コロナウイルスが蔓延する中Perfumeが東京ドームでコンサートをすることの意義

しばらくコロナウイルス関連でニュースがいっぱいでさすがに勘弁してくれよ、と思い始めている。その中でとあるニュースを目にした。TMレボリューションこと西川貴教さんがプチ炎上をしている話題だ。(と言うか炎上してたのは映画監督の木村太一さん)

西川貴教さんが「なぁなぁ、で結局のとこライブとかイベントはやっていいの?あかんの?どっち?」という発言をしたのに対して、映画監督の木村太一さんがかみついたらしい。「自分で決めろ」とのことだ。正直どうでもいいな、と思った。みんなコロナウイルス騒動で気が立っているのだろうと思っていた。

ただ僕は西川貴教さんが結構好きなので、なんとなく世の中の喧騒をなかったことにして惰眠をむさぼっている最中、自堕落な脳みそにこのことが浮かんでは消えていくのだ。なぜそんなことを言われなければならないのだろうか。

ベッドに入ってもう37回目くらいの寝返りをうったときに、はっと気づいた。胃の中で消化不良になっていたある考えとこの問題が奇妙な結びつきを見せていることに気付いたからだ。

消化不良になっていた考えというのは、「そんなん別に自由なんちゃうの?」という考えだった。これはPerfumeが東京ドームでのライブを中止しないと決定したとき(当時)ものすごいバッシングを受けていた状況に僕が抱いた感想だった。

あえてこういう分け方をするのももう古いのかもしれないけれど、左派と右派という政治的分類がある。諸説あるが、僕は左派を国家の云々とかよりも一人の人間の選択の自由を尊重するものとして、右派をひとりの人間の自由をある程度国家と言う公が調整することを許容するものとして、考えていた。

先に言っておくと僕は左派寄りだ。正直国家なんてものはわからないし、背負えない。もちろん公共というものは可能な限り尊重するべきものだと思っているけど、それはあくまで個人の自由を侵さない範囲でのことだ。

一方で右寄りの人と言うのが存在することも知っているし、僕は彼らと考えは全く違うが彼らが僕と全く違う考えを持った普通の人間だ、ということは理解している。彼らは人間の自由は国家や共同体があるからはじめて享受できる権利であると考える。公共のためにある程度個人の自由が侵害されることは仕方ないと考える。なぜならその公共がばらばらに崩れ去ってしまってはそこには自由もへったくれもないからだ。

僕は人間は生まれながら(たとえ奴隷として生まれても)自由であると、少なくとも自分に関しては思っている。それゆえ、最初に言った通り左寄りの人間なので共感はしないが、そういうふうに考えない人がいることを理解はできる。

「消化不良になっていた考え」に話を戻すと、僕はその性分ゆえ、Perfumeが満杯の東京ドームでライブをしようがそれは彼女ら(彼ら)の自由だと思ってたし、当然ながらそのライブに行く人間もそれは個人の自由だ、と思っていた。なので「そんなん別に自由やん」と思っていた。

ただ同時にそう思わない人がいることも理解できる。公共のためにはある程度個人の自由を制限しなければならないと考える人たちが、「けしからん」と言うのは当然だろうと思うし、「官邸はなにをやっているんだ」と怒るのもとてもとても理解できる。

いっそのこと中国のように都市を丸ごと閉鎖して、そのまま隔離してしまうのがウイルスを根絶するには最も効率の良い方法だということは誰しもが直感している。けれども日本では、Perfumeが東京ドームで5万人のライブをするかしないかの瀬戸際でもめにもめるわけである。

何故か、それは日本が全体主義国家ではないからである。民主主義国家であるゆえに、国が上からすべてを決めつけ従わせることはしないのだ。これがPerfumeがコロナウイルスが蔓延る現在、東京ドームでライブをする意義である。個人の選択の自由の最大限の尊重である。馬鹿げていると思うだろうか? しかし人間は法律を犯して、他人の自由を侵害しない限り、馬鹿なことをしていいのだ。少なくとも左派である僕はこの自由をとても大切なものだと感じる。

話を少し戻し、なぜ僕がこのことに関して消化不良な考えを持っていたのだろうか。西川貴教さんの話題を反芻しながらあることに気が付いた。猫も杓子も、という表現がしっくり来てしまうくらい、ほとんどみなが西川貴教さんの不安感を至極当然の考えとみなし、木村太一さんをなにか常識を持たない荒くれもののように考えているように見えた。確かに突然他人に失礼な物言いをするのはどうかと思うのが人情だろうと思う。

けれども「自分で決めろ」というのは、全体主義国家ではない、日本という国に生きる以上どうしようもなく発生する問題である。猫も杓子も、右も左も、緊急事態には国が出しゃばって決めることがさも当然であるかのように考えているのではなかろうか。先述の通り、「左寄り」である僕にはその考えは到底受け入れることはできない。法律を犯して、他人の自由を侵害しない限りにおいて、人は自由に意思決定をすることが出来る、というのが僕にとっての原理原則であるからだ。

繰り返しになるが、そう言う考えではない「右寄り」の人がいることも理解している。ある程度国が号令をとって、人々の自由を調整し、公共の利益を最大化すべきと考える人がいるのは当然理解している。それは考え方の違いだ。共感は出来ずとも共存は出来る。

さて僕がこのことでどうしても気持ちが悪くなり、濁った考えで腹を下したのは、僕と同じく、人の選択の自由は最大限尊重されるべき、という考えを持った人が、現政権批判のために魂を売って国に号令をとれ、と叫んでいるところをみかけたからだ。

目的と手段をひっくり返してしまうと、後に残るのはただ虚しい、死肉に群がる蝿のような生である。

もしよかったらもう一つ読んで行ってください。