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飯盛女の唄を取材してきた話 取材記(2023/1/17)日光例幣使街道・木崎宿

『鬼滅の刃』論争

昨年、アニメ『鬼滅の刃 遊郭編』の舞台について視聴者の子供に伝えるべきか? という議論がネットを中心に話題になり、私は以下の考えを述べました。

私の主張は詰まるところ、子供ではなく大人の素養が問われる問題であり、肝心の大人が語るべき言葉を失い、しかも学ぶ機会すら失われている。というものです。

「過ぎた過去は、波風を立てず忘れるが良い」とする立場、反対に「教訓として、ありのまま伝え残すが良い」とする立場、他にも様々立場がありますが、いずれにしても消極と積極のどちらが良いのかという議論(これを便宜上「遊廓史の継承問題」と本稿では呼びます)は、遊廓に興味がある人にとっては、興味深いテーマなのではないでしょうか?

遊廓の歴史はありのまま伝えるべき(?)

私が経営する遊廓専門書店・カストリ書房(台東区千束4-39-3)のお客さんは、一般以上に遊廓に興味を持っている層と理解できますが、そのお客さんから半ば憤りにも似た言葉として「義務教育でも遊廓を教えるべき」と聞くことが少なからずあります。そうした経験から、遊廓に興味がある人は、「遊廓史はありのまま伝える」ことを良しとする考えが少なくないものと推察しています。

民謡に残る売春

今回はこの「遊廓史の継承問題」について、具体的な事例を挙げて、考えてみたいと思います。

以前、日光例幣使街道・木崎宿について書きました。

今回は当地に伝わる民謡『木崎節』を取材してきました。『木崎節』に限らず、全国各地で歌い継がれている民謡には、遊廓や売春について詠い込められているものが少なくなくありません。したがって『木崎節』は特殊な民謡ではなく、事例としても一定以上の普遍性を持ち得るものです。

〽二度と行こまい 丹後の宮津 縞の財布が空になる

『宮津節』(宮津の遊廓でつい財布の紐が緩んで散財してしまうことから)

〽浅間山さん なぜ焼けしゃんす 裾に三宿もちながら

『追分節』(浅間山山麓の宿場、追分、沓掛、軽井沢には多くの飯盛女いたことから噴火と嫉妬をかけている)

〽新地夜遊び 体に毒よ 沖で釣りすりゃ 身の薬

『鰺ヶ沢甚句』(新地は当地の遊廓。近世期から一廓を成していた珍しい娼街)

〽小木の女郎衆は 茶碗の湯漬け 色が白うても 水くさい

『小木おけさ』

〽三国出村の 女郎衆の髪は 船頭さんには碇綱

『三国節』(三国港出村に遊廓があったことから)

民謡はいわばご当地ソングの性格を備えており、土地の名物などを歌詞に織り込んでいます。盛んに唄われていた当時の世相すなわち遊廓や売春が名所・名物として見做されていた社会背景が窺われます。かつては全国に偏在した遊廓も、名残りや記録が失われつつある昨今、民謡は遊廓のありようを伝える重要な史料の一つと私は考えます。

木崎町に伝わる飯盛女の民謡

木崎宿が置かれた群馬県太田市新田木崎町(以下、木崎町)に伝わる、飯盛女の身の上を織り込んだ民謡『木崎節』は以下のようなものです。

〽木崎街道の三方の辻に お立ちなされし色地蔵さまは
男通ればにっこり笑う 女通れば石とって投げる
これが木崎の色地蔵さまよ
越後蒲原ドス蒲原で 雨が三年日照りが四年 出入り七年困窮となりて
新発田様へは御上納が出来ぬ 田地売ろうか子供を売ろうか
田地は小作で手が付けられぬ 姉はジャンカで金にはならぬ
妹売ろうと御相談きまる
妾(わた)しゃ上州へ行って来るほどに
さらばさらばよお父さんさらば さらばさらばよお母さんさらば
まだもさらばよ皆さんさらば
新潟女衒にお手々をひかれ 三国峠の山の中
雨はしょぼしょぼ雉るん鳥や啼くし やっと着いたが木崎の宿
木崎宿にてその名も高き 青木女郎屋というその家で
五年五ヶ月五五二五両 永の年季を一枚紙に
つとめする身ははさてつらいもの(以下略)

『木崎節』(長岡利一『飯売下女と良寛さん』より抄録)

『木崎節』歌詞の背景

色地蔵は木崎宿の外れ(棒鼻)にあり、本来は子育て地蔵であったものが、外出が制限される飯盛女が一時の安らぎを得るため、外出が許された棒鼻まで参詣したことから、いつしか色地蔵の名で呼ばれるようになった。教育委員会が設けた説明板から概略このように理解できます。

