるほどなって思った。
結局、権威がついて、価値があると誰かが裏で操作というかごり押しして世に出していかないと、テーブルの上に乗ることができない。
そのテーブルの上に乗れないことを、作家側がめそめそと恨みがましく何か言ったり、逆にごり押しの操り人形になったり、なかなか大変だ。
過去の作品はもう作家も関わる人間関係がある人も全員死んでるからサッパリしたものです。そういう意味では、権力闘争を込みでプロレス的に見るのが現代アートの楽しみらしい。
と、村上隆も言ってた。
プロレス的な楽しみ方自体がもう、おっさんたちのボーイズクラブの楽しみ方だと思う。
女の楽しみ方って、代理戦争よりもいかに自分が盛れてるかみたいなことで戦うゲームのほうが多くて、おしゃれや美容、素敵なテーブルコーディネート技術などでバトルしがちなんだけど、おじさんたちは「俺、車持ってる」「俺、ピカソ買った」「俺の妻、女優」みたいな持ち物でカードバトルしてる。
だから、プロレス的に「あいつの仕切りでこれ出すの?まじか」みたいな楽しみ方は、カードバトル的な代理戦争の楽しさが強いと思う。
サルバトールムンディをセリ落としても、自分の美貌度がUPするわけじゃない。
そういうごたごたを「アートじゃない!」みたいに言うのは、なんか、純粋でおぼこい中学生みたいな精神だなってなる。
その中二病精神を大人になっても正当化できるというのもまた、アートの救いなんでしょう。
そして「自分が考える美しさがなければアートじゃない、芸術とは言えない」みたいなのは、前の記事に書いた芸術は自由でなくてはという主観的なものを最上とする判断のせいで、もっと歴史的な背景を知ってから理解してその上での主観を保てよというゲームにたどり着けていない。
ゲームにたどり着けていないのに、ゲームをしようとするから、脈々と本当のゲームをしている人たち(これもまた権威になっている)からは「あー……ボクそれは少し違うんだけど…そういう意見も素敵だね…今日はたくさん見ていってね」みたいな京都風の否定しかしてもらえない。
そして、余計に現代アートがわからなくなる。
そちらをフィールドにしている人は、素人を体よく追い払えて一安心って感じだし、素人たちは文化的な感性を体験できた気になって満足する。
そのあわいに立って、がっつり金儲けしてるイベンターも結構いる。
世の中って感じがする!
私も儲けたいな~、って気持ち。
でも、鑑賞者という試合は、これはこれで好きにやりたいので、今後も好きにやっていきたいです。
やっと現代アートまわりの、抵抗感や拒否感、変な憎しみ、巨額なお金が動くことへの嫉妬心だけでは説明がつかないあれこれについて、私の中で説明がついた。
そもそもはまずヨーロッパの歴史と地理。政治。
そして技術が進んだ世界での戦争によって、すべての価値観が破壊されるようなインパクトが起きた事。ヨーロッパはいつも戦争していたけど、今までとはちょっと一回の戦争の破壊の規模が桁違いになっちゃったという衝撃。
でもそれによって、逆に一般庶民の暮らしが劇的に向上することになった(医療や衛生環境の向上、電気の普及による利便性など)。
そういう近代化の背景がまずあって、それに引きずられるように芸術も変化し、それをさらに技術の進化が後押しして、世界が変わっていった。
その、歴史的に見てこんな短い期間でこんな大変化は、そうそうない。
その変化についていけない気持ちの抵抗感、理解を拒む拒否感。あるいは拒否感を持つ人をそばで見て、共に暮らしているという自分の居たたまれなさ。かといって変化が止まらず、むしろ変化はよい事だと煽る社会。
煽られても金が減っていき、不安が募る日々。
それでも生きる喜びが等しく存在する、引きちぎられるような毎日。
そういうのを、一瞬で、全部が、一度に味わえる。
私はそういう凝縮された多面的な価値や感覚を感じられることがすごく好きなので、アート鑑賞が好きなのだと思う。翻訳文学が好きなのも、翻訳者と原作者を一度で二度楽しめて、時代が違うとさらに楽しめる。
鑑賞は、作品だけではなく、見に来ている人も見るものです。
今は美術館でチケットを払って見に来る人たちだけど、300年前は教会の中で祈りをささげる人が見ていて、それもその地域にいる貴族や大金持ちだけが見ていたとか、逆に開かれた大きな教会で各地から巡礼の人が来ていたとか、「だれが見ていたのか」が価値になる。
ゴッホなんか「だれにも見向きもされなかった」ということがむしろ最大の価値だったりしているし。
その価値に、私も加算される。
加算されるが、それは誰とも共有できないものである。
絵を共有してもらうことで、私は誰とも共有できない感情を私の中に発生させる。
そういう遊びがとても楽しい。
つよく生きていきたい。