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B-REVIEW選評 2020/9 芦野夕狩

B-REVIEWという詩を投稿するサイトから「9月に投稿された作品から大賞を選ぶ審査委員をやってほしい」と頼まれました。それでB-REVIEWに9月に投稿された作品を全部読んで、僕の能力と時間が許す限りで批評を書いたのが以下の文章です。かなり長い文章なってしまうのですが、良い作品ばかりですし、僕も一生懸命書きました。ですから目次をつけておくので気になった作品だけでも読んでくれると嬉しいです。それでは、はじまりーはじまりー。

さいしょに

これから僕は詩の批評というのをするけど、長い間詩の批評というものに携わってきたわりに批評というものがなんなのか、はっきり自分の中で定まっていない。

時にそれは工場作業員が基準を満たす製品とそうでない製品を振り分けるあの作業を思い出させるし、時にそれは巨大な壁に書かれた巨大な謎の絵を一晩中かかって解読する試みに感じることもある。

僕が最近気に入っている比喩は、詩を読むという行為は旧い友達との約束を思い出すようなものだよ、という喩えだ。実に気障ったらしい喩えだと自分でも思うのだが、「約束」というのはとてもシンプルで二人以上の人間が相互に承認することによって成立する。ここからどんなお話を取り出しても構わないけど、僕は詩を読む際に、それを批評する際に、その詩には読み手である僕と書き手である作者との「まだ明らかにされていない約束」が隠されていると感じる。僕にとって詩が坊主の有りがたい説法でもなく、どこかで聞いたような人生論一般でもないのは、その点においてのみである。

往々にして詩の書き手はスローガンを書かない、もっとも分かりやすい伝達の形をとらないわりに、心の中では溶岩のような詩情を抱え、それが誰にも伝わらないことを嘆いている。とんだ矛盾だけど、そういうものだ。一方で読み手である僕は、そこに「人生を豊かにする10の習慣」を求めているわけでもなく「可処分所得を二倍にする誰も知らない節約術」を探しているわけでもない。読み手である僕は同じように、本来誰にも伝わることの無い溶岩を抱きながら、作者の使う一つ一つの言葉の中にあたかも旧い友人と交わしたはずの、けれどもう忘れ去ってしまった「約束」を探している。つまり、もはやその詩は作者と読み手である僕にしか意味をなさない作品になる。ここに約束という秘密めいたものと、それでも何かを伝えたいとねがう伝達としての言語の混交があり、詩は畢竟、秘められてありながらもなお相互的なものであると考えている。

ところで残念ながらこんな比喩はこの批評文を書き終えたら忘れ去ってしまうだろう、特に僕は忘れっぽい人間だから尚更だ。ただ、まあ詩作品にしろ他の創作活動にしろ優れたものと劣ったものがある、というとても納得感があり明快で分かりやすい誤謬に気付くきっかけになってくれれば良いと思っている。ゴタクはいいからさっさとはじめよう。

ちなみにこれから挙げる作品は僕が一つ一つの作品を読んでいくなかで、特に僕の心に引っかかってきたものである。時間の都合上、残念ながら10作品程度をピックアップして話すのが精一杯だった。
また必要上ひとつだけ個人賞及び、大賞作品を僕の中で決めないといけないらしいのだけど、それについてはあまり深く考えないでくれると助かる。(順不同、大賞とか個人賞に関しては目次の最後「余談」で話すよ。あとこれを書いている時点で半数以上の作品が作者不詳なので全作品作品名だけを記名することにしている。リンクを飛んでもらえればどういう人がどういう顔で書いたのかわかるよ。)

Integrate

正直最初にこの作品を読んだ時、ちょっと食い気味に「僕文系なんで!」と心の中でバリアをはってしまったのを後悔している。未だに記号の意味は分からないけど、改めて読むとこの文章はとても魔法じみている。一つ一つの文章はやけに凝り凝りで、いったい何を表現したいのか一見わからないかもしれない。

