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ゆたかさをやめよう

noteで「ゆたかさって何だろう」というお題を募集していたので少し真剣に考えてみた。

パチンコと給付金

まずこういうのは身近なことから考えていくことが一番の近道なので僕個人が最もゆたかさを感じる瞬間について思いを馳せてみる。すると自然と「パチンコで勝った瞬間」という答えが出てくる。自販機でお目当ての商品を押したらその商品が出てきた、と言うくらい当たり前に。

次に具体的な場面を想像してみる。今は昔、ガロという台が400分の1という低確率で稼働していたころ。僕は毎日のようにその台に座った。ガロという台は2万円投入しても1回当たるか当たらないかというシビアな台であり、さらにそのうちの半分はカス当たりという最初のハードルがとても高い台で、当たった時、さらにそれがカス当たりではなく真の当たりだった時の喜びは今でも脳みそに焼き付いている。

当然その先には爆発が待ち構えており、10万円ほど勝つことくらい造作のないことだった(いい時代だった)。

話を戻すと、僕の脳みそはその10万円を手にした瞬間が人生においてかなりゆたかな瞬間であると記憶している。

さて、10万円という金額を聞いて読者に思い当たる節のある通り、最近僕たちは国からの給付金というかたちでその金額を手にした、または手に入れる予定である人が多いだろう。そして驚くべきことに、僕はその10万円を手にしてもいかほどのゆたかさも感じていないことにびっくりしている。

このことから僕にとって「ゆたかさ」とはただ単に金額の大小ではないことがはっきりした。

或いはこういう場面を思い浮かべてもらってもいいかもしれない。あなたが所有していた株式がたいへん高騰したので売った。あなたは利益を手にしたのだがその後の件の株式は高騰、暴騰を続け、価値は元値の1千倍1万倍に。なんて場面を。

少なくとも僕は損をした。と感じると思う。それを何故かと問うならば答えは単純で、自分の得たゆたかさがその後にその株式を所有した人から見たら蚤のように小さいものでしかないからだ。

僕のパチンコと給付金も同じで、全員同じ金額をもらっていてはそれはゆたかさではなく、ゆたかさとは自分だけが選ばれて得したときに感じるものなのだ。

ゆたかさの本質

自分だけが選ばれて得をしている、というのは裏返せば自分以外の誰かが貧乏くじをひいている、ということだ。給付金の10万円が僕を全然ゆたかにしてくれないのは、それが全員に一律に配られているからである。

こんなふうに言い切ってしまうと「私はそんなことない!」という人がいそうだがもう少し話を聞いてほしい。もしそんな風に憤りを感じる人がいるならばその人こそがこのゆたかさという歪みの根本的な原因であるからだ。

ゆたかさとは誰かのまずしさである
と簡単に定式化しておいてひとまずは先に進みたい。このことを推し進めるとある疑問にたどり着く。自分のゆたかさが誰かのまずしさに依拠しているとするならば、もうそれ以上誰も見下げることの出来ない人はどのようにしてゆたかさを感じるのか、という問題である。

精神的なゆたかさというエコシステム

僕がここまで書いてきたことを読んでくださった方は当然乍ら思ったことだろう。ゆたかさとは物質的なものだけではなく、精神的なゆたかさこそ、人を幸せにするのだ、と。

僕もこれを考え始めた当初はそう考えていたが、どうやら考えれば考えるほど社会というのはもっと巧妙に出来ているということに気付いた。

さきほど簡略化した通りゆたかさとは誰かのまずしさだとしたらこの社会には滅多なことではゆたかさを享受しえないボトムが存在することになる。なぜならば、水が上から下に流れるようにゆたかさは連鎖するのだがそれ以上下が無いようなところでこのゆたかさの連鎖は止まってしまうのだ。

このことを考えていて一番びっくりしたのは、もうすでに人間社会には下に淀んだゆたかさの搾りカスのようなものをもう一度社会のトップに汲み上げる仕組みがあるということに嫌でも気づかされたからだ。それを精神的ゆたかさと呼ぶ。

一つの動画を引用したい

現在アメリカやその他の国で行われている黒人差別に対する抗議デモの一場面だ。ありがたくも日本語字幕がついている。僕がこの動画を見て一番興味深かったのは、(おそらく暴動も辞さないという覚悟を決めた人物から)「俺たちは肌の色が違うってだけで親の代から糞みたいな扱いを受けてきた。いつだって俺たちは神様にただ祈るだけだった。」という言葉が発されるところだった。

