見出し画像

羽田恭さん、るるりらさん、こうだたけみさん ゆうかり杯

こんにちは芦野です。

ここ半年以上ずっと頭の中にあって「やらなきゃ、やらなきゃ」と思っていたんだけどどうしても着手できなかったことがある。

ネット詩の投稿サイトであるB-REVIEWとコラボさせていただいた、ゆうかり杯という企画である。これはどういうものかと言うと、B-REVIEWに投稿された作品の中で依頼があったものに関して僕が評をつける、という単純なものなんだけど、5作品レビューし終わって急に筆が止まってしまった。

僕としてはずっと書こう書こうと思っていたんだけど、気づいたらもうすぐ一年経とうかと言うところまで来ていて、さすがに「忘れてたんじゃなくて、ずっと何を書くか悩んでたんだよ」なんて白々しい言い訳ができる期限は過ぎ去ってしまっていた。そのことに関して、せっかく僕なんかに評をもらいたいと言ってくださった人たちに心から申し訳なく思っており、この機会を借りて謝罪したい。

その上で、僕の中で「詩を読まない人にも楽しんでもらうために」とか「詩をもっと好きになってもらうために」みたいな重苦しいハードルはいったん全部引っ込ませてもらって、「素直に僕がどう感じたか」というすごく個人的で、もしかしたらつまらないかもしれないことを書こうと思う。断っておきたいのだが、僕が書けなくなってしまったのは決して作品のせいではない。必要以上に「評者」である自分自身を大きく見せようとしてしまった見栄のせいだと、今になってようやく気付くことができる


ハンドルネーム:羽田恭
タイトル:酪農
https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=4112

この詩はとても静かな詩だ。ひとりの酪農家が牛とともに生活しているさまをそのまま切り取ったような詩だ。これ見よがしな暗喩や、気取った言い回しが出てくるわけではない。言ってしまえばとても「平凡」な詩だ。

こういう詩を書いたことがある人は知っているだろうと思うけど、こういう詩を書くのが一番難しい。どこでどうやって人を惹きつけるのか、わかりやすいフックもなければ表現におけるこれみよがしな技巧もない。

それではこの詩には何もないのか? と言う話になってしまいそうだが、そんなことはない。この詩には「時間」がある。時間があるとはどういうことなのか、少し関係ない話をする。

僕が高校生の頃、国語の教科書には(授業でやったのかは知らないけど)小林秀雄の「平家物語」が載っていた。載っていたのはもちろん全文ではなかったが、僕はそれをなんかのタイミングで読んでとても感銘を受けた。

詳しいことはもうあんまり覚えていないが、小林は「平家物語」に通底している「諸行無常」というテーマを「はりぼて」とか「見せかけ」のような言葉で片付けていた。「諸行無常なんてのはどうでもいいんだ。この男たちの息遣いを聞け。したたり落ちる汗の音が聞こえないか?」ということが書いてあって(うろ覚え)、とても衝撃を受けたのを今でも覚えている。

僕がその時学んだのは文章の面白さは思想の正しさではない、頭でこねくり回した理屈では到底辿りつけないところに文学の面白さがある、ということだった。

牛は草を運んでいる台車の草を盗むかのように舌を伸ばしてくる

何気ない一行だが、妙に胸に迫るものがある。ここにはひしと迫った牛舎の圧迫感とその間を台車に草を乗せて進む彼の手に重さとなって伝わるゴムの感触がある。その中で牛たちの鳴き声が響いて顔に似合わず狡猾な牛の舌を濡らす唾液の湿り気がある、。

風を作る大きな換気扇がうるさい

換気用の扇風機だろうか、ここには牛の糞の臭いがあり、身にまとわりつくむわっとした熱気がある。

本作は途中、少しだけ地球温暖化問題に触れ、一見政治的なスタンスに触れるそぶりを見せる。けれどここにあるのは、地球温暖化について一家言ある作者の提言でもなく、地球環境に寄せる問題意識でもない。ただその様々な要因の中でどうしようもなく生きていかなければならない、一人の人間の絶えることの無い息遣いであり、時の流れなのだと思う。


ハンドルネーム:るるりら
タイトル:ciao ちゃあみんぐ
https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=3976

トンビが「ピープル」って 巻き舌ぎみに人を探している

この詩の良いところはどこですか? と聞かれたら僕は迷いなくここをあげると思う。トンビの鳴き声がピープルだなんて、ってすこし安易なところはあるかもしれないけど、ここでは半ば天才的な手法で劇的に視野を転換している。

説明するのも野暮かもしれないけど、人間を高みから見下ろす視点に、「ピープル」と客観的に人類を鳥瞰する視点に、一瞬で切りかわっていることに気が付く、そして気が付いたときには人間はもう豆粒ほどの大きさになっている。

ドットな点なのさ 私は だあれ、点子と呼んでおくれ 

この発想の羽ばたきがこの詩の全てだと言っていいと思う。

正直なことをいうと、僕はこの詩の無垢さというか曇りなさに少しびっくりしてしまった。もっと言えばこの曇りない人間描写に僕なんかが何を言えばいいのかよく分からなくなってしまった。

