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統合失調症のともだちが結婚した話

前の前の前の会社でのグループLINEに「結婚しました」と一報が入る。久しく動かしていなかったバイクのように、エンジンがかからず戸惑うような時間が少し流れて「芦野さんの知っている人ですよ」と続いた。

知ってる人?
職場結婚? でも僕の知っているらしい結婚相手はどうやら僕の同級生だと言う。でもどうして? 年も育った場所も違うのに。ひとしきり思案に暮れると一人だけ思い当たる人がいて彼女の名前をLINEに書き込むと、正解だった。「もしかして○○さん?」「正解です」 ああ。なるほど。

さて、なんでこの話を書こうと思ったのか。少しだけつきあってくれると嬉しい。前の前の前の職場の友達は統合失調症と呼ばれる病気を患っており、僕も同じ病気の診断を受けている。近年、統合失調症という病名はあまり人に言いたい病名ではなくなった。近年? と思われるかもしれないが、僕がその会社に勤めていた時はまだそれほどでもなかった。

僕が統合失調症という病気の診断を受けてからの来歴は以前にも書いたのでもしよければそちらを読んでいただければ嬉しい。

統合失調症という病気はそう診断されると福祉サービスや就業における様々な規定などから同じ病気を患っている人と接する機会が爆発的に多くなる。もちろん正しく診断されて、適切な福祉サービスに繋いでもらえるのはとても幸福な例なのですべての人が当てはまるわけではないが。

もうわかったかもしれないが、前の前の前の会社で一緒だった友達と結婚した同級生の彼女もまた統合失調症である。

仮に彼女をAさんと呼ぶことにする。
Aさんとは中学校まで同じだった。とはいえ接点がそれほどあったわけではなく、お互い名前は知っている程度の仲だったと思う。だから再会したときに僕が彼女の名前を間違いなく言えたのはラッキーだったかもしれない。「もしかしてAさん?」「名前覚えていてくれたんだ」

僕たちが中学生ぶりに再会を果たしたのは「地域活動支援センター(以下、地活)」と呼ばれる障害者が日中を過ごすための場所だった。その地域によってどういう人が利用しているのかは差があるとは思うのだけど、僕が通っていた地活を利用していたのはほとんど統合失調症と診断された人たちだった。本来なら躁鬱病の方や発達障害の方も利用できるはずだが、どうして統合失調症の人の割合が多かったのかはいまだによくわからない。

一つ言えることとして、躁うつ病や発達障害の方は(症状が安定していれば)就業しているケースが多かった。僕の知っている範囲での話だが、地活は就業するにはまだちょっとしんどいと思われる方や、もう引退をしていてこれから働く予定の無い方が多かった。

例えばそこに通っている人のなかには僕が話しかけると全部柔道の技の名前で反応してくれる人がいた。

クニヨシさんは高齢の男性でいつも柔道の技の名前を口にしながら机のまわりをずっとぐるぐる回っていた。そして煙草を吸う時は口をとんがらせてとても上手そうに「わかば」を吸っていた。

話がそれた。
Aさんと再会し、僕はAさんと住んでいる場所が近かったので、地活に同じバスで通うようになった。そこでお互いの身の上の話をした。彼女は発症は中学生のころで、僕は知らなかったのだが、中学生の時点で学校に行くのはだいぶ困難だったらしい。だから中学生の頃は本当に苦しかったと言っていた。休みがちで周りの勉強のペースについていけず、友達とも段々と距離ができてしまう。

Aさんは「すごく仲が良かった友達がいて、その子と趣味の話をしたり、勉強を競い合ったりしていたのが、私が病気になって、学校にあまり行けなくなって、最終的にはその子のことがとても憎くなってしまったのがとても辛かった」と言っていた。この病気にかかった人で自分の人生を一度も呪ったことの無い人はいないのではないかと思う。彼女からしてみれば、急に見えない穴の中に落っこちてしまったようなものだ。そしてその穴の中は信じられないほど深く、耐え難いほどの孤独と無理解が待っている。