靴底すら存在してはならない領域に
敷き詰まっているたいいく座り。
ちぐはぐになろうとする夜のために
アスファルトは規制を受け入れている。

何故魔法じみていると思ったかと言うと、一見何のことかわからない描写が、あるひとつの簡単なキーワードで一瞬にしてなじみ深い描写に変貌するからだ。或いはこの文章を読んで「靴底すら存在してはならない領域?!?!」となった人もいるかもしれないが、まぁ少し話を聞いてほしい。

浴衣に染みついた可視光の余韻、
無限へと解放される炭酸のみじろぎ、
肩と肩とを隔てる一枚の酸素、
喧騒に馴染めない掌のふたつ。

人間は自分勝手な生き物で、知っている話をさも重大な話かのように聞かされてもどうにも退屈してしまう、一方で「炭酸のみじろぎ」なんて言葉を何の手がかりもなく聞かされてもどうにも困ってしまう。

そんな自分勝手な読者(まあ僕なんだけど)を黙らせる方法はほとんど一つしかなくて「自分で気付かせる」ことなんだよね。自分で気付いた事実はいつだって重大だし、大事件だ。一度「ひらけゴマ」と合言葉を唱えた僕は、まさに「無限へと解放される炭酸のみじろぎ」を脳裏で一枚の鮮明な写真のように想像することが出来てしまう。でもその作者の微かな息遣いに気付くためにはいつだって少しの魔法の合言葉が必要になる。そしてこの少しの魔法はいつも読み解く側に委ねられていて、それを唱えた途端にそれまで不可解なだけだった文章が整列し、あまつさえ鮮明な映像にすらなって「読解」を導いてくれる。これが魔法じみていなかったらなんだというのだろう。

ちなみにいったい何が書かれているかは、僕の口から言及するのは避けておく。なぜなら自分で気付いた事実こそがいつだって大事件だからだ。

照り返す白線を挟んでとことこ。
雲はいつも波しぶき、津波のようにまだ彼方。

これまでいくつもの「君と僕」に関する詩を読んできた。けれど幼い頃の、手が触れあっただけで触れたところが激しい熱を持ってしまうような、あのイカレタ宗教みたいな恋愛をこんなにも上手く書いた詩はなかなかないと思う。この回りくどい表現全てが男子中学生の白百合みたいな純情を覆い隠していて、まるで照れ隠しのメタファーみたいじゃないか。

fog dream

ビル群が朝日に照らされた
美しい墓標だから
眠る人々はその中で
同じ夢を見ている
ベッドから落ちている
柔らかな腕も
同じ夢
犬笛

まだ目覚めていない霧深い街をゆく二人。そんなモチーフ自体がなにかとてつもなく新しいわけではないのだけど、唐突に出てくる「犬笛」という言葉が多分思っているよりも多くのことを語りかけてくる。そんな詩だった。

犬笛って本来人間には聞こえない周波数で鳴ると思うんだけど、この「普通の人には聞こえない」ってのがこの詩の抒情とすごくマッチしていて、とても響いた。或いはモスキート音のように若い人にしか聞こえない音、みたいな捉え方をすると「まだ汚れていない」という覚醒する直前の街を行く当てもなく彷徨う二人のアイデンティティを際立てせたりする。

僕が気に入ったのは、犬笛=ロックンロール って捉え方だった。RCサクセション(忌野清志郎のバンドだよ)の有名な曲に「トランジスタラジオ」という曲があるのだけど少し引用しようか。

彼女教科書広げてるとき
ホットなナンバー空に溶けてった

これは屋上で煙草を吸いながらトランジスタラジオから流れてくる曲を聞いている一人の不良の話。そして真面目な「彼女」は校舎のなかで教科書を開いている。

ありふれた抒情に感じるかもしれないけど、僕にはとても原初的で力強いコントラストに感じる。この詩で描かれているのは、眠っている人たちと「私たち」の対比。まだ夜に近いほうの時間と活動的な昼に近い時間との対比。そしてどこまでも異質な自分達と、どこまでも適切な世界との対比。