あらんかぎりの表現が貯えられる図書館

という表現が出てくる。これは学者風の、狭い世界の中で言葉に精通した人物を思いおこさせる。それに対置されているのが、トンビであり、「まるいひと」なのだと思う。

図書館達と一緒に まるいひとを みかけた
その人は、身体の不自由な人のために 背中をまるくして
やさしいしぐさで シートベルトをかけてさしあげていた

図書館と喩えられた人物たちは「まるいひと」らの優しい心遣いにほだされて、丸みを帯びていく。つまりなんというかNHK的なのだ。僕のような不適切な人間は肩をすくめてどこかに行ってしまうほかない。

その一方で本作はこんな展開を見せる

いかりで まるまっていたかったのは点子です
やさしみで まるいひとを みつけたのも点子です

これは最初に見せた「視野の転換」があるから映える描写だと思った。決してはるか上空から見下ろすように「こうあれ」と指示するような視点ではなく、はるか彼方に自由に飛び去るトンビを見つけ、それと同時に自分自身を見つけるという二つの異なる発見の物語がここには記されている。

秋の、驚くほど高い空に米粒ほどの自由な鳥を見つけることが、同時に、その鳥から見返した米粒ほどの小さな私という存在の発見であること。その二つの物語である。


ハンドルネーム : こうだたけみ
タイトル びそあターャジス
https://www.breview.org/keijiban/?id=4123

僕が詩を批評するのって全部「意味」ベースなのでこうだたけみさんの作品を一体どんな風に語れるのか、というのはずっとワクワクしていた。

読んでもらえばわかる通り、こうだたけみさんの作品は視覚的に訴えかえてくる。回文や倒語を多用し、ある一定の規則性に基づいた文章の連なりが提示される。そして全体を見渡すと魚だ。

僕は魚が好きだ。食物としての魚も好きだけど、生き物としての魚はもっと好きだ。水族館によく行く。そして名前もわからないキモイ魚を見ては「ワーオ」と心の中で歓声をあげる。

そういえば去年の夏ごろに同じ映画を5回も6回も映画館に見に行った。「海獣の子供」と言うアニメ映画なのだが、あれも今思うと海と魚の映画だった。

一緒に見に行った友達が「深くてよくわからなかった」と言っていたのだが、僕は何が深いのかよく分からなかった。だってどちらかというと笑いながら見ていたのだから。

この「深さ」の問題で僕はこうだたけみさんにある親近感を抱いていて、以前ツイキャスのビーレビュー公式放送でこうだたけみさんが出演されていたのを聞いていたことがある。そこでこうだたけみさんは学生時代に「言葉を道具として遊んでいるだけ」と言われてムカついた、と話されていた。

僕もずっと同じような違和感を感じていて、「深さ」とか「意味」とか言われるとなんか無性に反発したくなる。

       イチ    (1)    地位
       ニ     (2)     に
       ミイ    (3)    意味
       シ     (4)     詩
       イツ    (5)    つい
       ムウ    (6)    倦む

そういうふうに今作を読んでいると。この詩はそういった、深さを測り、意味を探る視線に対するレスポンスがふんだんに用意されていることに気付く。

ダラカダダラカ  詩に他意 ハ ないしね  からだだからだ
ダラカポッラカ 生き詩たい ハ 蟻が鯛デス からっぽからだ
エウリダヒタシ   ニシン ハ 蜂なり   したひだりうえ
タシタヒニタシ    日本 ハ 昔話    したにひたした
  ユビライア  ニッポニ ア ニッポン  あいらびゆ
   キツソウ    トキ ハ トキ    うそつき
           とき ハ 過ぎ 

本作をこんなふうに引用することが果たして正しいのか疑問なのだが、「したにひたした あいらびゆ うそつき」なんてきらめくような詩句をこの詩に「遊び」という烙印をおしたがる口のなかに突っ込んでさしあげたくなる。

スジャータというのはガウタマ・シッダールタが苦行をしているときに牛乳を持ってきた少女の名前だが、僕の中では「お前さん、そんなあほなことしくさらんと、牛乳でも飲み」の女の子ということになっている。世の中には色んな詩があり色んな詩人がいて、それぞれ誰が正しいスタンスで誰が正しい詩を書いていることもないのだが、詩も他の芸術と同じく「正統」や「純粋」が殊更もてはやされたりする。そういうのをありがたがる人を否定するつもりは全くないけど。たまに「牛乳でも飲み」と言いたくなることがある。「意味」や「深さ」にとらわれすぎてしまうと人は苦行に喜びを見出すから。

この魚はよく見ると翼が生えていて、どこまでも飛んで行けそうだ。僕はずっと詩は意味ではなく「速度」だよ、と意味の分からない論を展開していたことがある。今になって「速度」ってなんすか? と聞かれても未だに僕自身よくわかっていない。

思うに「深さ」とか「意味」とかいう言葉にずっと反発を覚えていて、その全てを置き去りにしてしまえるような詩が書ければいいなと思っていた。

        ふかんしさお さすながれに
         たどりつくうみはどんな
          ちきゅうのいろして
           みえて ますか
            とじてまた
             あける
              口

泳ぐ魚が生の意味や深みにとらわれないように、ただしなやかに、水の弾力を跳ね返しながらすすんでいく、この詩はそういう詩だ。


最後に

随分とお待たせしてしまってすみません。あと、僕なんかに批評を依頼してくださって本当にありがとうございます。コンペティションではないので、改めてどの作品が一番か、とかそういうことを決めるつもりは最初からありませんでしたので、僕の批評を通していずれかの作品に出合った方がいてくれたら嬉しいなとただ思っています。

ということで閉幕です。


もしよかったらもう一つ読んで行ってください。