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色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年/村上春樹 感想②

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年(以下『色彩』)の感想を前回書いたのだが、出来ればまだこの小説を読んだことの無い人の楽しみが全面的に損なわれることの無いように、最低限のネタバレで済むように書いた。

もしまだ読んでなかったら、感想①に関してはそこまで物語の核心に迫るネタバレはしていないつもりなので、もしあなたがこの世界にあふれるありとあらゆるネタバレを憎むタイプの人間でないのであれば読んでもらえると嬉しい。とはいえ最後の展開はそのまま書いてしまっているし、読むか読まないかは自己判断でお願いしたい。

さて、今日はそういう読んでない人への気遣いは無しに完全にネタバレ有りでの感想を書こうと思っているので、もしまだ本作を読んでいない方で今後ネタバレ無しにこの作品を楽しみたいと思っている方がいたらブラウザバックを推奨します。

ここから始まり

前回僕個人の幼いころの記憶もからめて人と人とが関わることについて、ないし、大人になるにつれてどうしようもなく心に致命傷を受けていくことについて書いた。本作は耐え難い傷についての話であり、歳月とともにそれを覆っていく瘡蓋についての話だし、また、瘡蓋に隠れて絶えず流れ続けている血液についての話だとも。前回の感想では、そのような傷の生々しい痛みの記憶のなかで、それでも命綱を放して目の前の誰かに真っ直ぐ手を差し伸ばすことに主眼が置かれていて、それも本作から僕が感じ取ったものであることは間違いない。

一方で片手落ちだったことは否めない。過剰なネタバレは避けるという制約があったとはいえ、「可哀想な多崎つくるくんが本来の意味で人との関わりを取り戻すお話」と単純に言ってしまっていい小説ではないように思う。

そのため何故人は成長するにつれて人との関わりに致命的な問題を抱えるようになるのか、ということを問い直さねばならない。それはとても単純な話で、「そうする合理性があるから」ということに他ならないだろう。何も河童や天狗の類に傷つけられて僕らは大人になったわけではない。人が何らかの理由でコミュニケーションに問題を抱えて、人と関わることに痛みと怯えを感じるようになるのはもしかしたら実際に合理的に正しい判断なのかもしれない。これを簡単に「大人になるとはそういうこと」と片づけてしまうのは道徳の授業みたいで嘘まみれだ。

白根柚木(シロ)は多崎つくると共に高校時代に美しい友人関係を築いていた一人だ。彼女は美しい容姿を持ちピアノの才能に恵まれている。控えめでおしとやかな性格である彼女の告発——つくるにレイプされた——によってグループを追放されたことを多崎つくるは十数年越しに知ることになるのだが、彼には彼女をレイプした記憶も、動機もない。一方でクロの証言によりシロは実際に妊娠してしまっており、堕胎手術にも付き添ったことを告げられる。そのおよそ10年後浜松に移ったシロは他殺体で発見される。

それは物盗りの犯行ではなかった。現金の入った財布も、目につくところにそのまま残されていた。また暴行を受けた形跡もなかった。部屋の中はよく整理され、抵抗した様子もなかった。同じ階の住人は不審な物音を聞かなかた。
村上春樹. 色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 (文春文庫) (Kindle の位置No.3771). 文藝春秋. Kindle 版.
 殺人の目的は最後まで不明のままだった。誰かが夜中に部屋に侵入し、物音も立てず彼女を絞殺し、何も盗らず何もせず、そのまま去っていったのだ。部屋はオートロックになっており、ドアにはチェーンがついていた。彼女が内側から鍵を開けたのか、それともその犯人が合い鍵を持っていたのか、それも不明だ。
村上春樹. 色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 (文春文庫) (Kindle の位置No.3777). 文藝春秋. Kindle 版.