呼美奈ちゃん

シンプルな詩なんだけどなんだか気になった。世の中にあるすべてのものに名前がついてるだなんて! と思って生きてきたので個人的な感情も大いに含まれていると思う。

名前を付ける/付けられるってどうしてもこの世界に生まれ落ちるからには必要な通過儀礼なんだけど、本作で示されているように、その名前という檻の中で個別であることが少しづつ死んでいるような気がしてならなかった。

私ね、名前なんか欲しくなかった
時間の全てが名前に含まれており
名前が、私たちの永遠だ、なんて

個人的な話になってしまうんだけど、僕は錦木をなんでか知らんが「ポリゴン」って呼んでいた。大人になってあれは「錦木」だよって知って、それ以来錦木とはとても疎遠な関係になったかのような気がした。

同じように名前を付けられるというのは、誰かの子供であること、或いは自分の行いがいつも自分の名のもとに反響し続けるということを示していて、とてもじゃないが息が詰まりそうだ。

見上げる空が落っこちてきて
それはふるえる青色でした

しかし名前というのは同時に新しい発見でもある。最終連で落っこちてきた空を「ふるえる青色」と名付けるのは大きな示唆に満ちていて、この世界にはまだまだ新しい関係を結びなおせそうな存在がたくさんあることに気付く。最初に「詩は相互的なもの」という序文を書いたのだが、名前も実は一方が一方を指し示すための片道で強制的なものだけではなく、本当はモノとヒトが結ぶ相互的な関係でもあるのかもしれない。

獅子の町

最初に読んだ時「うまいなぁ」と思い選考ルームにピックしたんだけど、「芦野さんこれ何が書いてあるんですか?」と聞かれ、なんだろうと数時間頭をひねらせた結果、何が書いてあるのかはよくわからなかった。

春でもないのに蓮華の花が降って、落ちては消えていく
塩山を、繰りぬいて、部屋には蝋燭を灯している、盆地の町だ
星の街灯が立ち並んでいる
青い夕暮れになると、塩の結晶に橙の炎が反射して、窓や扉から光が漏れ出て

改めて読み直しても何が書いてあるのかはよくわからないけど、ところどころ誇張された街の描写がめくるめく展開し、何かを結実させる前に霧散していく。一方で初連から引き継がれている「傷」のモチーフは全体を通底していて、あたかも手負いの獣がこのデフォルメされ過剰にさせられた描写のなかに、傷ついた身体を隠蔽しているかのようだ。

僕はあまり象徴的な詩を読み解くことは得意ではないので見当はずれかもしれない。しかし或いは旅人は阿修羅のような苛烈な生を送るなかで傷を負い、けれど野生の獣のように傷は隠さなければならなかったのかもしれない。そのなかでほんの束の間の安息を満たすためのものが一杯の蜂蜜だったとしたら、彼が走り去った後に転がるその空き瓶は永遠に癒えることの無い傷の象徴だろう。僕たちが生きている社会にもこのような痛ましい象徴、傷跡がいたるところに刻まれていて、この詩は全ての傷ついた獣たちのための安息の歌なのだと思う。

記憶をつくる 

やや身内向けの作品ではあるが浅井康浩さんから強い影響を受けた一人として、懐かしい感情を呼び起こされた。この詩に関しては文学極道までいって元の詩を読んでこないとどういうことなのかわからないかもしれないし(さらにコメント欄も)、ここにURLを載せていいものなのかわからないから、非常に遠巻きな言い方になってしまうと思う。

記憶をつくる、というのは実際そうそうお目にかかる状況でもなくて、僕たちはだいたい記憶を呼び起こすか、忘れるかしている。作り変えることはあるかもしれないがそれは往々にしてネガティブなイメージを持つだろう。

