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「なぜ遊廓に興味を持ったのか?」「なぜ書店を始めようと思ったのか?」に答える

遊廓を専門に扱うカストリ書房を経営していることもあって、「なぜ遊廓に興味を持ったのか?」「なぜ書店を始めようと思ったのか?」といった質問を、来店したお客様や取材してくれたメディアから多く受ける。言い方は様々だが、煎じ詰めれば私の動機と実践に向けた質問になるだろうか。

上の質問に答える場面では、質問者の顔色を窺ったり、メディアの読者層を思い浮かべながら、腹落ちしてくれそうな言葉を選んでいる。そこに嘘は一切ないものの、どこか他人の言葉で話しているような感覚は拭えない。言葉だけが独り歩きして誤解を受けることも、ままある。

本稿では、聞き手を意識することなく、自分なりの言葉で述べてみたい。動機や実践の言語化は、自分を整理する上で欠かせず、単に受け答えの巧拙だけの問題ではない。が、聞き手を意識しない言葉は、ともすれば独り善がりで拙く、私のような40をとうに過ぎた人間が内面を露わにするのは、話し手はもちろんのこと聞き手にも恥ずかしさを与える。

一方で、歳を取るほどトレンドにあるカタカナ語や小難しい概念用語を並べるなど、他人を言いくるめる文体づくりにも自然長けてきて、自分の言葉での自己整理が苦手になる。

最近、とある大学が開設するYouTubeチャンネルの取材を受けた。質問はやはり動機と実践に集約されるもので、自分なりの言葉で答えたものの、文字以上に動画(会話)での説明は難しい。私の拙い受け答えを、編集担当者が巧く再構成して下さるものと他力本願に期待しているが、補完と取材当日の不明を恥じる意味で、改めて以下に記してみたい。

なぜ遊廓を調べるのか? きっかけは?──

例えは何でも良いのだが、私が寺社仏閣について調べる人間だったら同じように質問されるだろうか? 勿論この手の質問は他愛なく、悪意など当然ないが、「遊廓の過去は悲惨あるいは卑猥で、今さら取り上げてもつまらないもの」「いまさら過去を調べて何の役に立つ?」という質問者の意識が混じり込んではいないか? と感じるときもある。遊廓という過去の歴史的意義を定めてこなかったがゆえに、先の質問があるのではないか。

反対に問いたい。調べる価値などない過去や歴史は存在するか?

身も蓋もないが、私自身は「きっかけ」について、あまり重視していない。遊廓(赤線)について一定量以上の知識を得た初めての機会は、遊廓を取り上げた文庫本かネット記事か何かを斜め読みした2010年前後とぼんやり記憶する。

きっかけの如何よりも、どのようなきっかけであれ、興味を育てることに興味がある。「大切にこの興味を育ててみよう」との決心は今でもしっかり記憶している。

思えば興味はふとしたことで生まれ、そして消えていく。ときにスポーツに惹かれ、音楽に惹かれ、歴史に惹かれ、科学に惹かれる。まったく取り留めない。それらは泡のように浮かんで、消えていく。無数の泡の中からごく僅かな泡が残り、それなりに長い時間を人生と伴走する。消えなかった泡はなぜ消えなかったのか? 言い方は様々だが、泡の先に自分を形成する何かが見えそうだからではないだろうか。私はそうだ。そして見逃してはならないことに、歳を重ねるほど泡は生まれなくなる

遊廓に興味を持ったきっかけに「遊廓建築」を挙げる人は少なくないだろう。実際、カストリ書房に来店する方から同様の答えを聞くことは多い。私も取材先で見かけた娼家の建築様式に惹かれる機会も多く、大変共感できる。が、この回答は興味の対象つまりWhatには答えているが、Whyには答えてない。Whatに答えることは容易いが、Whyに答えることは難しい。

遊廓を調べることで自己肯定感をいくらか持てる。「自己肯定感」が〝小難しい概念用語〟であるならば、生きづらさの解消と言い換えてもいい。これが私の動機になる。大変青臭い話を持ち出すようだが、これには祖母が関わっている。大正生まれの寒村で生まれた祖母はいわゆる「贅沢を知らない」人物。専業主婦だが、都市部の団地住まいとは違い、野良仕事を兼ねた専業主婦といった塩梅で、夫は月給取りだったが限りなく農婦に近い。県外に出たことはほぼなく、家の中と家の周り数十メートルで暮らし、没した。こうした人生は、当時の山間農村地帯に生を受けた女性には、きっとありふれたもので、特別なものではない。取り立てて悲惨でもない。現代には、もっと苦境にある人々も大勢いる。が、この祖母の半生を見ていると「何のために生まれて、生きたのか?」という思いが拭えない。ただし、そのことで頭が埋め尽くされるような強烈な想いなどではなく、ただ祖母の死が近づいてきた晩年にぼんやり考えただけのこと。

