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「夏への扉」の扉を探して

出会いに一番大事なのは第一印象。とはよく言うけれど、導入とかはじまり方が良い小説を思い出せと言われてもなかなか思い出せない。

印象に残るどんでん返しや、哀愁漂う主人公の後ろ姿、後世に語り継がれる名台詞なんかは大体物語の後半に出てくるし、仮にはじまりにとてつもない感銘を受けていたとしてもその後の展開がより素晴らしかったら、あえてはじまりが素晴らしいことを強調する機会も必要性もなくなってしまう。

けれど文章を書く人にこういう人は多いと思うのだが(実際に僕もそうだ)文章は出だしが一番難しい。古典的名作として名が売れてしまえばこんな心配もしなくていいと思うのだが、大体の人はネットの海に漂う膨大な文章を最初から終わりまで読まない。少なくとも最初のほうがつまらない文章を最後までは読まないだろう。

多くの作家も同様に、書いているその最中には後世に名を残すような大作家ではないパターンの方が多いという点で、やはり彼らもまた自作の最初の数行、数センテンスに自らの全身全霊を懸けているケースも多いのではないか、と仮定する。そう仮定すると、なんだか小説の最初のところを読むのときに少しワクワクしてこないだろうか。

僕は最近ごく個人的に「文章のはじまりかたクラブ」を結成し秘密裏に活動している。活動内容は、主に小説の最初のほうの文章を読んで、あーだこーだ言うのである。いわば小説のビュッフェ読みである。(たださすがに抵抗があって一度最後まで読んだことがある本に限ってはいるが──)


参考までに、最近の活動記録をここに記そう。

六週間戦争のはじまる少しまえのひと冬、ぼくとぼくの牡猫、護民官ペトロニウスとは、コネチカット州のある古ぼけた農家に住んでいた。

ロバート A ハインライン; 福島 正実. 夏への扉 (Kindle の位置No.15). 株式会社早川書房. Kindle 版.

夏への扉の導入はほとんど完璧と言っていいほど素晴らしいのだけど、僕が夏への扉のはじまりを覚えていたのは別の理由がある。護民官ペトロニウスだ。僕は小説が好きだけど勘が悪いので、この小説を最初に読んだ時「ぼく」と「ぼくの牡猫(ピート)」と「護民官ペトロニウス」との3人(匹)が一緒に暮らしているんだな、と思って読んでいた。

当然ながら護民官ペトロニウスなんて大層な人物がコネチカット州の古ぼけた農家で猫との不思議な共同生活を営んでいるはずもないのだが、SFということもあって、第一章が終わるまで「ところで護民官ペトロニウスはいつ出てくるんだ? 俺はあいつのこと忘れてないぞ。」と小説に出てくる伏線はすべて見逃さない切れ者の読書家のような顔をしていた気がする。完全に「団長の手刀を見逃さなかった男」である。

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さておき、夏への扉の導入は改めて読んでも本当に素晴らしくて、試合開始直後の軽やかなジャブのようにタイトルをさらりと回収し、「けれどもテーマの一番奥に行きたいならもっと先まで読むんだよ」という感じがとても心地よい。

彼は、その人間用のドアの、少なくともどれかひとつが、夏に通じているという固い信念を持っていたのである。これは、彼がこの欲求を起こすたびに、ぼくが十一カ所のドアをひとつずつ彼についてまわって、彼が納得するまでドアをあけておき、さらに次のドアを試みるという巡礼の旅を続けなければならないことを意味する。

ロバート A ハインライン; 福島 正実. 夏への扉 (Kindle の位置No.39). 株式会社早川書房. Kindle 版.

「団長の手刀を見逃さなかった男」が何を言っても説得力無いかもしれないけど、やっぱり小説の最初のほうの文章にはアイディアが詰まっている。是非、小説の素晴らしい終わり方ではなく素晴らしいはじまり方についてあーだこーだ言い合える人がいればいいなと思っている。

もしよかったらもう一つ読んで行ってください。