地活に行くと真っ先に幸江さんという高齢の女性が剥き出しの笑顔で皆を迎えてくれる。ただし何を言っているかはわからないことが多い。若い人はそうでもないかもしれないのだが、高齢の統合失調症患者の方は極端に滑舌が悪いことが多い。おそらく薬の副作用だと思う。ただ慣れてしまうと不思議なことに何を言ってるかわかるようになる。幸江さんはいつもニコニコしており、大きなかすれ声で話す。

幸江さんは近くの公営住宅に住んでおり、この地活の利用歴は一番長い。とても気のいい女性であり、テレビで直視できないようなニュースが流れると涙を流してしまうような人だった。おそらくエホバの証人だろうけど、キリスト教系の宗教団体の活動にとても熱心だった。さすがに地活に聖書を持ってきて利用者にキリストの効能を説き始めると支援員と呼ばれるPSW(サイコソーシャルワーカー)の人にこってり絞られてはいたが。

僕は勘が良かったのか耳が良かったのか、幸江さんと話ができる貴重な人材だったのでよく彼女と話をした。幸江さんはこの世界から戦争や貧困が無くなることを祈っていた。憲法9条を問題視する政府与党の動きを厳しい言葉でとがめて、自衛隊の海外派兵に憂いていた。僕は正直政治のことはよくわからないので、いつも曖昧な返事をしていた。でもそんなことよりも重要なのは、幸江さんがダイエット中にもかかわらず、毎昼、歩いて1分ほどの100円均一の自販機でメタメタに甘いサイダーのロング缶を買ってきては飲み干してしまい、そのことを支援員に指摘されて、大袈裟に顔に手を当てて「あちゃー」と顔をしわくちゃにしている姿がとても可愛かったことだ。それが一番重要なことなのだ。

また話が逸れてしまった。
Aさんは「病気になって偏差値が10も落ちた」と言っていた。これは病気のせいというよりも薬の副作用が大きい気がする。統合失調症の薬というのはとにかく身体と頭が動かなくなるのだ。しかし統合失調症の症状は「頭が動きすぎること」が原因になってることが多いのでそれも仕方のないことなのかもしれない。地活には休憩室と呼ばれる部屋がありそこでは4時間半ほどの活動時間であるにもかかわらず、バッテリーの底をついてしまった人から順番に倒れ込んでいった。その部屋は豊漁のイワシ漁船のように次から次へと疲れ果てた人たちが倒れ込んだ。

Aさんは僕と同い年なので、当然一息入れたのちにまた再び働けることを夢見ていた。彼女のことを代弁するならば、働くこと自体が楽しくて楽しくて仕方ないわけではない、どんなに辛くとも、自分が社会に必要とされていることを確認したいのだ。ただ彼女が飲んでいる薬の量がそれをなかなか難しくしていた。前の職場でストレスがかかっていたのにもかかわらず、あまりにも体がしんどいので自己判断で薬を減らしてしまい、症状が再発して完全に引きこもりになってしまったことがどこかAさんの心に引っかかっていたのだろうと思う。なかなかに道は険しい。

今思い返すと、あの時ぼくは意外と多くの人と話をしていたのだなと感心するのだが、その中でも一番話をしていたのが手島さんという僕よりも一回りほど年上の男性だった。手島さんも統合失調症でなぜだか気が合った。

手島さんはとにかくぼんやりした人で、例えば外で一緒に煙草を吸っているときに遠くに鉄塔が見えると、「あれ俺が塗ったんですよ」と言った。「どうやって塗ったんですか」って聞くと「『さささっ』って塗ったんですよ」と答えてくれる。

僕は僕で当時あまり脈絡のある思考が出来なかったので滅茶苦茶なことを言っていた覚えがある。医学用語で「言葉のサラダ」というものがあるらしく、統合失調症の主要な症状の一つらしいが僕がそれに当てはまっていたのかはよくわからない。

例えば「マントヒヒ野球やりたいっすね」みたいなことを突然言い出す。すると手島さんは「いいっすねマントヒヒ野球、今度やりますか」と答えてくれる。当時自分が変なことを言って、聞き返され「あれ、なんで俺そんなこと言ったんだろう?」と悩んでしまうことが多かったので、なんでも合わせてくれる手島さんとの会話はとても楽だったのだろう。
「蛭子よしかずラーメンでマッチョをスルメに変えるんですよ」
「あー、出汁がいい感じですね」

