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私はパートナーという神の敬虔な信者でありつづけたい


 彼の仕事してる姿が好きだ。会議中のかしこまった声や、抑えた笑い、作業中の貧乏ゆすり、生真面目な集中が好きだ。舌打ちも好きだ。疲れて血の気を失う頬が好きだ。
 本を読んでいるときの神経質な手先が好きだ。詩への冷静な批評が好きだ。テレビ番組への悪口が好きだ。恋愛モノの小説を苦手とするところも好きだ。その精神の高潔さが好きだ。
 わたしの嘘を絶対に見破るところも好きだ。彼はわたしのことはなんでもわかる。
 彼に手を引かれると、わたしは彼の幼い娘になった気になる。心の奥底から頼っている。掃除をしていると、彼のお母さんになった気分にもなる。彼に心の奥底から頼られていることが好きだ。
 彼のどこが好きなのか考えていると、それは狂気的な情愛とは全く異なっていて、ただ毎日そこにいてくれる積み重ねに尽きると思う。玄関から入ると、そこにいておかえりと言ってくれる。呼ぶと返事をしてくれるところにいる。毎日のその積み重ねが安心であり、信頼である。
 毎日そばにいてくれることが積み重なると、自分はここにいて良いのだと感じられるし、それは大きな「生きる希望」になる。一緒にいる時間が一秒でも長いほど、その希望は大きくなる。
 彼はわたしにとっての神なのである。気難しくて偏食で資料作成が得意な神である。なにが正しいか、なにが美しいか、なにを忘れないでおくべきか、わたしは聖書を手にする。その尊さに自分は見合わないのではないかと涙が出てくる時もあるけれど、神は弱さを救う。わたしは祈るような気持ちで彼の腕に触れて彼が存在してることを奇跡のように感じる。
 「彼女」「彼氏」、「妻」「旦那」には色々な役割が期待されすぎているが、パートナーはお互いの内面を暗部まで共有するためにいるのではなく(それは不可能だ)、外の世界に開くもうひとつのドアを手に入れるようなものだと思う。自分と異なる物差しと徹底的にシンクロしていく。自分と彼が入り混じって、ひとつの存在になっている感覚。三島由紀夫が童貞を「女を戸の外で待たせてこの世の半分を知らない状態」と書いていたが、あながち間違っていない。彼はわたしの世界の半分だ。妻の存在によってこの世のヒュウマニティに通ずると書いた高村光太郎もあながち間違っていない。
 このうるさい世界のざわめきのなかへわたしを連れていってくれる神様、それがパートナーだ。わたしはそのそばにいたい。

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