色地蔵の史跡案内。指定重要文化財であることが記されている。(撮影・渡辺豪、無断転載禁止)

当地の飯盛女は越後国蒲原郡から売られてくる者が少なくなく、越後と上州の国境にある三国峠を越えて、女衒が仲介していました。木崎町に残る墓に刻まれた飯盛女が没した年代と出身地は、曹洞宗の僧侶・良寛が生きたそれらと重なるものでした。

飯盛女、俗名ちかの墓。享年21才。良寛が晩年過ごした五合庵にほど近い地蔵堂出身と彫られている。(撮影・渡辺豪、無断転載禁止)

昭和58年から『中央公論』(中央公論新社)に連載「良寛」を開始した水上勉は、飯盛女と良寛との関係を知り、当地を取材しています。関連作品として『良寛を歩く』や短編「くがみの埋み火」(『秋夜』収録)などをのちに記しています。

『木崎節』は現代人の目にはどう映るでしょうか? 私には、売春云々ではなく、飯盛女の身の上を揶揄する歌詞が非常に残酷で、強い忌避感を覚えます。取材した水上勉は以下のように評しています。

木崎からみれば、働きにきている飯盛女の在所は雪ぶかいところなので、村を守る姉はみなじゃんかだといったのだ。(中略)じゃんかの真意をきいてみたかったが、きかなくてもだいたいの意はつかめた。たぶん売りものにもならぬへちゃ女か。また越後蒲原郡をどす蒲原と、どすをつけるあたり、気性があらいとつたわる上州人の勝手な優越感がよめる

水上勉『くがみの埋み火』

この『木崎節』は、戦後に『木崎音頭』と名を変え、群馬県新田町から町重要文化財の指定を受けています(その後、同町が太田市に合併され、市重要指定文化財に)。加えて歌詞中登場する色地蔵も重要文化財の指定を受けており、「登録」ではなく自治体みずから「指定」している事実から、同自治体が積極的に飯盛女の歴史を残そうとしている姿勢が窺えます。官民が積極的に売春に関わる歴史を伝承しようと努めている全国でも珍しい地域です。

市指定重要無形民俗文化財『木崎音頭』(『木崎節』)の紹介。太田市のサイトから。
市指定重要文化財『色地蔵』の紹介同じく太田市のサイトから。

ただし疑問がないでもありません。『木崎音頭』について、太田市の説明には以下とあります。

越後から多くの子女が奉公という名目で身売りされ飯盛女として苛酷な生活をしいられました。彼女たちはこのさびしさから、故郷や家族をしのび、宴席で子供の頃覚えた歌を歌ったのが木崎節の始まり

売春に関わる文化や史跡を軽視せずに、積極的に文化財指定して保存に努める姿勢には、指定当時の新田町関係者に深い敬意を覚える一方で、現太田市の説明にあるように、飯盛女が果たして先のような歌詞を唄うでしょうか。先の水上の指摘が示唆的であると同時に、ともすれば加害的に映る地元の立場を見えづらくする辻褄合わせにも思えます。

現在も唄い継がれる『木崎節』

こうした背景を持つ『木崎節』ですが、『木崎音頭』と名を変えて現在も地元では唄い継がれ、盆踊りなどの町を挙げたイベントでも披露されていると聞きました。売春に関わる歴史文化を持つ地元ではどのように継承しているのか──

「木崎音頭保存会」の会長である栗原知章さん(72)にお話を伺いました。

木崎音頭保存会長・栗原知章さん

栗原知章さん(以下、栗原氏)「地元で催されるお祭りの木崎音頭まつりは、ずっと以前からあったんですが、復興の意味合いで戦後昭和25年に改めて会がつくられたと聞いています。私は4代目の会長で、60代以上の地元男女約25名で構成されています。鉦・笛・太鼓・踊りなど『木崎音頭』の実演を披露するほか、外部との窓口にもなってます」

肝心の歌詞が現在も伝われているのかお聞きしました。

栗原氏「戦後までは旧唄(筆者註・前述の歌詞)で唄っていました。ただ、この歌詞だと〝出せない〟。3代前くらいの唄い手は、旧唄で唄っていました。『木崎音頭』は語り節なので、唄の文句はなんでもいいんです。交通安全や国定忠治とか、歌詞を即興で自分でつくれば成り立ちます。唄い手ごとに持ち唄があり、旧唄を持ち歌としている唄い手もいました。まつりのときに旧唄で唄っても、文句を言う人はいなかった。ただ、民謡大会の出場やレコード化という場面では新唄(筆者註・変更後の新しい歌詞)を必ず用いることにしています。今はよそう、ということで旧唄は避けています」