シロの死を事前に知らなかった多崎つくるはアカへの巡礼の際にシロの死の詳細を聞かされてとても驚く。さて、読者はおそらくこのように思ったのではないだろうか? 「この事件、臭うぞ!」と。当然だ。物語の主要人物であり、10代の頃の不可解な楽園追放のきっかけとなった人物が明らかな他殺体発見され、かつおそらく顔見知りによる犯行であることが示唆されている。これが臭わないのであれば、おそらく肥溜めで文化的な生活することも可能だろう。

けれどさらに不可解なことにこの事件の真相は語られることはないし、多崎つくるもそれ以上詮索することはない。「彼女を殺したのは僕かもしれない」とスコットランドでクロに話すが「ある意味では私かも知れない」とクロに返されて終わりだ。読みながら、おいおいそんなポエムを聞きたいんじゃないんだこっちは! といった気持ちになる。実際のところこの小説には不可解なことが多すぎるのである。

なんというかその数々の「疑い」に関して改めて僕から何かを提示することはおそらく出来ないだろうから、気になる方は「多崎つくる 犯人」とかで検索してほしい。シロ殺しの犯人として挙げられているのは大まかに二人で、シロの父親、ないし多崎つくる本人である。僕は読んでいて、多崎つくるの二重人格はかなり疑ったし、木元沙羅がシロの姉なのではないか、というのも考えていた(実際にシロには2歳年上の姉がおり16年前の事件が起ここるまでは電話口で冗談を言い合う仲だった)。もっと幅広く考えればクロにもシロを殺す動機はあっただろうし、木元沙羅が仮にシロの姉だったとして正体を隠していることに、ないし多崎つくるに再び名古屋での友人を訪ねることを勧めたことにどんな意味があろのだろうか。

などなど考え始めたらきりがないのだが、きりが無いついでにもう一人の色彩を持つ男、灰田文紹についても考えたい。灰田は多崎つくるがグループを追放された後に東京の大学で仲良くなる男である。頭脳明晰であるが形があるものよりも哲学など形のないものへ思考がいきやすいところは実際的なものに興味が限定している多崎つくるとはだいぶ異なる。率直にいって僕は読んでいるとき灰田は多崎が回復のために生み出した幻想ではないかと感じていた。

ひどくシャイな性格で、三人以上の人間が居合わせる場所では、いつも自分が実際には存在しないものとして扱われることを好んだ。
村上春樹. 色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 (文春文庫) (Kindle の位置No.690). 文藝春秋. Kindle 版. 

あー、はいはい。なるほど。灰田くんは多崎つくるが生み出している幻想の人物なのね。よーっし、もう少し気付かないふりをしていようかしら。
なんて思いながら読むのは「過剰な飛躍」だろうか? 僕がこの前まで読んでいたのがミステリ小説だったことを差し引いても、この読み方が「過剰な飛躍」であるとは言い切れないと今でも思う。現に名前の「文紹」の「紹」はおそらく「文昭」と常日ごろ使われる「昭」からのもじりだと思うのだが、「紹」という漢字が持つ意味の通り、灰田は名古屋の4人の特徴をそれぞれ「うけつぐ」容器であるように描かれている。

また、多崎つくるが一応の回復を遂げると彼はいなくなってしまう。いなくなる直前に多崎つくるは印象的な夢を見る。それ自体はその当時よく見ていた性夢で、クロとシロと3Pを決め込むいつものあれなのだが(その性夢で常に射精する相手がシロだったのは多崎つくるが犯人であることを示唆していないだろうか?)その夢に限って最後の射精を灰田が口で受け止める。多崎つくるはそのことをなかったことにして生活するのだが、灰田はある時を境に学校を休学してどこかへ行ってしまう。

また、灰田は印象的な話を多崎つくるに話す。緑川というピアニストの話で灰田の父親がある旅館で会った男だ。緑川は自殺するつもりも持病もないのだが自分の余命はあと1か月であることを灰田の父に語る。また、ピアノを弾く際骨壺のようなものをお守りのようにピアノにおいて演奏するという説明はとても意味深で何かを暗示しているように感じる。謎だらけの人物だ。当然多崎つくるはその謎めいた話をずっと気がかりに思っており、十数年経ったのち、駅の遺失物に多指症の手術で切った6本目の指があった話を駅員に聞かされ、緑川というピアニストが大事そうに持ち歩いていたものは6本目の指ではなかったかと直感する。僕は読んでいて地元名古屋の5人グループのことを考えていた。指も5本であり、6本目の指は幼いころに切り落とされてしまうことが多いらしい。本当はいなかったはずの6人目。これもまた灰田文紹という登場人物としての異質性を表してはいまいか……?