家庭や学校では「人は、命は、平等」と教わる。が、大人になるにつれて、平等には扱われていない場面を多く目の当たりにする。同じく学校の歴史の科目では歴史上の偉人・偉業を教わる。大人になって他所の土地を訪れ、今の自分にはない見聞を広めようとしたところで、地元の政財界を牽引した人物や、そうした人物が残した建造物(例えば、豪農、商家、城郭、庭園)などが観光地の主流を占めている手前、偉人に光が当たる様が自然目に入ってくる。観光や旅行を例に挙げたが、当然これに限らず、本来平等と知りながら、現実社会ではさまざまな不平等な実態を日常的に受け容れている。生産性の高い人物ほど自分も恩恵に浴する可能性がある、だから大切に扱われて当たり前と。不条理の受忍は、強要でも、まして洗脳でもなく、自らの打算や諦念によるものだ。

より社会を牽引したり、貢献した人が賞賛されることに異存はない。ただし反動として、そうではない人の価値が相対的に下がっていくように映る。相対的にであれ「価値が低い人間」とは私の祖母であり、祖母に連なる私である。前述の通り、こうした想いで自分が埋め尽くされることもなく、良くも悪くも内面化され、ふとしたときに時折ごく小さな痛みを感じるに過ぎない。

小さな痛みとほどほどに付き合いながら、いたずらに歳ばかり重ねてきて、30代の半ばに偶然湧いてきた泡の一つ、遊廓。色々学ぶことは多いが、最近知ったことの一つに次のようなものがある。民謡の発展に遊廓、それも下級遊女が大きく関わっている。今の長野県に伝わる民謡『信州追分節』は、はじめ宿場を往来する馬子が唄う労働歌だったものが、飯盛女との蔑称を与えられた娼婦が宴席で唄う座敷唄に洗練させていった。洗練されるに従って、少しずつ周辺に伝播していく。越後と隔てる峠を越えてやがて日本海に到達し、今度は北前船に運ばれて蝦夷地(北海道)へ。北海道江差町で今も広く愛唱されている『江差追分』は、多くの人が一度は耳にしたであろう有名な民謡だ。愛唱家たちからは「民謡の王様」とまで呼ばれるが、これは先の『信州追分節』がルーツとされる。『追分節』が信州から蝦夷地に到達するまで、無名な飯盛女が幾人、歴史の帳に消えていったことだろうか

都市部の公娼などと違い、飯盛女の多くはおそらく文盲に近い女性たちであったろう。十返舎一九の『東海道中膝栗毛』に描かれているように、猥褻の嗤いに消費され、存在は忘れ去られてきた。しかし、こうした賤娼とも呼び得る娼婦がいたからこそ民謡は成立している。(一九の滑稽本も成立している)

今や民謡はクールジャパン扱いされるなど、日本を代表する文化の一つとして海外から認識されている。もちろん私を含めて日常的に民謡に触れる人は限られ、民謡が人生を左右する機会などほとんどの人には皆無だが、次のような事例もある。

明治以降、遊女(娼妓)から集められた税金が一部当てられて地域病院がつくられていった。私に身近な例で言えば、カストリ書房があるすぐ100メートル先には区立台東病院があり、これはかつて明治につくられた娼妓病院が前身にある。私は毎年ここで健康診断を受けている。過去ここに遊女がいたから、現代の私は健康を維持できている。私に限らず、遊廓に興味関心などない人々の健康も維持する役割を担ってきた。

遊女の多くは歴史上名を残すことなどなかった。史料にも限りがあり、後世から想像するしかないが、ともすると「何のために生まれて、生きたのか」分からない人々である。私の祖母は遊女でこそないが、「歴史上無名」「生産性が低い」「学問・芸術的才能を持たない」という点では、遊女と何ら変わりがない。だが、遊廓の歴史を紐解くことで、名もなき人々の貢献や犠牲の上に現代社会が成り立っていることが分かる。私も文字どおり生かされている。

「歴史上有名(社会的地位)」「高い生産性(能力主義)」「学問・芸術的才能(出自や自己研鑽)」が自己肯定感を与えてくれるのではなく、「誰かを支える自分、支えられている自分」の認識が自己肯定感を与えているのではないか。初等教育で教わりながら、人生の半分を過ぎても実感が得られなかったこうしたことが、遊廓を調べることで、私はようやく実感を持てるようになってきた。祖母の存在を挙げたが、祖母の半生が違うものであったら、私は別な人物や何かに自分を重ねて、同じ思考を辿っていたのだろうと予想する。なんでも良いとは言わないが、自分に重ねやすい何かを必要としただけのことで、その点、血縁が好都合だった。仮託できる対象は大抵は日常にあり触れている

