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全人類が見るべき「ある」映画

こんにちは芦野です。暑いです。今日は映画の話をします。

全人類が見るべき映画があるとしたら

普段からアマゾンプライムで低予算のエロい映画を見ながらツッコミをいれることを趣味としている僕ですが、実は映画はそこそこ好きです。ただ、映画好きの方と話していてたまに耳にするこの言葉「映画好きならこの○○は見なきゃダメだよね~」がとても苦手です。

極度のひねくれものなのでそう言われて見た映画って大体つまらなく感じます。皆さんも経験ないですか? 「SFを語りたいんだったらまずは……」とか「フォークナーを読まずして中南米文学読むのってなんか逆にお洒落だよね」みたいな言葉を言われたこと。逆にってなんだよ、逆にって。

とにかく、映画に限らず趣味は自分が楽しいように楽しめばいい、という原則が揺らぐことはないのですが、最近あえて「この映画は見るべき」と言えるような作品があるだろうか、と考えてました。そしたらありました。一つ。

もっと厳密に言うと「この映画のラストシーンだけは見るべき」と思われる映画です。ラストシーンが凄いって聞くとなんかワクワクしますよね。

シックスセンスでしょ? と思われたそこのあなた。残念。シックスセンスも確かに大変衝撃的などんでん返しで面白いと思うんですが、あれは「見るべき」というよりも「見て楽しい人が楽しめばいい」です。

僕がいま使っている「見るべき」という言葉に内包されているニュアンスの中に「見るとお得」「実用的」があります。そんなこと言ってしまうと僕のことをよく知っている方は「ははーん、さては日活ロマンポルノだな」と思われるかもしれませんが、そういう意味での「実用」ではありません。今すぐその卑猥なジェスチャーをやめましょう。
けどまあここだけの話「天使のはらわた」は傑作です。

ではどういう意味で「実用的」なのか? と思われるかもしれませんがそんな堅苦しい話をする前に一体何の映画を僕がいま頭に思い描いているのかを聞いてください。少し古い映画ですが、「映画はそこそこ好きだよ」って方なら見たことある人が多いんじゃないかな、と思います。

言わずと知れた北野武監督の「キッズリターン」です。ラストシーンも簡単に思い浮かぶ方は多いと思います。でも別に知らなくてもいいんです。今日はネタバレ無しで、なぜ全人類がキッズリターンを見るべきなのか、を語る文章です。でもそこにたどり着くまでにたくさんの寄り道があるのはいつもの通りです。

人は損をしていると22時半にGAROを打つ

何のことか、と思われたかもしれませんがパチンコの話です。不肖わたくし、人生のある地点でパチンコで数百万円の借金をしたことがありまして、パチンコの沼には人よりも少しばかり詳しい自信があります。

パチンコに限らずあらゆるギャンブルにおいて共通だと思われるのですが、人間って自分が損をしていると思っているとありえない行動をとります

GAROというのは当時爆発的な人気を誇った台で、なんといってもその特徴は出玉の速さにありました(初代の話です)。出玉が速いとは何のことかというと、1時間あたりに儲けられる金額が他のどの台よりも多い、ということです。

僕の住んでいる地域ではパチンコ屋は大体23時に締まります。すると、22時過ぎたあたりから、他の台を打って、手痛く負けてしまった人たちが一人また一人と引き寄せられるようにGAROに集まってくるのです。何故でしょうか? 「GAROなら取り戻せる」と思ってしまうからです。

仮に22時に座って即、当たりを引けば金額によっては負け分をチャラにできるかもしれません。とはいえ、いくらGAROと言えどもいきなり1万発や2万発の出玉がガシャガシャ出てくるわけでもありません。ましてや、最初の当たりを引くのが相当難しい台です。当然のように時間は10分経ち20分経ち、それでも最初のあたりを引くことは出来ません。

僕は痛いほどわかるのですが、負けている時ほど冷静な判断ができません。22時半、これは「仮に当たったとしても連荘(れんちゃん)の途中で閉店時間が来てしまい、結果として負け分だけが膨らむ時刻」です。そしてその時刻を回っても僕はよくGAROを打ち続けていたことがありました。まわりのおじさんたちの虚ろな目と同じ目をしながら。

