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オタクがアフリカ「ガンビア共和国」に行ったら大統領に会えちゃった話 + 備忘録

 西アフリカに位置し、セネガルに三方を囲まれ西は大西洋に面する「アフリカ最小の国」ガンビア。日本人にとっては決して馴染みのある国とはいえず、インターネットが普及している今の時代にもこの国に関する日本語の情報は非常に少ない。筆者は2023年2月にガンビアへ渡航したので、広いインターネットの情報の足しになればとの思いから本稿を書くことにした。駄文かつ長文になってしまったが、最後までお読みいただければ幸いである。

1. 事前準備

1-a. まさかの誘い

 事の発端は2023年1月21日。
 名古屋市西区中小田井にある、筆者にとっては馴染みの店となって久しいガンビア料理店「Jollof Kitchen」に、筆者はこの日も足を運んでいた。

Jollof Kitchen の Domoda (1,320円)

 この店のオーナーであるBintou Kujabi Jallow氏(以下、Bintou氏)は執筆時点で自国であるガンビア共和国の在名古屋名誉総領事も務めており、在日ガンビア人などの支援を行っているほか、筆者を含む接受国、日本の国民にビザなどを発給する権限も持つ。このことから、彼女をはじめ店にいるガンビア人らと親交を深めるうちに筆者はこの国に興味を抱いていたし、彼らもまた自国に筆者を歓迎しようとしてくれていた。しかし、筆者と彼らはCOVID-19の影響の強く残る2021年に知り合ったので、渡航は実現していなかった。

 海外への渡航要件、日本への帰国要件ともに初期よりは緩和され、それからしばらく経ったこの頃。Bintou氏の口からまさかの発言が飛び出す。
「急だけど、来月ガンビアに3年ぶりに帰るからよかったらついてくる?」(要約)

かくして、筆者は急遽ガンビアへの渡航を決めたのである。

 ここで、ガンビア共和国についておさらいしておこう。ガンビアは西アフリカにあるセネガルに三方を囲まれた国で、西部の島にあるBanjul(バンジュール)に首都を置く。かつてイギリスの植民地だったことから、公用語は英語。人口は約264万人(2021、世界銀行)で、95%以上がイスラム教徒である。大西洋に面することから対欧州を中心に観光業(海洋リゾート)も盛んである。面積は約11,300平方キロメートルで、日本の岐阜県よりわずかに広く、秋田県よりわずかに狭い程度。アフリカの独立国では最小である。

1-b. 書類の準備

 日本人(日本国籍者)がガンビアに渡航する上で必要になるのは、すべての海外渡航に必要になるものに加えて主にこの2つ。

  1. ビザ

  2. イエローカード(黄熱予防接種証明書) (念のため)

 まず、1. ビザについて 。日本とガンビアはビザ免除の協定などを結んでいないので、観光目的の渡航であってもビザの申請が必要である。日本人渡航者はアライバルビザを利用するか、隣国セネガルにあるガンビア大使館で申請するのが一般的なようである。無論、筆者はすべてをBintou氏に任せることになった。(つまり、在名古屋ガンビア共和国名誉総領事館でビザの発給を受けられた。当館は執筆時点では唯一の日本にあるガンビア共和国の公館ということになる。)

 次に、2. イエローカード(黄熱予防接種証明書)
 これは、アフリカや中南米諸国、中でも熱帯の地域に渡航経験がある場合お持ちの方もいるかもしれないが、黄熱に感染する恐れのある国に、もしくはそれに該当する国から特定の国に入国する際に要求されることがある証明書である。黄熱のワクチンは日本では限られた施設でしか打てず、枠に限りもあるので早めに予約することが肝要である。イエローカードは接種後10日目から有効になるので、渡航日から逆算することも必要である。費用は高いが、一度接種すれば生涯有効である。筆者は東京都内で用事のついでに予約を取ることができた。なお、今回は渡航先で一度も確認されなかったので、持っていっただけということになる。

 特別な注意の必要な書類はこれだけである。ガンビアは現状医療水準が低いので、筆者は保障内容がある程度充実した海外旅行保険に加入した。また、現地に日本大使館はないので、受けられるサポートが限られることには当然留意すべきである。(執筆時点では在セネガル日本国大使館がガンビアを兼轄)

1-c. 持ち物

 持ち物のうち、筆者が渡航経験のある他の国(ほとんどが温帯)には持っていかなかったものを挙げる。

1. 虫除けスプレー (念のため)
 
ガンビアには雨季(5月前後~11月前後)と乾季(それ以外の時期)があり、雨季には蚊がわきやすい。「乾季には蚊はほとんどいない」と説明されたが、熱帯の国なので乾季でも暑い。したがって持っていて損はないと考えた。

2. 抗マラリア薬 (念のため)
 ガンビアでは蚊が媒介する感染症として、黄熱に加えマラリアにも警戒すべきだとされている。こちらも蚊がいないとすれば無用な心配だが、黄熱ワクチンを打った渡航外来に抗マラリア薬も処方してもらった。現地滞在の前後にも服用すれば発症予防の効果も期待できるそうである。

 いずれも、蚊は本当にほとんどいなかったのであまり意味はなかったが、蚊以外の虫もいるのでやはり虫除けスプレーは持っていて損はない。現地では売っているのを見かけなかった。

