「串茶屋・遊女墓チャリティ」のお知らせとお願い
※2024年2月1日追記:チャリティの募集は1月31日をもって終了いたしました。集計のご報告は別途行います。皆様のご協力誠にありがとうございました。心より御礼申し上げます。
令和6年能登半島地震で被害に遭われた皆様には、心よりお見舞い申し上げます。
本稿では、石川県小松市に残る遊女墓を保存している同町内会に送るご寄付を募ります。後述するように全額寄付します。
尊い人命や財産が失われ、今なお救出作業、避難生活、復興作業が続けられていますが、次第に落ち着きを取り戻すにつれて、「上時国家住宅」(国重文)が倒壊した報道など、文化財の損壊にまつわる情報も入ってくるようになりました。
震源となった石川県能登地方にも、遊廓に関連した史跡が多く残されています。
輪島市にもかつて遊廓があり、現在はスナックなどが並ぶ歓楽街に変わるも、震災直前まで当時の娼家が2棟現存していました。輪島市では、元娼家であった事実を明かして、当建築が街の景観に寄与する建造物であるとの案内板を掲示しています。
悲しいことに、貴重な2棟のうち1棟、加能亭が全壊したことがSNSで報告されました。
また、地元名産の能登そうめんにまつわる民謡(労働歌)『麦屋節』は地元出身の金沢遊女おさよが伝えたとされる伝承が残り、それを顕彰するおさよ塚が建立されています。
遊廓に一切関心がなくても、輪島市に訪れた観光客は知らず知らず遊廓をルーツにした地元グルメに舌鼓を打ち、景勝地に目を細めてきました。輪島市観光のいくばくかは遊女の貢献と犠牲の上に成り立ってきました。遊廓は好事家趣味で片付けられない(また、そうしたくない)と私が考える一つの理由です。
さて、同じく北陸地方である石川県小松市串茶屋に残る遊女の墓について、以前noteで書きました。2022年11月には、当地で遊女墓の保存活動を行う地元有志の代表者・河端藤男さんにお話を伺いました。
この遊女墓は小松市の文化財に指定されていますが、保存活動は同町内会の有志らの手に委ねられており、コストも町内会費を財源として負担しています。私が取材したところでは、当時の遊女の手紙や高下駄など一次史料を保存する資料館の老朽化対策の改修費用に640万円、墓石の劣化を遅くする薬剤は一斗缶あたり10万円弱と、まったくもって負担は小さくありません。
2011年におきた東日本大震災を東京で震度5強を被災した私は大変な恐怖を感じましたが、能登半島地震では震源地から100キロ以上離れた小松市でも同じく震度5強を観測しています。遊女墓は、高さ2メートルほどの墓石もあり、もっとも古いものでは遊女わかふしの墓は宝暦13(1763)年とあって、震災が起きた元旦以来、全国でも極めて珍しい町内会設の遊廓歴史資料館や、近世中期から連綿と地元によって手厚く保存されてきた遊女墓への被害がずっと気になっていました。
地震発生からおよそ10日経った頃合いを見計らい、1月11日、冒頭の河端さんにお見舞いも兼ねて、お電話差し上げました。冬季の現在はブルーシートが掛けられ、縄で縛っていたせいもあってか、傾倒などはみられない。ただしシートは外していないので、完全には分からない。また不幸中の幸い、同町内でも大きな被害は発生していないとのこと。諸々伺い、一旦胸をなで下ろしました。
串茶屋に残る遊女墓の被害程度がいずれであっても、募金を募ろうと決めていました。いまだ人命第一で諸活動が続く最中、「いま怪我や寒さで苦しんでいる人々がいるのに、200年前に死んだ遊女の墓をアレコレして何の役に立つ? 今の現実に目を向けよ」とのお叱りがあるかもしれません。確かにそうかも知れません。目下もっと優先的に取り組まねばならないことは震源地・能登半島を中心に山積しているものと拝察します。その点、抗弁はありません。一方で、こうも思います。
物事の優先順位が平時よりも一層厳格に定められる非常時において、平時に見向きされないものは、さらに置き去りにされるのではないか──
