ルールは守れない人に合わせて作られるもの

もし、ここに「空腹の5人の大人」と「5個のおにぎり」があったら、この5人はどうするでしょう。

きっと、ひとり1個ずつ分けておにぎりを食べるのではないでしょうか。

「おにぎりはひとり1個」というルールをわざわざ作らなくても、そうするに違いありません。

考えて行動できる人たちをルールで縛る必要はないわけです。

これが、幼稚園児5人だとしたらどうでしょう。
中には他の人のことを考えずに2個食べてしまう子もいるかもしれません。
その場合には、「おにぎりはひとり1個」というルールを作る必要が出てきますよね。


私は、人は「考える力」をつけることで、生活が幾分か楽になると思っています。
子供のときに「考えて行動する」ということを周りの大人から教えてもらえる環境だった人は、その後の成長過程でさまざまなことを吸収するのが楽になっているな、といろいろな人の話を聞いても感じます。

ただ、誰もが恵まれた家庭環境で過ごせるわけではないですし、もともと持っている資質も違いますので、考える力がつかないまま大人になる人もいます。
そうすると日常では、人の指示がなければ動けなかったり、言われたこと以外はできなかったり、物事の背景を想像できなかったり、感情だけで動いたりしてしまいます。

考えることが苦手だと自覚していて素直に周りに頼ってくれる人ならいいですが、自覚のない人は間違った解釈をしてもそれを正解だと思いこんで譲らなかったり、性格の激しい人であれば陰謀論まで行きつく人もいます。

そういう人にルールのない中で自由に動いてもらうのは、少しリスクが高すぎるように感じます。

考える力がない人はダメだ、と言いたいわけではありません。
それに、あくまでもこれは私個人の感想で、ひとの価値観はさまざまなので「考える力なんていらない」と否定する人がいても当然だと思います。

ここで言いたいのはただ、冒頭であげたおにぎりの例のように「考えて行動できる人のみの集団だとルールを決めなくてもスムーズに事が進むけれど、そうではない人がひとりでもいるとルールを決める必要が出てくる」ということです。


話を進めて、もっと物事が複雑になってきたとき、誰に合わせてルールを決めるかということを考えたいと思います。

ここでまた例をあげます。

①計算が全くできない集団
②足し算だけできる集団
③足し算と引き算ができる集団

と、同じ年齢の3つの集団があるとします。

この3つの集団が、別々のクラスで授業を行います。
それぞれのレベルにあった授業ができるので、教える方も教わる方もとてもスムーズにできて良いですよね。

ところが、どうしても期末テストは全員一緒のものを受けなければならない…ということにします。

あなたがこのテストを作るとしたら、①~③のどの集団のレベルに合わせるでしょうか。

①に合わせると②と③の人は簡単すぎる内容になってしまいますし、②以上の内容にすると①が全く答えられませんので、とても難しいですよね。

このように、いろいろなタイプがいる中でルールを決めるとなると、全員が納得できるものはなかなか見つかりません。
誰かが我慢しなければならない状況が生まれることになります。


私たちは、普段さまざまな集団や組織に属しています。

自分ひとりなら個人の考えで動けますが、ふたりになった時点でもう考え方に違いが生まれます。
人数が増えれば増えるほど、集団で動くのもまとめるのも大変になります。

学校や会社であればその組織に合った人を選ぶことも可能ですが、“国”は基本人を選べないですし、あらゆるタイプの人がいるとても大きな集団です。
全員が同じ方向を向くことはまず無理ですし、全員が納得する決まりを作るのも不可能です。
誰かにとっての「いいコト」は、誰かにとっての「悪いコト」だったりします。


とても長い前置きから、新型コロナウイルスの話になりますが、なぜ今回外出自粛や営業自粛というルールが定められたのでしょうか。

相手は目に見えないウイルスであり未知のウイルスでもありますが、もし全員がその性質をある程度理解してリスクを考えて行動することができれば、感染拡大を防ぎながら生活をすることも最初から可能です。

では、なぜルールが定められたかというと、単純に「新型コロナウイルスの性質を理解し、自分で考えて感染拡大を避ける行動をすることができない人」の基準に合わせるしかないからですよね。

