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寅さんと遊廓

以下は『東京人』(2020年1月号、都市出版)に寄稿した文章に加筆したものです。


遊廓とは、遊女を一定の地区に住まわせて管理売春を許容したエリアを指します。古くは徳川幕府が1617年に許した吉原遊廓が知られていますが、その後も日本には多くの遊廓がつくられ、最大約550箇所にも及びました。時代の裏面史ともいえる遊廓ですが、国民的人気の寅さんが遊廓跡を訪れていたり、筋書きにも浅からず関わっています。

第5作『望郷編』(昭和45年)では、かつて世話になったテキヤの政吉親分から、今際の際、実の息子に会いたいと乞われた寅さん。ようやく探し出した息子から聞かされたのは、若き日の政吉親分がススキノの赤線ではたらいた極道な行状。政吉親分は渡世人の哀れな最期を迎えます。遊廓は戦後に再編され「赤線」と名を変えましたが、遊廓や赤線はそうした渡世人たちが出入りする歓楽の場でもありました。

札幌市・カネマツ会館(撮影・渡辺豪、無断転載禁止)

寅さんが旅先で赤ちゃんを押しつけられて、子守りにてんてこ舞いの第14話『寅次郎子守唄』(昭和49年)。寅さんは、佐賀県の呼子湾に紅灯を写した当地の遊廓を訪れています。劇中登場する踊り子(春川ますみ)が務めるストリップ小屋が、色香の名残りを感じさせます。アンパンを買う寅さんの後ろ姿を格子ごしに写しているシーン、これはかつて娼家だった家屋内から撮影しており、格子の内側、つまりカメラを配置している空間は「顔見世」といって、遊客が品定めするため、遊女をディスプレイするためのものでした。

寅次郎の後ろにはヌードショーののぼりや、手摺りの付いた娼家然とした街並みがある。(引用『男はつらいよ 寅次郎子守歌』)
劇中、寅次郎の背中側に位置して、現存していた呼子遊廓の娼家(撮影・渡辺豪、無断転載禁止)

遊廓地帯でこそありませんが、遊廓に関連する全国的にも珍しい史跡の前で撮影されているのが本作、第15作『葛飾立志編』(昭和50年)。山形県上山市は城下町と温泉街の二つの性格を併せ持った街ですが、ここにも湯女や飯盛女を濫觴とした遊廓がありました。劇中、寅さんが例の啖呵売を行うのが、同かみのやま温泉で天仁2(1109)年を縁起とする観音寺の境内。寅さんが背にしている石碑「敷石供養塔」は、嘉永元(1848)年に当地の遊女が先輩遊女の功績を称えるために建立したもの。毎年ゴールデンウィーク直前に「敷石供養祭」と称して、観光業関係者らが集った境内で、遊女の冥福を祈り、観光シーズンの安全と繁昌を祈願しています。遊女に関連した全国的にも珍しい祭事です。

寅の後ろに赤い「敷石」の刻字がみえる。

余談ですが『男はつらいよ』シリーズの素晴らしい点の一つは、ロケ地での構図とストーリーが一致していること。下は寅さんが家出して、場面転換した直後のシーン。画面奥に観音寺を収めて、前述の啖呵売のシーンに至る一連のシークエンスです。多くの観客は、かみのやま温泉を知らず、今回ならば適当に湯気ぶる「温泉街なるもの」を収めればストーリー上、なんら不整合は生じないはずですが、このあたりに制作陣の街というものへの誠実さが窺え、私が同シリーズを好きな理由の一つです。

奥の手摺りがある木造建築が気になる…

第36作『柴又より愛をこめて』(昭和60年)では、家出したタコ社長の娘・あけみを探して伊豆の下田にやってきた寅さん。寅さんとテキヤ仲間の長八が連れ立って歩いているのは下田の遊廓。背景に目を凝らすと、唐破風の建物(地元の人によると元置屋さんだったとか)や、飲み屋街など特徴的な街並みが写っています。当地には今も娼家を転用したお土産屋さんがあります。

成長後は血を引いたのか恋の悩みが絶えない満男に寅さんが恋愛指南のコーチ役を務める第46作『寅次郎の縁談』。平成5(1993)年に公開された本作、最晩年の作品とあって痩せたタコ社長(太宰久雄[1923 - 1998])を観るだに寂しい限りですが、当のタコ社長は鼻の下を伸ばしてこう漏らします。