岸本葉子さんとのミッドナイトトークに耳を傾けていると、詩人の長田弘さんの詩にたしか、記憶とは過ぎ去らなかったもののことなんだというのを詠んだことがあって、ほんとうにそうだなあと…そんなことを岸本さんが話し村上アナウンサーとお互いにうんうんと頷きしばらく盛り上がった。

このような何気ない導入から始まる物語は、過去にある一冊の書物を手にした語り手の記憶と、それを詩作品にしたものを投稿し「これでは説明的すぎる」と否定されるという二重の構造になっている。

本来自分が生きて経験したものの名残である記憶を誰かに否定されるというのは、よく考えると意味が分からないことだ。けれど本作ではその否定された部分を書き換え何重にも自らの体験を補強するように、手触りの感触や記憶の萌芽を隅々まで書き込んでいく。

そこまでくるとそれが記憶を改ざんしているのか、ひたすらに思い出しているのかよく分からないかもしれない。事実それは「記憶をつくる」という行為に他ならないわけだが、本作を読んでいると、記憶とはまさにそういうものだという気がしてくる。つまり記憶とは過去に起こったことの単なる余韻ではなく、まだ本当の意味で自分のものになっていない単なる過去の出来事を、自らの言葉の内に、自らの生の延長線上に、何度も描き出していく過程そのものなのかもしれない。

不在

鼻血からサカナの匂いがする朝 人魚姫より不幸だ、アタシ。
ひび割れたチャーハンの上でスプーンだけがなまめかしく生きてる。

引き算で詩を書くのがとても上手くて羨ましい。多分これは逆立ちしても僕には書けない。この詩の解釈うんぬんに関しては僕がどうこう言うよりも読まれる方がそれぞれに想像したほうが良いと思うから触れないでおく。

すごいなあと思うのは、引き算を続けた最後に「人魚姫より不幸だ、アタシ。」って言葉を残すんだ、ってことだった。この情報がより文章を立体的にするって嗅覚は真似できるようで真似できない感じがする。てかごめん、前言翻して自分の解釈を書くんだけど、最初に読んだ時DV夫に殴られたのかなって読み方をした。まぁそれ自体はしごくありふれた読み方だとは思うんだけど、そこで「人魚姫より不幸だ」ってちょっとおかしいんだよね。

でもこのおかしさってすごく大事なことだと思っていて、もしかして共依存っぽい感じなのかな、とか人間の底に淀んでいる闇みたいなのがチラッと見えるその塩梅がすごく良い。短く書くとどうしても想像を膨らませる様にだとか、状況を限定しすぎないように、だとか幅を持たせすぎて「人間」を書くことを忘れがちになるんだけど「人魚姫より不幸だ、アタシ。」ってのを最後まで残せるのはとても優れた嗅覚だと思う。

リベンカ

あなたが頬を膨らませ
下唇を噛み
懸命に 息を吹き込むと
線路沿いの秋桜も
やわらかな細い茎を大胆に揺らし
木漏れ日が 踊り場を飛び跳ねる

これを書ける人はトトロが傘を持って蒔いたばかりの種の前でスクワットをしたら一晩のうちに大樹に成長した秘密を知っているんだと思う。

大袈裟なことを、と思われるかもしれないが、トトロが傘を持ってスクワットすることと、芽が伸びることを自然と接着できるのは紛れもない才能だと思うんだ。この詩に魔法をかけているのはそのイメージの接着であり、すべての人がクラリネットに吹き込んだ息で線路沿いの秋桜を揺らすことが出来るわけではない。

理科教師は若くて声が良いと
道徳よりも楽しいらしい
難解な単語のステップは
ときに解説を必要とするけど
明るい声の連なりは
ドイツ音階の暗唱のように心地よかった
あなたが はじめてふれた音そのものだ

本作全体がキラキラしたような音に溢れていて、理科の授業での化学記号の暗唱を思わせるこの場面も一見重苦しい授業風景になりかねないところを、実に楽し気に書いているし、最後のホルンを吹く「あなた」のリードミスが響き渡る場面も顔をしかめるでもなく目を閉じる描写は吹き抜ける秋風のように爽やかである。