これがもし、考えて行動できる人に合わせて緩いルールを作ってしまったら、考えることのできない人はリスクの高い行動をしてしまうかもしれません。
それを避けるためには、全ての行動を封じ込める「家から出ない」を選択するしかない。

これが、もう少し小さな集団であれば、個々に対応することもできるでしょうが、国ともなれば「もうみんなひっくるめてこうしてちょうだい」とするしかありません。

誰かにとっていいことは誰かにとって悪いこと、と先ほど言ったように、今何を(誰を)犠牲にすべきかを考えた結果が「経済的に苦しくなる人を犠牲にしてでも、難しいことを考えられない人の基準に合わせるためにstay at home」だったということです。

自分で考えることが苦手な人は「家にいてください」と言われると、今度は外に出る人は誰もが悪だと思って、散歩をしている人でさえも罵ったりします。
なんなら周りに誰もいなくても、感染者が道を歩いただけで感染拡大すると思っている人もいるくらいです。
逆に「もし外に出る場合は誰となら会っても大丈夫か?親しい人なら許されるのか?」など、なぜ家にいなくてはならないかという根本的な意味すらわかっていない疑問を持つ人もいます。

説明しても理解してもらえるかわからないので、最終的には「いいから家にいて」となるんですよね。

とはいえ、経済的な死が増えてきた今、考えることが苦手な人の行動のリスクはあっても過度な自粛要請をやめ、犠牲の矛先を変えて次の段階に進むことも考えなければいけないのではないでしょうか。


と、長々と書いてきましたが、私はというと自粛の必要がなくなってもワクチン、又は治療薬ができるまでは、家からなるべく出ない生活になると思います。

心臓疾患があり体力にも自信がないのとパニック障害の名残があり、万が一感染して呼吸が上手くできないという状況になったときに、正気でいられるかわからないからです。

あくまでも私の考えですが、新型コロナの死亡率、致死率や、重症化する人の割合と、他の病気のそれを比べるのに何の意味があるのか、と思ってしまうんですよね。
誰しもが、いつどんな病気にかかって死ぬかがわからないのは事実ですが、今現在の流行り病にかかることとその他の病気にかかることは、状況的にもかかる人の精神を考えてもただのパーセンテージで比べるのには無理があると思います。

とはいえ、説得力を持たせるために数字を使うことも必要ですので、せめて感染症、その中でも同じ飛沫感染等の感染症だけで比べて欲しいものです。

インフルエンザがよく比べられていますが「30代・心疾患術後・体力なし・ワクチンは打っていない」という状況の私の経験上、あのくらいならつらいとはいえ我慢できるレベルです。
毎年たくさんの方が亡くなっているそうですが、私は軽症だったんでしょうね。
しかし、新型コロナに感染した軽症者の話を聞くと、インフルエンザよりつらいというじゃありませんか。

私はそっちの方が問題だと思います。
なぜ、他の病気と比べがちの人は、それぞれの軽症の症状では比べないのでしょうね。
軽症の症状がインフルエンザよりもきつい、というのはかなりわかりやすい特徴だと思うのですが。

他の肺炎でも同じような症状が出るといいますが、「今は」他の肺炎にかかる確率より新型コロナにかかる確率の方が高いわけですから、気をつけるにこしたことはありません。

たとえ重症や死亡の可能性が低いとしても、軽症の症状を聞いているだけでもう無理なので、絶対にかかりたくないと思っています。
あと、私だけではなく家族がそのような症状で苦しむ姿を想像しただけでもつらいですね。

世の中にはいろいろな病気でやりたいことを我慢しなければいけない人がいますが、だからといって周りの人がその人たちと同じように活動を止める必要はありません。
新型コロナに関しても、世間がまた動き出したときには気をつけなければならない人だけが気をつける世の中になると思いますし、それがあるべき姿かなと思います。

まとまりのない終わり方になりましたが、自粛と言われれば自粛し、自粛は誰かの命を守ると言われれば「そうだ!我慢のときだ!」と思う人、その気持ちはもちろん大切なことなのですが、ルールはそういう人に合わせて作られるものだとというお話でした。


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