なぜ出版、書店をつくったのか?──

理由は2つある。

2010年前後から遊廓を調べるようになった。記憶と記録がなくなる前に拾い集めようと、できるだけネットに載っていないマイナーな遊廓を調べるように心がけてきた。取材先では興味深い話を聞く機会も多かった。取材成果に多寡こそあれ、一度として骨折り損ではなかった。が、痛感したのは「もう遅いのでないか…」。10年20年前ならいざしらず、母集団が少なくなった今、聞いた内容が事実とは限らない。事実かどうかは棚上げするにしても、当時の社会の標準的なまなざし、象徴性のある言葉とさえ限らず、むしろ「例外」を抽出してしまうことも大いにある。

取材当初は貴重な話を聞くと、自分の手柄として、嬉々としてこれをブログに書き留めてきた。が、次第に迷いが生じた。少ない母集団から抽出した情報をネットに載せれば、研究蓄積が少ない地方遊廓ほど、史料批判の少なさに比して、引用されることが多い(実際、無断盗用の被害は今も遭っている)。情報が複製され、再生産されやすい。私の前職がIT業界だったこともあり、ネット社会の欠点である「容易に複製される情報」、結果「量が通説(社会通念)を生む」ことを痛感してきた。大上段に構えて「記憶と記録がなくなる前に拾い集める」といえば聞こえは良いが、私は歴史の改変に加担しているのではないか

一方で、各地の図書館に併設された郷土資料室などで史資料を探すと、大抵数冊は、地元の遊廓を、郷土史家が調べた本が所蔵されていることも取材の過程で知るようになった。私が地元の人から苦労して聞き取った内容が、既に書き記されていることも少なくなかった。勿論、過去の出来事のすべてを網羅などしてはいないが、可能な範囲であれ書き留めてきた本が顧みられることもあまりなく、置き去りとなっている事実が看過したくなかった。

商業出版やネット媒体は、経済合理性を理由に新しくアウトプットされた情報に価値づけしようとする。本は、同内容・同企画のものを書き手や装丁を刷新して造り直される。ネットも広告収益をより効率的に稼働させるため、新しくアップロードされた情報がより多く目に入るようなアルゴリズムが働く。このまま先行した郷土史家たちの仕事を無視して良いのか。私は遊廓跡をフィールドワークすると同時に、それらの先行研究を求めて図書館をフィールドワークするよう努めてきた。

遊廓を調べ始めた当初から「自分の世代が何をすべきか?」をずっと考えてきた。先行者と同じことをしても意味がないとは言わないが、本当にそれが私の世代に託されていることだろうか、との疑念は拭えない。私は作家、ライター、研究者といった情報の作り手や発信者になるよりも、先行者が既につくってくれた情報をバトンタッチする役割、すなわち発行者・書店を選んだ。各地の残された遊廓の本を復刻して、まだ面影や記憶がしっかり残されていた当時に書き留められた情報を再流通するよう努めている。

具体的な事例を一つ。遠藤ケイ『遊廓を行く 1976』 がある。本書は昭和51年に『ビックコミック』に連載され、未単行本だった連載を纏めたもの。本書の復刊には本書なりの理由があるが、別の機会に論じたい。

もう一つの理由。
どのジャンルでもそうかもしれないが、深く関わっていくほど、自分の立ち位置を突きつけられる。どれだけ各地の遊廓を仔細に成立経緯や妓楼・娼妓の数を諳んじようとも、外野の人間であることに変わりがない。「外野」とは関係のみならず、地理、時間的にも外部である。だからこそ見えてくるものがあり、むしろ「外野」の立ち位置を私は大切にしている。一方で、遊廓に関わりながら生きてきた人が発する言葉は、どれだけ他愛ないものでも、計り知れない重みがある。

例えば次の娼家に生まれた女性との出会いは忘れがたいものとなった。

私の心を揺さぶってくれた彼らは何かしらのかたちで遊廓に関わって生きてきた。飯盛女のような消極的関わりであっても、揺さぶる力は変わりない。生きたという事実が重みを与えている。

私が重みを得る方途は、やはり遊廓で生きていくことに他ならない。かといって、私が遊廓を現代の性風俗産業と置き換えて、性風俗業に勤めたり、経営することとも違う。遊廓について専ら書く作家、ライターでもない。遊里史などを専攻する研究者でもない。(言うまでもなく例に挙げた職業の良し悪しや高低を論じているのではない)。好事家でもなく、専門家でもない、知識も関心もない「市井の人々」を対象にすることで、遊廓の過去は日常化一般化されていく。

遊廓についてまったく知識も関心もなかった私が、今こうして日本で唯一の遊廓専門書店を経営している。ただし経営する私は、日本で唯一のきっかけを持った人間ではない。たまたま泡が浮かんだだけのことである。市井の人々の周囲に、遊廓という泡を浮かばせる役割を担うことで、遊廓の過去を取り巻く現代社会の有り様がわずかでも前進するのではないか──

以上が私の答えになる。

※ヘッダー画像:大分県大分市菡萏遊廓跡(撮影・渡辺豪、無断転載禁止)※以下は記事を有料化するためのもので、以上ですべてです。以下には何も書いてありません。

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