ここまでが入口で、さて、ではここには何が書かれているのだろうか、というところまで踏み込むと、真っ先に次の対比的な表現にぶち当たる。

鳴り止まない発車のベルだと思った
黄昏泣きの鈴虫たち
生まれてすぐに飛ぶための翅を失くし
それからずっと 泣いてばかりぢゃないか

それまでリズムよく、踊るように鳴っていた音符が一時の不調なのか軋んだような音をあげ、カメラは地面に這いつくばるしかない虫をズームアップする。ここからは完全に僕の個人的な読解なのだが、ずっと感じていた「この詩の語り手は一体誰なのだろうか」という疑問が一度に晴れた気がした。

生徒たちが、こわそうな先生が、本当はこわくないんだ、と喧しく伝えている相手とは一体誰だろう。「あなたが はじめてふれた音そのものだ」と教え諭すようなこの話者は一体誰だろう。

僕は「わたし」は音楽教師なのだと直感した。リベンカという題はまるで風が吹くたびに散り散りになっていく束の間の輪舞のようで、それが彼ら、彼女らの学生生活の喩えであるならば、それをリベンカという一つ俯瞰した目線から眺めている存在に納得がいく。

また同時に先ほどの強烈なコントラストの部分に「わたし」の抱えている問題が決して押し付けがましくなく垣間見えている。これからなんにでもなれるという無限の可能性を信じている無数の生徒たちの音楽は、別の視点に立つ存在にとって、時に「鳴りやまない発車ベル」のように不協和なものに聞こえるのかもしれない。或いは「生まれてすぐに翅を失くした」という言明は、僕の勝手な想像だけど「若いころからピアノ一筋で音大を卒業したはいいけれど……」という人物像になんとなく寄り添っている気がした。

この詩の優れたところは、

わたしはそっと目をつむった

という最終行を幾重にも多義的に解釈できる点だろう。僕は上に書いた理由から、決して温かさだけではない様々な感情を想像するのだけど、この感想をきっかけに多くの人がもう一度この詩の世界に思いを馳せてくれたらとても嬉しい。

彼方からの手紙

まいったな、と思う。心に突き刺さってくる詩はだいたい雄弁に語ることができるんだけど、いったいどんな言葉でこの詩を語ることが出来るのか皆目見当がつかない。

実を言うと九月はこっそり革命を起こそうと思ったんだ。虹を渡す蜂起や。シャボン玉のクーデター。金の馬群と吊るされた王様。そんな九月になるはずだったんだ。こんなはずじゃなかったよね。なにもかも。思い出ばかりが増えていくんだ。世界をひっくり返してみても、もうそんなのどこにもないのにね。

結論から話すのはなんだかビジネスっぽくて、みやびじゃない気がするけど、結局のところここから話さないと始まらない気がする。実のところ僕も毎年九月ごろにはいつもこっそりと革命を起こすつもりでいるんだけど、不思議なことにいつまでたっても何も起きない。おかしいくらい冴えない一年がもうどれくらい昔かわからない昔からずっと廻っている。言い忘れたけど、僕の場合もおんなじで思い出ばかりが増えていく。あれは一体何なんだろうな。

ヘミングウェイのキリマンジャロの雪という短編小説があって、彼の最高傑作だという人もいる。僕も大好きな小説だ、物語の最初にキリマンジャロの山頂付近で凍り付いてしまった豹の話が挿入されるんだけど、キリマンジャロの雪を読む前と後ではその凍り付いた豹のイメージがだいぶ異なる。読む前はまさに勇ましく山頂を目指す英雄的な人物に重なる、惜しくも力尽きてしまうが不屈の精神力によって自らの身体を山頂に運んでいく姿はギリシャの英雄ヘラクレスみたいだ。