手島さんはぼんやりとしていて、とても穏やかな人だけど一度だけ電話でおかし事を言ってきたことがある。
「芦野くん、今テレビ見てる? なんかテレビ局が俺を狙って放送してるんだけど芦野君にも見える?」
あ、これはちょっとまずい奴だな、と思って支援員さんに相談した、その後しばらく手島さんは家に引き籠ってしまった後にまたいつもののんびりした感じで顔を見せてくれた。(ちなみにこの「自分だけに向けられた放送」という妄想は後に僕も体験する。たぶんこのことが頭に残っていたからだと思う。)

手島さんは今でも連絡を取り合っていて、たまに電話をくれる。社会復帰を成し遂げて、しばらくは働いていたんだけど、今は少し体調が悪くて仕事を辞めてしまったらしい。障害年金がおりず(僕の知っている限りだと最近は精神疾患の人は症状が相当重くないと障害基礎年金がおりない)少し荒んでしまった手島さんはそれでもぼんやりとして「どうやって食っていけばいいかな?」と言う。出来るだけ行政並び福祉と繋がりを持っておくことが一番最悪な事態から逃れる唯一の手段なので、「また地活でゆっくり過ごしましょう」とお茶を濁すしかない。お互い何があっても生き延びましょう、とは言えない、重く考えてほしくないから。

話を戻そう。
Aさんは僕が地活をやめて社会復帰した後に薬を徐々に減量し、なんとか日中の活動時間の限界値を伸ばしていったらしい、その後僕の前の前の前の職場に僕がいなくなってから入ったとのこと。2時間椅子に座って話をしていただけで完全にくたびれてしまっていたあの頃から考えると本当に苦労したんだなと思った。

近年、統合失調症という病名はあまり人に言いたい病名ではなくなった。

と書いたのだけれども、実際僕以外の人がどう考えているかは分からない。きっかけは京都アニメーションの放火殺人事件だと思う。あの頃色んなニュースサイトのコメントやSNSでの反応に「やっぱりトーシツは一生閉鎖病棟に隔離すべき」「トーシツを野放しにした行政の失態」「かけがえのない一人ひとりの命がトーシツによって踏みにじられる」「植松聖の正しさがまた証明されてしまった」「どうせキチガイ無罪」などがあった。

当然京都アニメーションの放火殺人事件の犯人が統合失調症なのかどうかは分からない。ただ思考を盗まれたという被害妄想が統合失調症の症状の一つであることは多くの人の知るところだろう。

当然乍ら僕は容疑者の擁護をしたいわけではない。事件と関係のない一般の人間として事件が裁判によって然るべく判決を下されることを祈っている。そして同じように統合失調症という病気に何かとても嫌な感情を覚えるという方に反論するつもりもない。その人が仮にそのような感情を呼び起こす何かしらの経験をしているとしたら、それを他人が否定することは出来ないと思う。

人にはそれぞれの経験があり、経験そのものを否定することは出来ない。同様に僕には僕の経験があり、ニュースサイトやSNSに散見された統合失調症という病気に対する理解とあまりにもギャップがあるように感じたので、このように自分の経験を文章にしている。願わくば、道徳の教科書に載っているようなあの説教臭くて胡散臭い感じが出ていないことを祈る。

友人とAさんが結婚したのを聞いて、ずっと喉にひっかかっていた魚の小骨がとれるような気がした。友人は同じ統合失調症でも幻聴や妄想などの症状はほとんどなく、逆に潔癖や神経質なところがあり、それ故に人の気持ちを慮りすぎて疲れてしまう人だった。Aさんは思い込みや幻聴を聞いてしまうタイプなので上手く補完し合うことが出来たらいいな。

途中で、この病気にかかって自分の人生を呪ったことのない人なんていないんじゃないかと書いたけど、今この病気にかかったおかげで出会うことが出来た人たちや、知ることが出来た世界をこのように書いてみると、そう呪わしいものではない気がしてくる。

最後に、こんな文章を最後まで読んでくれた人たちに感謝を。

もしよかったらもう一つ読んで行ってください。