「多度津か懐かしいなぁ。その昔ね、金比羅参りの帰りにね。精進落としで遊んだんだよ。親切な女がいてね」

多度津は北前船寄港地であったことや、金比羅参りの玄関口であったことなどから遊廓がありました。タコ社長の年齢設定は不明ですが、演者・太宰の実年齢をそのまま重ねると、売春防止法が施行された昭和33年以前の経験かも知れません。そして、満男と泉(後藤久美子)を見送った寅さんが鳥取駅前で今宵の宿を探すのは衆楽園遊廓です。当地は今も献灯や娼家が現存し、雰囲気を濃厚に残しています。タコ社長曰く「精進落とし」とは身も蓋もない言い方をすれば買春ですが、各地の神社それも本社とされる神社や聖域の周辺には必ずと言って良いほど遊廓が存在します。筑波山神社(茨城県)、成田山(千葉県)、善光寺(長野県)、伊勢神宮(三重県)、出雲神社(島根県)、金比羅宮(香川県)などなど…。

聚楽園遊廓跡(撮影・渡辺豪、無断転載禁止)

さて、なぜ『男はつらいよ』には遊廓が登場するのでしょうか? テキヤというアウトローと歓楽街の親和性以外にも、これにはちゃんとした背景があります。昭和33年、施行される売春防止法を控えて、遊廓の業者たちは転廃業を迫られましたが、もっとも多く転業した業種は旅館業(約28%の業者が転業)でした。部屋数が多い娼家独特の造りからか、売防法後の遊廓は旅館へと移り変わった街も多かったのです。寅さんなどが用いる商人宿になった例も多かったことでしょう。

紀行エッセイを多く残した田中小実昌は次のような言葉を残しています。

ぼくは、旅をして、しらない町にいくと、元赤線をたずねることにしている。だいたい、ぼくは、東京にいても、元赤線みたいなところでばかり飲んでおり、元赤線は、たいていさびれて、スラム化し、安い酒が飲め、もしいれば、安い女が買え、つまりアット・ホームな気持になるんだろう。

田中小実昌「八戸のおんな」(『小説新潮』〈1970年〉

家族で観覧する寅さん作品だけあって、アウトローの世界はあくまでエンタテインメントの範疇で描かれていますが、田中が開け広げに披瀝したように旧赤線は「安い酒」「安い女」が買えることが、旅慣れた男にはある程度認知されていたのかもしれません。加えて、独り立ちできずに事あるごとに帰省してくる寅さんは人一倍に旅愁を覚え、〝アット・ホーム〟を旅先でも求めていたのでは──

さて、寅さん以外の登場人物にも関わりがあります。

第11作『寅次郎わすれな草』(昭和48年)のマドンナ・リリー(浅丘ルリ子)の母は五反田駅裏の飲み屋街・新開地で働いていますが、当地は青線があったとの記事を昭和20年〜30年代の週刊誌などに多く見ることができ、リリーと母親の確執に深みを与えています。(青線とは赤線と同時期にあった違法な売春街の俗称です)

大森駅西口の山王小路飲食店街(撮影・渡辺豪、無断転載禁止)

また寅さんの母・菊(みやこ蝶々)は元芸者で、寅とさくらの父・平造の妾。つまり寅とさくらは異母兄妹。寅を産んで都落ちした菊は、京都の安井毘沙門町でホテルを営む経営者に収まっていましたが、そのホテルはクラゲマーク、当世風に言うならばラブホテル。ラブホテル街だった安井毘沙門町は、祇園や宮川町などの花街にも近く、観客は菊に不見転芸者の過去を連想します。

厳密には青線や不見転芸者は遊廓とは異なりますが、思えば山田監督は「弱い人」たちに温かい目を向け続けてきました。劇中に登場する懐かしい風景を、近代化に押し流されるものとして愛情を注ぎ、時代の流れに巧く与せず置き去りとされる人々に対しても、慈愛の目線をもって描いているように私には感じます。一夜の慰めを与えた遊女と、旅先で小さな慰めを与え続けた寅さんの姿はどこか重なります。

※ヘッダー画像:帯広市(撮影・渡辺豪、無断転載禁止)

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