一方で読み終わった後、凍り付いた豹はとても僕たちに近しい存在に思えてくる。今作で語られる全ての言葉もまた同様にこの「ある近しい感覚」に収斂していく。

こんなはずじゃなかったよね。なにもかも。

好むと好まざるにかかわらず僕たちは雪の吹き付けるどこまでも暗い道を歩いている。気がする。もしかして最初は英雄的な気持ちもあったのかもしれない、「虹を渡す蜂起」や「シャボン玉のクーデター」を企てていたのはもちろん、もっと幼いころの野望かもしれないけど。とにかく雪が降りだした頃は多分みんなスターをとったマリオみたいに無敵だった。

どこまでも、それこそキリマンジャロの山頂までも行けるはずだった僕たちの耳からあの無敵の音楽が遠ざかって、辺りは一面凍てつくような雪と1m先も見通しのきかない暗黒の世界になった。よくある話だ。そこで多分多くの人は容赦のない冷たさに体をこわばらせながら色んなことを思い出すと思うんだ。そして最後に「こんなはずじゃなかったよね。なにもかも。」と口にする。これがキリマンジャロの雪と本作をオーバーラップして導き出した解釈。この言葉を読んで僕は思わず「そうなんだよね、まったく」と口にしてしまった。まあそれは嘘なんだけど。

一方で「思い出の質感」についてもっと触れてもいいかもしれない。本作にはたくさんの「思い出」が書かれているけど、どれをとってもまるでその体験をしている作中の話者の生のままの言葉で書かれている。

透明のぷよぷよに閉じ込められて戸惑う金魚。

あまり無節操に引用しても良くないと思うからここだけ抜き出すけど、この場面を「ビニールに水を入れ、ゴムを通し吊り下げた容器」と正確に表現した場合に皆さんが感じるだろう情緒と、本作を読み比べてほしい。「思い出の質感」って言葉で表現したいことは、つまりはそういうことなんだけれど、うまく伝わっているだろうか? 本作は全ての場面でスターの無敵の音楽が鳴り響いている瞬間の話者の視界から切り取られた世界を、そのままの言葉で語っている。

こんなはずじゃなかったよね。なにもかも。

だからこそこの言葉が、美しい思い出との脳がくらくらするようなコントラストで尖りに尖って胸に刺さってくるのだと思う。いやはや、まったくだよ、と思わずにはいられなかった。これは簡単に「絶望」という言葉で表現できるものでもないし、「諦め」というネガティブな色合いが強い言葉で語っていいものかも悩む。結局のところ「いやはや、まったくだよ」としか言えないのである。

INTERNET

個人的には大好きな作品。あまり多くを語る詩でもないし解釈云々が問題になる詩でもないだろうから短めに済ますけど、この「エッチな蟹」ってワードの使い方は「わかってる」人の書き方だなと思った。

何が「わかってる」かというと、地雷は人が通るところに埋めるのが効果的だよね、ということをわかってることになるのかな。作品をいったん俯瞰して読者がどこをどう通るか、ってのをある程度シミュレートできる能力と置き換えてもいい。

正直、人生とか愛とか、砂糖をまぶした作品を書けば万人に受けるものはいくらでも書けるんだと思う。まぁでも正味作品の本来の良さとまぶす砂糖の量は全く関係ないと思うし、こういうスタイルをとり続けることはとても大事なことだと思う。

赤いはうそつきの舌

私事になって申し訳ないんだけど、最近バーに通っている。お酒はほとんど飲めないのにもかかわらずだ。理由はチャンドラーの小説を心の底から読みたいというだけのミーハーな理由で、チャンドラーの小説に出てくるお酒をひとつづつ飲んでいる。カウンターに腰掛け「ホットトディー」なんて古めかしいカクテルを頼むのだが、ほとんど下戸と言ってもいい僕の許容量を知っているマスターが出すそれはほぼお湯だ。砂糖と檸檬の入ったお湯。

でもそんなこと知らない他の客は負けじと強い酒をあおってぐでんぐでんになっていく。一方で酒に弱い僕は意外にもほとんど酔うことはない、というか酔う前に気持ち悪くなるのでそこまでたどり着けない。やっと本作の話ができるのだが、そういうとき周りを見渡して

