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それでもつながりを求める 攻殻機動隊(1995年)

正月なので攻殻機動隊(1995年の映画版)を見た。去年の正月はマトリックスだったので僕の身体は一年周期でサイバーパンクを求めているのかもしれない。

久しぶりに見た少佐は相変わらずかっこよかったし、ストーリーは相変わらず意味不明だった。香港を思わせる雑多な街並みはどこか歪で美しくて、必要最低限にとどめられた戦闘、アクションは昨今のアニメーションがそうであるように、エモと迫力の交響曲では全然ない。むしろそれは冬のアスファルトに一輪の椿が落ちていくときの儚さそのものであるような気がしてくる。

去年の末頃に「こころなんてものは無いのかもな」と思い始めてからずっとそのことを考えている。いかにも攻殻機動隊を初めて見た中学生の男子生徒が思い描きそうな空想かも知れないけど、もうずっとその考えが頭から離れないんだ。人生が空虚に思えてならない、と言うことではなくて、むしろ私生活は充実している。もともとがずっしりと大地に根を張るようなタイプの人間ではないので、時には風に飛ばされてしまいそうになるけど、それでもこのささやかな人生に小さな楽しみをできるだけ招き入れたいと思うくらいには貪欲だし、優しい生活に憧れている。

空虚さや無意味さ、深淵を前に立ち竦むときの恐怖などとは全く別の角度で僕は自分が自分でなくなっていくことをどこかで望んでいる。30を過ぎて、「自分が!自分が!」と叫び続けている脳にどうにか終止符を打ちたい、そういう気持ちなのかもしれない。青年であるような心とはいい加減に別れを告げたい。傷ついた皮膚がやがて瘡蓋になって皮膚から剥がれ落ちていくように、自我や心なんてものが傷の時代の産物にすぎなかったのではないかという直感がどこまでも脳裏に張り付いている。

攻殻機動隊の話だった。近未来の大都市の郊外にボートを浮かべて海に潜る少佐が並び立つビルを背景にこんなことを言う。

人間が人間であるための部品が決して少なくないように、自分が自分であるためには驚くほど多くのものが必要なのよ。他人を隔てるための顔。それと意識しない声。目覚めの時に見つめる手。幼かったころの記憶。未来の予感。それだけじゃないわ。私の電脳がアクセスできる膨大な情報やネットの広がり。それらすべてが私の一部であり私と言う意識そのものを生み出し、そして同時に私をある限界に制約し続ける

『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』(1995)の中の台詞

心なんてない。そうは言っても僕たちは誰かと自分を隔てるための壁をいくつも刻印されている。顔や声や記憶。攻殻機動隊を見ていてとても安心するのは少佐が何かていのいいオルタナティブを探しているわけではないことだ。つまり、自分を自分と規定している枠を外したら、都合よくゴーストが残りますよ、なんていう心温まる話ではない。ゴーストというのは少佐がたまに「こころ」であるかのような台詞を発するのでそういう「温かいもの」ないし「人間性」に分類してしまいそうだけど、よくよく考えたらこの世界ではプログラムのバグにすらゴーストは宿っているのだ。

どこまでも自分と他人を隔てる境界をあいまいにしていく。それは義体や電脳に象徴されるテクノロジーによるところが大きいのかもしれないけど、その想像力は確実に現代に息づいている想像力に違いはあるまい。僕たちはどこかで自分が自分であることの虚偽を見抜いているし、同時に自分が自分であることの一貫性の代わりに愛想のよい、心の温まるオルタナティブが用意されていることに常に警戒感を抱いている。なぜなら、人は何かを探し求めている時はどんなつまらない代物でもそれがピカピカと光っているだけであたかも自分が探し求めていたのもであるかのように錯覚するからだ(スピリチュアルとかね)。それ故にこの物語はゴーストインザシェルなのだ。こころでも魂でもなく、ゴーストが囁かなければならない。ゴーストとはこころのオルタナティブではなく、全てを削ぎ落していった際になおそこに何かが残ると仮定されたものに与えられる名であるからだ。虚数のようなものである。

最後に聖書の話をしよう。

今我ら、鏡もて見るごとく、見るところ朧なり
13:12
わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。(しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。)

コリント人への第一の手紙
『口語 新約聖書』日本聖書協会、1954年
われ童子の時は語ることも童子の如く、思ふことも童子の如く、論ずる事も童子の如くなりしが、人と成りては童子のことを棄てたり
13:11
わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。

コリント人への第一の手紙
『口語 新約聖書』日本聖書協会、1954年

上は船上にいる素子とバトーに呼びかける人形使いの台詞。下は人形使いと融合した素子が最後にバトーに投げかける台詞。振ってある番号の通り、聖書では下の次に上の文章が来る。

難しいことは分からないけど。「鏡もて見るごとく、見るところ朧なり」というのは古代のあまり完全ではない鏡のことと思われる。ただ攻殻機動隊においては人形使いが素子に「まるで鏡写しのようだ」と自らを素子にアピールするシーンがあり、僕がこの映画を見て直感するのはまさにその部分で、体を機械に置き換えて脳を電脳化しどこまでも自我の根拠を失くしていった先にですら、彼らはつながりを求めている。これは思想や経験ではなく単なる直感なのだけれど、仮にゴーストなるものが残るとしてそれはつながりのことなのではないかという気がしている。強烈に自我が叫び出して轟音のように鳴り響く地表で結ばれる強いつながりではなく、より希薄でより淡い水飴のようなつながりを予感している。

もしよかったらもう一つ読んで行ってください。