こんなことを書いていくと、なぜ僕が前の感想でこの小説が人と関係すること、それによって刻まれる傷と、その痛みについての物語だということを書いたのか不可解に思うかもしれない。だってどう考えたってこの小説には煮え切らない何かが横たわっており、まるで深海を我が物顔で往来する謎の黒い生物のように不気味にこちらの様子をうかがっているではないか。
明らかに作者が何者かによる悪意をほのめかしているのにそれを丸っと無視して「人と人との関係」などという通り一遍のありきたりな結末に帰着することが果たしてこの小説に対して誠実であるといえるのだろうか?

結論から述べると、僕はそれでもこの小説の主題は限りなく細い足場で、どこまで続くかわからない奈落の縁で、目の前の誰か——当然、自分にとって失ってはならない誰か——へと自己保身の一切を捨てて、手を伸ばすことだと思う。以下にその理由及び数々の疑問に対する僕なりの答えを書いていこうと思う。


——シロが殺されたのは身内の犯行ではなかったのか?

シロが殺されたのは30歳の時であり、多崎つくるを通してこの世界を見ている僕たちでは当然知り得ない生活および人生を白根柚木は送ってきたはずなのだ。身内の犯行だからと言ってそれが小説内に出てくる人物であるだなんて決めつけることは到底出来まい。その事実は、たとえばこんな些細な描写からも読み取ることが出来る。

灰皿の中には何本かメンソール煙草の吸い殻が残されていたが、それはユズの吸ったものだった(つくるは思わず顔をしかめた。彼女が煙草を吸っていた?)。
村上春樹. 色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 (文春文庫) (Kindle の位置No.3772). 文藝春秋. Kindle 版.

最初はこのメンソールの煙草が何かのヒントになっているのかもしれないと思っていた。けれどこれは「多崎つくるが何かに気付いた」描写ではないだろう。これは「多崎つくるは彼女が殺されるまでの10年彼女のことを何一つ知らなかった」描写だと思うのだ。


——では灰田文紹は一体なにもの?

彼は多分、ちょっとだけ空想的な思考癖のある普通の大学生だ。当然多崎つくるが生み出した幻想ではない。退寮届は客観的に彼の実在を証明している。

彼は灰田の住んでいる学生寮まで足を運んだ。灰田は先の学年が終了した時点で退寮届を出し、荷物もすべて引き上げたと管理人に教えられた。つくるはそれを聞いて言葉を失った。
村上春樹. 色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 (文春文庫) (Kindle の位置No.1615). 文藝春秋. Kindle 版.

灰田は多崎つくるの部屋によく音楽を聴きに来ていた。その中でもお気に入りだったのがフランツリストの巡礼の年だ。リストはピアノを弾くあまりの技巧に「指が6本あるのではないか」と言われたらしい。ちなみに白根柚木(シロ)が高校時代によく弾いていたのがリストの巡礼の年に収められた「ル・マル・デュ・ペイ」だ。単なる偶然だろうか?

単なる偶然だろう。
灰田が緑川という謎の多いピアニストの話をしたのも、多指症の指が十数年後多崎つくるの勤務先に遺失物として届けられたのも、現実世界で照らし合わせたら偶然以外の何ものでもないはずなのだ。仮にこの小説がミステリや怪奇小説の類なら話は別かもしれないが、僕は飽くまでこの小説は通常のリアリティを基にした一般的な小説だと考えている。


——ではなぜこうも意味深にシンボルが散りばめられているのか?

