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じぶんのまんなかを生きるとは、今世で魂が渇望する最大価値の経験に値する。| 現実とスピリチュアリティの間で 𓂃 𓈒𓏸


先日、とあることから自分の中に強烈な怒りが湧いてきて、それがあまりにも強かったので、数日にわたって観察してみたら、半分は自分自身に対する怒りだったことに気づいた。


わたしは今、ようやく自分のまんなかを生きようとしている。まだ完全にそう生きれてないかもだけど、そう生きるという、確固たる覚悟ができた。

でも、そう決めるのに30年という月日が経ってしまって、じゃあそれまで何をやっていたかというと、自分のまんなかではない、ほんとうはサブに値するようなものを、まるでいちばん大切なことと言わんばかりに、無理やりまんなかに置いて、コミュニケーションをとってきた。

そんな風に、自分の命を全うしない生き方を選び続けてきたことに対する、怒り。もちろん、その全てが必要条件で、ひとつひとつを乗り越えることでしか辿り着かない景色を今みようとしているのだけど、わたしはわたしのことを、本当の意味で、大切に扱うことができていなかったのかもしれない。

でもそれさえ、自分では気づかなくて、でももしかしたら、心のどこかでは気づいていたかもしれなくて、少なくとも、魂はずっと分かっていて、ずっとずっと、わたしに気づかせようと、「現実世界の傷みや体調不良」として、サインをくれていた。

わたしはそのサインに対して、真正面から耳を傾けず、どうにかそのまま突き進もうとしていたのだけど、いつしか限界を迎えた意識や肉体を、魂が越えてしまい、泣きながら自分自身を受け入れ、30歳にしてようやく、自分がほんとうにやりたかったこと、心から望んでいたこと、からだが求めるもの、を、選んでいいと、自分に対して許可することができたのだった。

そう生きると決めてまだ1ヶ月ほどととても短いのだけど、わたしの魂は心から喜んでいて、生き生きしているのが肉体越しに伝わってくる。前と生活はほとんど変わっていないのに、体調を崩す気配もなく、心身ともにかなり健康的。

不要なものが手放され、必要なものに巡り会い、この世界の全てが味方をしてくれている感覚がする。

そして、今ようやくそれらを「過去」として認識することができ、30年間サブを中心に生きてきた自分のスタンスに対し、本気で怒ることができたようだった。

自分からしっかりと本気で怒られると、反省することができるし、同じことを繰り返さないよう、これからの選択を何より大切にしていくことができる。

でも、じゃあここで考えたいことは、なんで、あんなにも自分のまんなかを生きることが怖かったのか、どうしても長い間できなかったのか、まだ明確に言語化できていない。だからこそ、資本主義社会の枠組み以外の要因として、そこにどんな感情があったのか、見つめてみることにした。




土砂降りの中、傘を持たずずぶ濡れに帰ってきた後、熱いお風呂に浸かりながら、ゆっくりじっくり、過去の自分に話しかけ、対話を試みてみる。


自分のまんなかを生きることに対し、
一体、何が、そんなに怖かったのか。


いちばん最初に出てくるのは、
「どうなるか分からない恐怖」のようだった。

サブに対して一生懸命になっていた時は、結局、それをしたら最終的にどうなるか、何を得られ、どんな気持ちになり、どんな未来に繋がっていくか、が、きっとやる前から分かっていたのだと思う。

だから、ある程度確保された「安心感」を頼りに、走っていたのだと思うけれど、

きっと、自分のまんなかを生きるということは、それがどうなるか、ほんとうに想像がつかなくて、これまで生きてきた自分のデータベースには存在しないような、探しても見つからないような、全くもって、未知の世界に繋がる現象なのだと思う。

だからわたしたちは、それがとても「怖い」と感じるし、「不安」だと感じる。

意識的にも、無意識的にも。


わたしたちは、「どうなるかほんとうに分からないこと」が、怖い。

でも、だからこそ、まさに「それ」を経験するために、今世に生を受けたのだと思った。

わたしたちは、魂を磨くために、今世でも「人」として生まれた。

ここで多くのことを経験し、多くのことを学び、どれだけの感情を感じられるかが、魂の修行に繋がる。

わたしたちの魂は、前世では経験することができなかったことを本当に渇望して経験したがっているし、それこそが、まさに生きる意味となる。


だから、わたしたちがどことなく想像できるものは、きっと前世で既に経験していて、記憶の遥か彼方に残っていて、もし残っていなかったとしても、肉体は覚えていて、何より魂は知っている。

だから、それらを経験すること自体は、もちろん今世においては成長に繋がるのだけど、輪廻転生を繰り返すこの連鎖の中においては、ものすごくちっぽけなことで。


そう、わたしたちが怖くてしょうがない、自分のまんなかを生きること、それを選び、覚悟し、実際に行動していくは、今世の目的そのものであると。もはや、そうすることでしか、今世の目的は達成できないのではないかと、ほぼ確信に近い感覚で感じた。

(実際にこのnoteで文章を書きながら、内省する中で気づいた。笑)(アウトプットするって、セルフコーチング的にも、めちゃ大事!)




なるほど、そういうことなのかと。


つまり、これからわたしが経験することは、それをやったからどうなるか全く分からない大冒険の世界であり、きっと魂が初めて経験すること。


だから、まだ始まってもないのにこんなにもワクワクが止まなくて、いてもたってもいられないくらい、自分の人生を見逃せないと感じている。


なるほど。

じゃあ、そんな怖さを乗り越えるために必要なのは、やっぱり「旅」をしているような感覚であり、自分がどんなハプニングが起こるか分からない冒険をしているという、そんな意識。

じぶんのまんなかを生きるためには身軽であることが大前提だけど、それでも持っていく必需品としては、旅人としてのマインド、が絶対的なマストアイテムなのかもしれない。


そうすることで、わたしたちはきっと、怖ささえ乗り越えて、一歩踏み出す勇気を持てるだろうし、何があったとしても、良い思い出だったね、なんて笑い合えるものになるのだろう。


じぶんのまんなかを生きるとは、今世だからこそ出逢える、初めての唯一無二な自分に出逢うこと。そしてそれは、魂が渇望する、今世最大で最高に価値がある経験に値する。


これから自分の人生をもって、思う存分味わい、体感していきたい。

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