この発言は多くの示唆を含んでいる。何が言いたいかと言うと、下層で淀んだゆたかさを上層に汲み上げる装置としての宗教というものがもうすでに人間社会には備わっているのだ。

キリストの有名な逸話として「山上の垂訓」がある。これは弟子たちにイエスが自らの教えを説いたものとして最も彼の教えの特徴が表れている。曰く「貧しきものは幸いなり」と。

つまり社会のピラミッドの上層部には物質的なゆたかさが供給され、それが徐々に下に流れていく。なぜなら、ゆたかさとは誰かのまずしさだからだ。そしてやがてそのゆたかさがボトムまで流れ着くと今度は「貧しさこそ幸い」という汲み上げが発生する。これこそまさにゆたかさ(まずしさ)のエコシステムだ。

上層には金を、下層には宗教を

宗教にもいろいろあるが、仏教もまた苦しみからの解脱をテーマにしていることに注目すると、得心できることも多かろうと思う。さらに言えば仏教も最終的には弥勒が来てなんとかしてくれる、という大乗仏教に移り変わったのはより多くのボトムを救うためには当然の帰結ともいえよう。

上層から金を降らせ、下層には宗教をインストールすることによって社会はゆたかさを腐らせることなく循環させることが可能になる。貧しき人々は自らの境遇の悪さを誰かにぶつけるのではなく、貧しさこそ幸いである、と神に祈るのだ。ここにおいてまずしさは「神に選ばれる」ための精神的な優越感ですらある。

ゆたかさって何だろう
という問いに今更ながら答えるとするならば、それはパチンコであほみたいに勝っている時に隣で何万円も失っている人を見ることだし、「川の向こうは不浄の土地」というルールを定めて、そこに棲む人をあたかも人間でないことにして石を投げることだし、肌の色が違う人たちを異郷の地から連れ出して馬車馬のように使い倒すことだし、掃きだめのような環境でいるかいないのかよく分からない神に祈り縋ることである。

精神的なゆたかさを止めませんか?

もしかしたら僕のこの文章は誰かを悪玉にして、つまりこの世界には誰か悪い奴が一人でこの仕組みを作り上げて自在にコントロールしているかのような印象を誤って与えてしまっているかもしれない。

僕はそうは思わない。仮にもう一度まっさらな状態からやり直してもユートピアなんてものは決して生まれないし、必ず格差や差別はこの世界からなくなることは無いだろうと思う。

或いはこう言う人がいるかもしれない。多くの善良な人間は平等を愛し、差別を憎み、出来るだけ多くの幸せが隅々まで行き渡ることを願っている、と。

少し考えてほしいのだが、人類が誕生していったい何千年経っただろうか。仮にそのような「善良」な人々が大多数ならば、差別や格差がこの世界に未だ残っているはずがないと思うのはそれほど突飛な考えだろうか。

僕はどうしようもない社会の仕組みとしてこうならざるを得なかったのだと考えているし、特定の誰かを強烈に憎んでいるつもりはさらさらない。

今回の黒人差別デモの一報を聞いて多くのことを考えた。当然僕には誰が正しくて誰が間違っているだなんて特定できる頭もない。けれどこのゆたかさのエコシステムをもうそろそろ辞めるときが近づいてきたのではないか、と思うのだ。

ゆたかさが上から下に流れるのは、つまり誰かのまずしさが自分のゆたかさであるという本質は変わらないと思う。ただ最終的に淀んだゆたかさを汲み取る精神的な「ゆたかさ」という倒錯を止めるべきなのではないかと思う。

神を信じるな、というわけではない。幸せにはいろいろな形があることを否定するつもりもない。

ただ精神的な「ゆたかさ」という心地よいワードに包んで社会のボトムに暮らす人々の現実から目を逸らし続けるのではなく、物質的なゆたかさの格差はただ物質的な援助によってアプローチされるべきだと感じる。

多分これを読んでくれている多くの人が心からの善意で「苦しくても辛くても幸せになれる」と言うかもしれない。「物質的なゆたかさよりも精神的なゆたかさにこそ人生の本当の意味があるのだ」と言うかもしれない。僕はその言葉ひとつひとつを本当にその通りだと思う。

けれどそれは飽くまで僕個人の話であり、あなた個人の話に過ぎないことは忘れてはならないと思う。物質的な困窮には物質的な救済がなされなければならない。精神的なゆたかさはどこまでいっても個々に追求すべきものであり、僕達より無力で、救いのない人たちに対して精神的にゆたかであることを求めるのはあまりにも酷な話ではないか?







もしよかったらもう一つ読んで行ってください。