新唄すなわち『木崎音頭』と名を変え、歌詞も変更された現在の『木崎音頭』はYoutubeでも視聴できます。

栗原さんのお話は昭和30年代の民謡ブームと重なります。他地域での発表、メディアへ露出など、外からの視線に晒される機会が増えたことで、歌詞を客観視する視点が生まれてきたものと理解しました。

『木崎音頭』の継承

『木崎音頭』を継承する環境について伺いました。

栗原氏「地元では小学校4年生から3年間、中学校では3年間習うので、地元出身なら誰でも踊れます。郷土史研究クラブがある小学校では、お囃子も練習してる。ここ(筆者註・お話を聞いた行政センター)では、少年少女クラブがもう40〜50年続いていて、お囃子から唄まで、ぜんぶ子供たちだけでできます。中学へ進学すると、運動会でも木崎音頭を習います。

明治22年に木崎宿から木崎町となってから現在まで、小中学校の編成がずっと変わっていないんです。明治7(1874)年に小学校が設置されて、昭和31(1956)に新田町が生まれても、平成17(2005)に太田市に合併されても、統合小学校がなどが作られたりすることもなく、学区も変わってません。だから安定して継承できています

現在の木崎音頭まつりは、昔ながらの輪踊りというよりも、チームの発表の場になってます。幼稚園から婦人会まで様々な団体がそれぞれチームを組んでいて、全部で40チームくらい。お祭り当日は、17時半からチームが発表して、20時半頃からみんなが一緒に踊る輪踊りになって、21時頃まで続きます」

地元の太田市立木崎小学校のサイトでは、色地蔵や飯盛女について紹介している。

小学校4年生で地元の歴史を扱うので、『木崎音頭』の授業をやるときには栗原さんが学校に招かれて講師をするそうです。その際に、飯盛女について触れるのか聞いてみました。

栗原氏「触れない!触れない! ただ、新潟から出稼ぎがあって、『新保広大寺節』が伝わって『木崎節』が生まれたことなどについては説明します。実は地元の先生が一番知らない。地元出身の先生がいないから。それが一番の課題だったりします」

『木崎音頭』は「木崎音頭保存会」だけが継承しているのではなく、小中学校から『木崎音頭』を授業で習ったり、クラブ活動や課外活動の一環でも練習を重ねることができるなど、学校教育や子育ての段階から『木崎音頭』を継承する、町ぐるみの環境が整っていました。

本稿のテーマに沿って換言すれば、木崎町は売春の歴史をどう子供たちに伝えるのか?について実践している町であり、殊『木崎音頭』に関しては「伝えない」という判断を取っていました。上のキャプションにあるように、地元小学校が設けている公式サイトには飯盛女にも言及しており、(教育的意義や意図は不明なものの)飯盛女に関するすべてを抹消しているのではないことも分かります。

冒頭、「義務教育でも遊廓を教えるべき」といった積極的立場の言葉を紹介しましたが、私はこれに与することは出来ません。

栗原さんが説明して下さったように、『木崎節』のルーツを求めれば新潟県十日町市付近で唄われていた民謡『新保広大寺節』にあり、これが三国峠を越えて、上州方面に定着し、その一つが『木崎節』となっています。当時の人々の流動と民謡の系統が重なっています。先の太田市の説明では『木崎節』は、売られてきた飯盛女が「さびしさから、故郷や家族をしのび、宴席で子供の頃覚えた歌を歌った」とありました。私はこれに疑義を呈しましたが、出身地付近で唄われていた『新保広大寺節』やそれに似た民謡を、売られてきた彼女たちは寂しさを紛らわすため唄い、地元民がこれに語り節として歌詞を変え、旧唄が生まれていったものと私は理解しました。余談ですが、栗原さんの子供の頃までは、新潟県中越地方から訪れる出稼ぎ人が多くいたとのことです。近世どころか戦後まで連綿と労働力の流動は続いていました。「向こうからすれば、こっちはいつも晴れてて羨ましかっただろうね」とポツリと呟く栗原さんの言葉が印象に残りました。

飯盛女が信仰した「穴稲荷」が現存する。(撮影・渡辺豪、無断転載禁止)

最後に旧唄の継承について伺いました。私が最も気になっていたことの一つです。

栗原氏「旧唄は、新唄が唄える人なら誰でも唄えるんです。節回しも一緒ですから。つまり新しい『木崎音頭』が残る限り、同時に旧唄も残りますよね。今回の貴方のように元唄はどういう歌詞なんですか? いつ頃から変わったんですか? と質問されれば、木崎音頭の由来を紹介することになる。これでしか由来を説明できない。大会に出場するときの申請書にも『木崎音頭』の紹介として由来を求められるんです」