人は損をして、なおかつそれを取り戻さなきゃ、と思っているとき理性では説明できないありえない行動をしてしまいます

パチンコで喩えられてもよく分からないと思われる方もいるかもしれません。例えば、あなたの身近に、「持たざること」を気に病み一念発起して数百万円する情報商材を買ってしまう人はいませんでしたか? 怪しいセミナーに嵌って借金しながらよくわからない金融商品を買っている友人は? ありえない美容法だとか、スピリチュアル関連、ないし宗教。

たぶん、その全部が非合理的でありえない行動というわけではないでしょう。中には成功する人もいるかもしれないし、本人が幸せになれるならそれに越したことは無いかもしれません。

だから次に話すことは完全に僕個人の経験則に過ぎない、と予め断っておきます。

突如あいた深い穴に落っこちるということ

さっきは飽くまでギャンブルにおける「損」の話をしましたが、人生における「損」っていったい何なんでしょうか。多分、生まれつきの容姿がきれいでないとか、家が裕福ではないとか色々思い当たる節はあると思います。

それらが実際に「損」なのかという問いはいったん置いておいて、少なくとも本人が「自分は損をしている」と思ってしまう様々な要因が人生にはあります。そして、それらの要因とそれを「損だ」と思ってしまう主観を一組のセットとして「劣等感」と呼べそうです。

多分劣等感を持っていない人間なんてこの世界にはいないとは思うんですが、たまたま僕はそういう劣等感を強く持っている女の人と付き合ったり仲良くなったりすることが普通の人よりは多くありました。彼女たちは「毒親」だったり「中退」だったり「病気」だったり様々な劣等感を抱えて生きていたわけですが、それによってありえない行動をとっていることがありました。さっき言った22時半にGAROを打つのと似た行為です。

ある女性が援助交際をしているということを僕に打ち明けてきたのですが、その内容を聞くとあまりにも凄惨でした。家出して、夜の街を彷徨っていた時にスカウトと名乗る男に声をかけられ半分恋愛関係、半分仕事仲間としてマッチングアプリで売春をしていたんだけど、取り分が3:7、避妊もしなければ、客に突然暴力を振るわれることもあると話していました。当然ながらそんなことをしたら体を壊すと思うのだが相棒であるはずの男が渡して寄こしたのは良く分からないクスリ。

彼女の話を聞いていて一番印象に残っているのは、彼女自身が自分のやっていることが滅茶苦茶だということを誰よりも理解していたことだった。「生活のために仕方ない」という認識ではありません。それならまだましだったかもしれない。彼女は中学時代に両親が離婚したことをきっかけに、学校生活を上手くこなすことが出来なくなり、高校へ行けなかったことをずっと十字架のように背負っていた。自分は周りの「普通」の人たちから遅れに遅れて、取り戻せないほどの損をしているからこうせざるを得ない、と語っていた。

これを一言で「劣等感」と片づけるつもりはもちろんありません。僕自身「統合失調症」という病気を患っており、いっそ死んでしまった方がいいかな、と思いながら長いこと生きてきたのでその苦しみを一言で「悪くとらえすぎ」と片付けられるのはなんだかムカつく気がします。

けれど、ひとつの真理として、この世界で助かるには自分で自分を助ける以外の方法は無いということ。人生という真っ暗な旅路で突如現れるデカい穴に落っこちた人に手を差し伸べたことがある人ならわかるかもしれないけれど、誰かを救うことなんてほとんど不可能だ。或いは、手を差し伸べるところまでは上手くいくかもしれない、けれど、深い穴の中で苦しさや絶望を痛いほど味わった人たちは、驚くほど自分たちが助かるべき存在だと思っていない。その手を握ってくれなければ誰も助からない。残念なことにほとんど「呪い」と呼んで差し支えないほどに育った「劣等感」がその手からほとんどの力を奪い去ってしまう。

損しない生き方しか教わってない

というのはまぁ極端な例なのですが、お金のない人ほど、そしてなおかつお金がないことを恥ずかしいことだと思っているほど訳の分からない詐欺に引っかかるというのはよくある話です。