義援金の多くは日本赤十字社など代表的な組織によって、安全に運用され、より苦境にある人・組織には重点的に分配されているものと拝察します。今回のチャリティを企画するにあたって「なぜ日本赤十字社を通じた募金を呼びかけないのか?」と自問しました。緊急度や被害規模に見合った分配がなされることに何ら異存はありませんが、一方で、どうしても優先順位が低くならざるを得ない対象をそのまま看過して良いということにはならない、が私なりの考えです。
震災直後から移住論が起きました。多くは当事者以外からの提起でした。少子高齢化が進む東北が多く被災した2011年の東日本大震災でも指摘された「被災前に戻しても地域課題は解消されない」は確かにその通りで、復興の困難さの一端を示すものです。一方で、生産性・経済性を理由として他者の生活する権利を狭めてよしとする「合理性」なるものは、優生思想と何ら変わりがないといった反論は正鵠を射たものです。
串茶屋に話を戻すと、被害は軽微であっても、町内会費は優先して町内の復興関係に運用されるでしょうし、そうあるべきだと思います。ただし、そのしわ寄せが遊女墓に向かうとすれば、ほんの少しでもなんとかしたいというのが私の考えです。後述する私の募金では、被害額に比して限りなく0に近い、あまりにささやかな金額しか集まらないかも知れません。無論私の力不足ではありますが、同時にそれだけ優先度が低く扱われ、後回しにされがちな復興対象という証左でもあります。支援額が少ないからこそ、やる意味があるのではないか、そう思い至りました。
1995年の阪神・淡路大地震、2011年の東日本大震災、2016年の熊本地震、そして2024年の能登半島地震。その他大小の災害いずれでも、地域コミュニティの大切さが再確認されてきました。
同時期はネットやSNSが普及する時期と重なることから、それらの利便性が確認されてきました。一方で、どれだけ進歩・普及しても代用でき得ない地域の繋がりや役割があることもまた同時に浮き彫りになってきました。
先に挙げた遊女墓の保存活動は、地域の有志らによって代々受け継がれ、地域の絆の一つをなしてきました。これは串茶屋に限ったことではありません。私は現行の娼街として今や広く知られる、飛田料亭街すなわち飛田新地を取材して、遊女墓を軸にして絆の結び直しを図る同組合の近況を明らかにしました。
また遊廓関連の史跡に限ることもなく、さらには自治体が指定/登録するような〝立派な文化財〟ではなくとも、「自分たちの歴史の一部として、先祖から大切に受け継いできた有形無形の歴史文化」すべてに共通することではないでしょうか。
最前「所詮、遊女墓は2世紀も前に没した人物のものである」と述べましたが、今も地域の絆を醸成する役割を担っているという意味で、「終わった過去」でも「役に立たない好事家趣味」でもなく、現代と地続きになった大切なものの一つであると、私は考えます。
さて、長くなりましたが、募金の概要です。
2023年1月中の私のnote売上全額を寄付します。
ご賛同頂ける方は記事を購入もしくはサポートをお願いします。どの記事でも構いません。(noteトップページ)
期間は状況次第で延長することがあります。(当noteで報告します)
全額、串茶屋町内会に寄付します(月末で〆て現金書留で送る予定です。送料やnote手数料などの諸経費は当方で負担します)
寄付金の用途は町内会に一任します。
大変恐縮ですが領収書の発行はできません。
非力な私にはこの程度しかできず、全壊した加能亭の復元費用をまかなうことなど到底叶いませんが、それぞれの課題意識を基に、できることをやっていく、これもまた過去の災害を通じて教わりました。
※ヘッダー画像・串茶屋に残る遊女が履いたとされる高下駄。子供のもののように小さい。(撮影・渡辺豪、無断転載禁止)
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