継承を「当時からそのままに残すこと」と同義に考えがちな私にとって、栗原さんのこのお答えは、目から鱗が落ちる言葉でした。栗原さんにとっては、『木崎音頭』が内包する歴史文化の継承は、想いや願いといったレベルではなく、実務として日常にあることでした。

絵本屋さんの想い

なぜだか分からないんですが、地元の飯盛女のことが気に掛かるんです。飯盛女のことを知りたいと思い続けてきたんです」

こう語ってくれたのは、地元で、ギャラリー・喫茶を兼ねた絵本店「アトリエみちのそら(公式サイト)」を営む高橋理子さん(50)です。

高橋さんは、絵本店を経営する傍ら、木崎音頭まつりを運営する組織に携わっています。『良寛』を取材中に来訪した水上勉と子供の頃に会っている方でした。現書店は高橋さんの祖母が喫茶店を営んでいたことから、取材中の水上がお茶を飲みに来店したとか。

栗原さんより下の世代で、また飯盛女と同性である高橋さんにもお話を伺いました。

高橋路子さん(以下、高橋氏)「コロナで2年、まつりが休止になって、ようやく昨年は再開したのですが、それ以前はチームが発表した後に、飛び入りの参加者が旧唄を唄うこともありました。まつり本番で唄うことは避けつつ、昔の唄も大事に思っている方が、練習の時に旧唄を唄うこともありました」

そのときの周囲の視線について伺いました。

高橋氏「周囲の反応を細かくは見てないですが、そういう唄を唄って良い時間帯かどうかは気にしている雰囲気はありますね。まつりがスタートする時間帯はまだ明るいんですが、子供たちのチームが次々発表していく時間帯には、旧唄はないものとして…みたいな感じで(笑い)。まつり終わり間際の、大人しかいなくなった時間帯に、ちょっと唄っちゃおうみたいなことはありました」

栗原さんのお話にあった20時半以降のまつり終盤の出来事と思われます。

高橋氏「旧唄をよく思わない人がいることも聞きます。私は、この唄の成り立ちでもあるので、旧唄がなくなって欲しくないというか、大事に思っている気持ちもあります。私と同じ世代には、旧唄を子供やみんなの前で唄って欲しくないということを言う人もいます」

メディアが「町の声」と紹介するとき、とかく単純化され、その単純化されたものがむしろ好意的に〝一枚岩〟と扱われます。しかし同じ町の中にも様々な考えがあり、それらにどう折り合いをつけて未来に進んでいくか、これに努力を払っている栗原さんや高橋さんをはじめとする地元の人々の活動に深い敬意を覚えます。

余談ですが、絵本店を営む高橋さんに、私はどこか共感を覚えながらお話を聞いていました。子供の頃に何気なく読んでいた絵本も、大人になってみると、遊廓や売春などが描かれていたのではないか?と思える節があります。竜宮城で日を忘れるほど遊興に耽った『浦島太郎』が典型で、『桃太郎』を始めとする「鬼退治モノ」に登場する鬼の原型は、いわずもがな山賊や海賊で、人身売買もつきものだったことでしょう。当時の大人がありのまま伝えずに昔話すなわち寓話としたのは、子供への「優しさ」だったのではないでしょうか。私にはこの優しさが、現在の『木崎音頭』から過去の遊廓史を除外して子供たちに教えている、栗原さんを始めとする木崎町住民の姿にも重なります。

再度、遊廓の歴史はありのまま伝えるべき(?)

「あるがまま」を純粋主義と呼ぶならば、この主義が陥りがちなのは、主義に純粋であるかどうかに拘泥するあまり、目的と手段が入れ替わり、目的を果たせなくなることです。本稿のテーマに戻すと、もし「遊廓史をありのままに残す」ことに軸足を置いていたら、おそらく町では『木崎音頭』も今ほど継承されず、引いては栗原さんが指摘するように、旧唄すら継承が難しくなっていたものと推察します。

私は遊廓の歴史を継承したいと強く願う人間ですが、やみくもにその歴史を露出させていくことが方法論として是とは考えていません。地元の歴史は大切にすべきものですが、そのことは過去の無謬性を何ら担保しておらず、抱えていた習弊や因習は乗り越えていくものだからです。まして、ネットを中心にして、かつての娼街跡を取り上げて「激ヤバ地帯」「香ばしい」「成れの果て」と露悪的に揶揄する児戯には強い嫌悪感と自戒の念を覚えます。

私は栗原さんをはじめとする『木崎音頭』に関わる人が、旧唄の歌詞を変えたことを支持します。

※ヘッダー画像・無縁墓として積み上げられた飯盛女の墓(撮影・渡辺豪、無断転載禁止)

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