というよりも、実際のところ僕たちの生にも、このように強調されてはいないまでもまさしくシンボルが散りばめられている。極端な例かもしれないけれど、僕が小さいころ近所の子供が家庭内の事故で亡くなった。亡くなった子供の母親はその後少しおかしくなってしまい近所の子供たちを家に招いてよく分からない宗教や宇宙の話をした。僕の考えでは、その母親は自分の子供が亡くなってしまったのを、単に意地悪な神様の気まぐれというふうに考えたくなかったんだと思った。死んだ息子は帰ってこないとしても、その死を何かしらこの世界における意味のあるものとして捉えなければならなかったのだと思う。その母親の行為を笑うことができる人間がいなかったように、僕たちはありとあらゆるシンボルを何かの符牒として結び付けながら生きている。そして、当然ながら全てがシンボルで収まるわけではなく、あらゆる虫の知らせがそうであるように、それは「当たる」のだ。なぜなら外れたシンボルは忘れ去られてしまうから。残るのは当たったシンボルと、まだこれから当たるシンボルだけなのだ。

つまり僕たちの手元にはそのような意味深なシンボルだけが残される仕組みなのだ。そしてその手札をと比べて「真実」はどうにも味気が無く、ランダムで、突拍子もない嘘のようなものに見えてくることがあるだろう。ひょっとしたらこの世界の真実には僕たちが考えている以上に「真実らしさ」が欠けているのかもしれない。真実とは座り心地の悪い椅子のようなものなのだ。正しいのはこれだ、なんて確証はいつまで経っても得られず、本当かどうか分かりっこない疑念という突起や毛羽立ちに尻を永遠に刺激され続ける。


——なぜ木元沙羅は多崎つくるに近づいたのか?

ここまで読んでくださった方はお気付きだろうが、当然木元沙羅は多崎つくるに純然たる好意をもっているから近づいているのであり、それ以上でもそれ以下でもない。けれどこの小説を読んだ人の多くが気付いたであろう様々なシンボルが木元沙羅をゆがめている。彼女は(おそらく)白根柚木(シロ)とは何のかかわりもないし、あまつさえ彼女を殺した犯人でもない。

僕はこの小説を最終的に、命綱から手を離して木元沙羅に手を伸ばす物語だ、と結論付けた。言葉を変えると、僕らが立っているこの細い足場の下に横たわる筆舌に尽くしがたい根源的な恐怖、怯え、疑念は永遠に澄み渡ることなどないということだ。コミュニケーションを難しいものと捉えている人ほど現実世界で現実の人間と関係を結ぶことの背後に横たわるどこまでも深い猜疑の居心地の悪さに心当たりがあるだろうし、その居心地の悪さはこの小説のなかに潜む「なぜ木元沙羅は多崎つくるに近づいたのか」という永遠に答えが出ることのない疑念と似ている。

「実際に取り引きをしてみるしか、それが事実であるかどうか、実証のしようはない。そういうことですね?」 緑川は肯いた。「そのとおり。そういうことだ。実際に跳躍をしてみなければ、実証はできない。そして実際に跳躍してしまえば、もう実証する必要なんてなくなっちまう。そこには中間ってものはない。跳ぶか跳ばないか、そのどちらかだ」
村上春樹. 色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 (文春文庫) (Kindle の位置No.1154). 文藝春秋. Kindle 版.

或いは緑川と呼ばれるピアニストがしきりに使った「跳躍」なる言葉はその疑念と恐怖の淵で、それでも誰かに手を伸ばすことの暗喩だったのかもしれない。


随分と長くなってしまった。もうあんまり言葉を重ねるつもりはないけど、感想①でどうにも当たり障りのない感想を書いてしまって随分罪悪感に苛まれたのでそういうものを拭い去るために言葉を重ねる必要があったようだ。僕たちは真実と言う座り心地の悪い椅子に座らされ、絶え間なく嘘とも本当ともつかない疑念に苛まれている。そのなかでも「跳躍」することについて、しなければならないことについての小説であると思っているのは書いた通りだが、それよりも主眼はその跳躍する際に足元に横たわっている恐怖や怯えの深さだった。上手く伝わっていれば幸いである。最後にもう一つこの小説から引用して終わろう。

人の心と人の心は調和だけで結びついているのではない。それはむしろ傷と傷によって深く結びついているのだ。痛みと痛みによって、 脆 さと脆さによって繫がっているのだ。悲痛な叫びを含まない静けさはなく、血を地面に流さない赦しはなく、痛切な喪失を通り抜けない受容はない。それが真の調和の根底にあるものなのだ。
村上春樹. 色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 (文春文庫) (Kindle の位置No.3826). 文藝春秋. Kindle 版.








もしよかったらもう一つ読んで行ってください。