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対馬の遊廓地蔵/(2024/5/15)取材記/対馬市浅藻

対馬の南端、豆酘(つつ)の隣村である浅藻(あざも)を取材してきた。今は商店など一軒もない鄙びた漁村集落となっている。50戸ほどだろうか。空き家も目立つ。ここに明治の終わりから昭和初期まで料理屋と称する遊廓が8軒ほどあったことが、昭和25年に当地を訪れた宮本常一によって記されている。(宮本常一『宮本常一著作集28 (対馬漁業史)』)

浅藻集落を見下ろす(撮影・渡辺豪、無断転載禁止)

当地は明治の初期から中期にかけて、周防大島の久賀と沖家室の漁民がそれぞれタイとブリ目当てに浅藻南方まで出稼ぎ漁を展開し、現在の浅藻に定着して新しく開かれた漁村である。これらの経緯は宮本常一「梶田富五郎翁」(『忘れられた日本人』所収)に詳しい。明治9年に久賀から7歳で移住してきた第一世代の老人に聞き書きしている。

宮本の著書には、当地に遊廓が立ち並んだ理由は詳述されていないが、「納屋」と呼ばれる問屋機能が当地に設けられたことが大きいと推察する。漁民たちに現金収入をもたらし、また商取引の接待も生じたのだろう。江戸の玄関口の一つであり、農村と都市の結節である千住の「やっちゃ場」と呼ばれる市場が商取引の場として賑わい、日光街道沿いに売春宿も櫛比したことを思い起こさせる。

1988年に取材した高澤秀次は、明治36年生まれの老婦から当時のことを訊き、自著『辺界の異俗 対馬近代史詩』(1989年)に書き記している。

海岸沿いの道の左脇、そのくぼみのような場所には、ひっそりと寂しい井戸跡があり、お地蔵様も見える。ここは松井という女郎屋のあった場所だ。島外から来た女郎たちは、港のさびれ始めた昭和の初年にはほとんど島を去っている。
(中略)
今は跡形もない浜辺の女郎屋に案内してくれた梶田富五郎の娘・清家スミエさん(77)は、そこで首を吊った女郎の話、病死して密かに埋葬された女郎たちの骨が浜辺で見つかった話などを聞かせてくれた。

高澤秀次前掲書

地元の数名にお尋ねして、ようやく「松井」の跡を探し当てることができた。窪地には、井戸跡は見当たらなかったが、門か塀とみられる倒壊した石柱の他、前述の「お地蔵様」も確かに現存していた。それらは造られて1世紀は経つだろうか。前掲書は35年前に上梓されたもので、過疎が進む地方のこと、もはや雑木林に埋もれてしまっているだろうと正直期待はしていなかった。

倒壊した石柱などみられた。腐りきったのか、ある時期に取り除かれたのか、木製の残骸は見当たらなかった。(撮影・渡辺豪、無断転載禁止)

仔細に眺めると、お地蔵様が雨露をしのげるよう真新しい祠が新設され、ベンチもあり、掃き清めるための清掃道具も並べてあった。窪地は湿気も多いのかシダ類が茂っており、ともすれば〝遊廓跡〟という特有の過去もあって忌避されかねない立地だが、実際にはそうはなっていなかった。松井跡は放置されていたのではなく、手入れされていた。だから残っていたのだった。もしかしたら楼主の子孫が過去を偲んで手入れしているのかもしれない、そんな予想と期待をして、清掃用具に記されていたのが割合珍しい苗字であったので、ネット電話帳で検索して、その場で電話を掛けた。こちらの非礼を詫びつつ、松井跡について尋ねた。

「掃除しているのは自分だけではなく、近所の人が散歩の行き帰りに、気づいた人がやっている。遊廓のことは聞いたことはあるが、よく分からない」

遊廓の遺物であることは何となく知っていたが、それゆえ大切に掃き清めていたのではく、ただそこにお地蔵様があったから大切に保全し、憩いの場としてきたという。「楼主の子孫が代々守り継ぐ」といったドラマはなかった。しかし、私はむしろ胸打たれた。祠は日曜大工ではなく、しっかりした大工仕事によるもので、皆で金を工面したのだろう。血縁とは無縁の地元住民が手入れしていた。

話は変わるが、遊廓を調べて郷土史本をめくると、すべてが実証性の確かな記録ばかりではなく、伝承も多く目にする。伝承しか残されていない遊廓も多い。伝承といえどもわずかな望みを託して地元の学芸員などに尋ねると、「まぁ単なる言い伝えでしょうね」と鼻で笑われたりもする。

確かに真偽不確かな伝承を歴史と同一に扱うことは慎重を期したい。民俗的に見ても、全国に偏在するパターン化された、ありふれた伝承の一つに過ぎないのかも知れない。だからといって実証性が担保された過去や、特異な民俗性を持つ過去に重きを置く反動で、その他の伝承が軽視されて良いのだろうかと常々思う。

今となっては実証性に乏しく、ありふれた伝承でのみ伝わっている各地の遊廓は少なくない。これを軽視してしまえば、遊廓があったという過去が掻き消されてしまう。

こうしたもどかしさを自分はずっと抱えてきた。

浅藻の遊廓にまつわる過去は、記録も失われ、鮮明な伝承も途切れてしまった。だからといって自分たちの過去を蔑ろにせず、公園の銘板すらない小さな憩いの場をつくった浅藻住民の想いに感銘を受けた。

歴史あるいは歴史的構造物は、権威者によって価値が証明されてはじめて大切にされるのではなく、まず人々が大切にしたいとの想いがあって、次いで価値が生まれるのではないか──

「それってあなたの感想ですよね」とのネットミームは、一部の先鋭化したネット愛好者による落書きではなく、世相を的確に表していないか。客観的であること、数字で証明できることばかりに重きが置かれ、そうではない側が軽んじられる。誤った実証主義と、刺激に絡め取られた民俗観。

地蔵とならんで不動明王も建立されており、「松井○○」と女性名が刻字されていた。「松井」は娼家の屋号ではなく、経営者の苗字であったようだ。女楼主らしき松井某は何を思って建立したのだろうか。分からなくても想像したい。

浅藻も例に漏れず、過疎化が進んでいる。出会う人みな高齢者だった。明治24年に開校した浅藻小学校は平成12年に閉校となり、児童公園に造り替えられているが、公園に肝心の子どもの姿はなかった。戦前に設けられた「大日本帝国々旗掲揚拄」と刻まれた国旗柱が校庭跡にぽつんと取り残されている。背面の刻字には設置者に市丸貞五郎とある。まだ調べは足りないが、市丸氏は当地の名士らしく、氏神である浅藻神社の寄進物のそこかしこに市丸家の名が刻字されている。刻字から松井○○は貞五郎の姉に当たることも分かった。

浅藻小学校跡に取り残されていた国旗掲揚柱(昭和9年造)

過疎化は不可避に思えてならない。都市部の一部の遊廓跡のように観光資源となることもないだろう。ならば、伝承さえ失われても、なお哀れをもよおし、赤タオルを地蔵に巻き付ける優しい人びとが対馬の南端にいることを、せめて書き残したい。(了)


私、渡辺豪は遊廓を取材しています。noteにもまとめておりますので、ご高覧の上、共感頂けましたら取材費用のサポートをお願いたします。


※ヘッダー画像・松井跡に残る地蔵(撮影・渡辺豪、無断転載禁止)

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