なんで僕たちはこうも損をしていると訳の分からない行動をとってしまいがちなのか。これに対する最も合理的な説明は「損をしないためにどうすればいいかを教えられては来たけど、損をしたときにどうするかは教えてもらっていない」からだと思います。つまり学校教育です。

これはほとんど仕方のない話なんですが、学校教育ってその履修科目を全てクリアして無事に卒業していく人たちを想定して行われます。そして、無事に卒業することを目標に教育が行われます。僕もそうなんですが、途中で学校に行けなくなった人間がどうするべきか、なんて普通は教わりません。だって、できるだけ「そうならないように頑張ろうね」というのが言ってしまえば教育の役目だからです。

言い換えると「損をしないように頑張ろうね」ということです。人生とは、生まれた時からずっと続いている競争であり、勉強やスポーツ、受験や進学などで後れを取ることは「損」であり、なんとかこのレースで「損」を被らないようにするにはどうすればいいか、という発想で溢れています。それが別に悪いことだとは思いませんし、実際問題この社会は競争社会です。

一方でどうしたって道を逸れてしまう人というのは存在するわけです。そして多くの人は紆余曲折あるうちに自らの手で自分にフィットする競争とはまた違う価値観を見つけるでしょう。そして最後に、どこまでもこの世界が絶え間ない競争だと思い、自分はどうあっても取り返しのつかない遅れをとり続けていると思いこんだまま、沼の中であがき続け、傍目には訳の分からないことをしていると思われてしまう人が残るのでしょう。

スタートラインなんて何度でも引けばいい

何の話をしていたのかほとんど忘れそうなんですが、北野武監督の「キッズリターン」の話でした。

最初に言った通りネタバレは無しで行こうと思っているのですが、すみません、「キッズリターン」のテーマだけは少し話させてください。

キッズリターンのテーマは、いまあんたの足元に転がってる木の棒かなんかで、つま先のところに線を引けば、それが新しいスタートラインだよ、ってことだと思います。

こういうことを言ってしまうと、見たことが無い方は「キッズリターンって希望を見つける話なのかな」って思われるかもしれませんが、それはたぶん違います。あの映画の中に希望ってないと思うし、寧ろ暗い映画に類すると思うんですよね。

それでもなぜ、キッズリターンが「実用的」たり得るか、は残念ながら見て確かめてくださいとしか言えないです。ちなみにラストシーンだけyoutubeで見るのとかは絶対にお勧めしません。台無しになると思います。

この文章の半ばくらいに話した女性とある日「映画でも見よう」と言うことになって、僕がたまたま持っていた「キッズリターン」のVHSをビデオデッキに滑り込ませて2時間弱が経った頃、隣ですすり泣く声が聞こえてきて、映画ってずるいな、って思いました。だってどんなに言葉を尽くしても僕の言葉なんて響くことはなかったのに、優れた芸術や娯楽は時代を越えて一瞬で伝導してしまうから。

最後に

僕は人生の袋小路でもがいている人に、「それなら一緒に銀行強盗しようか」と持ち掛けることがあります。ボニーとクライドです。

そしてみんな「そんなことできるわけないじゃん」と言い返してくるので、僕がいかに本気で銀行強盗を実現しようとしているかを語ると最後に本音が返ってきます。
「そんなことしていいわけないじゃん」

この言葉が意味しているのは、彼女らが、自分を損させている、もっと言えば呪ってすらいるルールにいかに縛られて現在も生きているか、です。

今となっては、人生なんて楽しく生きられればそれでいいと思っている僕ですが、損なんて別に取り返さなくていい、そんなレースからは降りればいい、と思えるようになったのは最近のことです。

素晴らしいエンディングの映画はたくさんあるけど、たとえば僕が好きな「イージーライダー」のエンディングを取り出して人生に当てはめることって多分できないと思います。「幻覚剤をキメながらバイクに乗ってはいけない」が関の山かな?

そういう意味で「キッズリターン」は実用的です。そしてなおかつ説教臭くも嘘くさい救済に満ち溢れてるわけでもありません。

ごめんなさい、ぶっちゃけ「全人類が見たほうがいい」は大袈裟すぎました。でもいい映画っす。


もしよかったらもう一つ読んで行ってください。