ねえ、そんなになるまで飲むってどんな気分ですか。

と聞いてみたくなる。でもこれは決して憐れんでいるわけでも、見下しているわけでもない。強いて言うならば、自分が「嘘のよっぱらい」であることの自覚と罪悪感を吐き出している。

続く2連は関連がなさそうに見えてすべて子供に関する話、というか「親になること」についての話で、切実な話だ。こういうのは僕の口から話されるよりも実際に読んでみて、と言うほかない。僕が言えることは、1連目の繋がりから、親になること、ないし自分の子孫を残そうとすることに対してまでも

ねえ、そんなになるまで飲むってどんな気分ですか。

と言い放ってしまうような冷徹さと醒めた目線がどこまでも本作を貫いている気がするということ。「子供を産むんですか、素敵ですね、そんなにも人生に酔っぱらっていられるだなんて」とまで言ったらさすがに誇張かもしれないが。

わかったような顔してやり過ごす日々。運よく生かされたことへのありがたみは当然のごとく薄れて。赤いは、うそつきの舌。忘れられるから生きていけるのだとも言えますし忘れるから繰り返すのだとも言えます。

この世界のありがたさに、やさしさに、連帯に酔っぱらってどこまでも流れ着くことは幸せかもしれない、けれど酒に弱い人間はどうにもうそつきになるほか道はないらしい。そうした方が世間との摩擦が小さくなるからね。

したにひたしたあいらびゆ
さかしま You, Be (a) liar.
足した日に足し生き延びて
うそつきになっちゃいなよ
みんな、あいしてるからさ

最後の苦虫を噛み潰すような「あいしてるからさ」はいかなる恋愛映画にも感情移入することが出来ない僕に刺さる稀有な「愛してる」だった。

余談

今回B-REVIEWにいただいたミッションは「個人賞及びどれが大賞にふさわしいかの候補作(複数可)」を選ぶことだった。端的に話すと、個人賞、大賞候補作品、共にパスワードを忘れ続ける氏の「彼方からの手紙」を選んだ。理由は僕が書いた当該作の批評を読んでもらえればわかると思う。まぁ、一番心揺さぶられたという話。

一方で、「個人賞及び大賞候補作」を1作しか選ばなかったのは、それ以外の作品が決して取るに足らなかったわけではなく、「個人としてはこれがいいけど、大賞にするならこれかな」という考えがどうにも僕には馴染まなかったから。一番良いと思った作品、というのはプライベートでもパブリックでも変わらないのが僕のスタンスだったという話。

もちろんそこのスタンスの違いは選考委員それぞれにそれぞれの考えがあるのが当然で、今回の選考会議もそのようなことに焦点が当たった。それに関しては、同じく選考委員であった百均さんと運営の帆場さんも書くと思われるので割愛する。ただその認識の違いはとても面白かった。

さて、9月の大賞は僕の推した「彼方からの手紙」となかたつさんの推した「ラブレター・トゥ・ミー」に決定した。選考の過程は別の方が書かれると思うのでそちらにお任せするけど、とても有意義な選考だったと思っている。

奇しくも二作品とも「手紙」を題材にした作品であったのは興味深かった。「さいしょに」でも書いたけど、僕は詩を読み手と書き手の相互的なものだと捉えていて、もっと言えば、読み手がその作品の内奥で金ぴかにひかる宝の箱を見つけたときに、その作品は完成するのだと思っている。

僕が「芸術判定」でも「レビュー」でもなく「批評(クリティーク)」を志すようになったのもそれが理由だ。旧い友人とのもう忘れ去ってしまった約束を、脳の皺をひとつずつ丁寧に引き延ばすみたいに探す。詩文を何度も読み返し、その中に刻まれている僕にしか解き明かすことができない約束を深い海に潜るように手さぐりで見つけ出すことを「批評」だと信じている。


もしよかったらもう一つ読んで行ってください。