2. 旅行開始

2-a. MoIW2023

 そこそこ入念な準備を整え、筆者は家を発った。といっても、行先は東京である。ガンビア渡航が決まるより前からチケットを握っていた「THE IDOLM@STER M@STERS OF IDOL WORLD!!!!! 2023」に参加するためである。これから渡航するガンビアに思いを馳せながら、しっかりとパフォーマンスを浴びてきた。

終演後(一部加工済)

2-b. 出国~乗り継ぎ

 翌日(2月13日)朝、そのまま成田空港へ向かった。そして、Bintou氏と、この時筆者とは初対面だったもう一人の日本人男性(以下S氏とする)と合流したが、その後のチェックインカウンターでまさかの事実が判明する。Bintou氏のシェンゲン域での乗り継ぎビザが必要なのに、彼女が要件を読み違えてそれを用意していなかったという。つまり、Bintou氏は筆者らと別に改めてガンビアへ向かい、後から合流することになったということである。(彼女の名誉のために付け加えるなら、「何度も両国間を行き来しているが、今回使うことになっていたルートは初めてだった」ということがこの問題に大きく影響したと考えられる。)
 海外旅行の経験はゼロではないものの、途上国に慣れておらずBintou氏を完全にアテにしていた筆者だが、Bintou氏がいないという目の前の現実を受け入れるしかなかった。(しかも、S氏は英語が全く話せない)

 いきなりの波乱ながら、日本国籍の筆者とS氏は書類に問題がないので無事に出国した。Swissとブリュッセル航空を乗り継ぐチューリッヒ・ブリュッセル経由の旅程である。航空ファンである筆者はoneworldのステータスを持っているのだが、すべてをBintou氏に任せた結果それを利用することはかなわなかった。
 なお、欧州経由でガンビアへ向かう場合は、執筆時点でブリュッセルの他にパリやリスボンなど多くの都市から直行便が利用できる。欧州以外だと、イスタンブール経由やドーハ・カサブランカを経由するルートも利用できる。

チューリッヒまでの搭乗機 HB-JNE (ボーイング777-300ER)

 渡航時点では、西側諸国とそれに準ずる国の機体はロシア上空を飛行できないため、アラスカや北極上空を経由しての飛行だった。所要時間は14時間ほど。長い飛行時間だが、奇跡的に近くの窓側から3列の席がすべて空いていたので、そこに移らせてもらえた。

北極上空。14時でこの明るさである

 チューリッヒには夕刻に到着。乗り継ぎ時間は13時間ほど。トランジットホテルが工事で開いておらず、街でひとしきり飲んだら残りの時間はベンチで仮眠をとることに。(Bintou氏がいないということで、ここからは筆者がS氏の事実上の通訳をすることにもなった。といっても、筆者の英語力も全く高くないので苦労したものだが……)

チューリッヒ中央駅。空港から10km未満だが電車賃は片道1,000円ほど。
スイス料理。これで2万円ぐらいとスイスらしい物価。S氏が奢ってくれた。
スイスビール「CALANDA」。このサイズで1,000円未満なので激安(スイス基準)。

 翌朝、1時間ほどの飛行時間でブリュッセルへ。ブリュッセルで4時間ほどの乗り継ぎ時間の後、いよいよガンビアのバンジュール国際空港へのフライトに搭乗した。こちらの飛行時間は6時間程度。機内でガンビアの入国カードを書くことになる。

ブリュッセルへの搭乗機 HB-IJQ (エアバスA320)
機窓には一面の平野。
ブリュッセル航空 SN223便 バンジュール経由コナクリ行の搭乗ゲート。
実際の入国カード。一般的な内容に加えて、到着便に乗った空港などを書く欄もあった。

3. ついにガンビアへ

3-a. ガンビアへ入国

 丸2日弱の時間をかけて、筆者とS氏を乗せた便はようやくバンジュール国際空港へ着陸。2月14日夕方のことである。ガンビアと日本の時差は9時間であり、日本時間の2月15日未明にあたる。日本での体感だと30度前後(実際は35度前後)と2月の北半球とは思えない暑さに熱帯に来たのを実感しつつ、Bintou氏に「バスには乗らないで」と言われていたので待っていると……

ボーディングブリッジはない。A330のようなサイズの機体でもタラップ乗降。
奥には乗らないよう言われたバスが。
搭乗機 OO-SFB (エアバスA330)

 しばらくして呼び止められ、「日本人か?」と聞く係員の方が。肯定すると、なんと外務省の要人輸送用の車が迎えに来た。筆者はここで、客と店主という以前に親しい友人…いや、アフリカ風にいうと"Family"といえる関係性になっていたBintou氏の計らいによって国賓待遇(!)になっていることを確信したが、この程度は序の口に過ぎなかったことを後に知ることになる。

これが実際の写真。

 続いて、一般客とは別室で入国手続きへ。入国カードとパスポートを見せると、ごく一般的な審査が行われた。渡航目的、滞在日数を聞かれ、指紋を取られる。入国料も取られる(20米ドルか20ユーロを選べる)。

"Welcome to the Gambia!"

 入国が許可され、筆者のパスポートにスタンプが押された。そして、S氏とともに税関へ。ここで途上国の洗礼を受けることになる。筆者が持ち込んだ荷物に難癖をつけられ、「このままではお前を逮捕しなければならない」と脅された。筆者は後に知ったが、これは賄賂をとるための口実としてよく行われることらしい。結局、大した額を取られることもなく、逮捕もされず、今度こそ無事に入国した。

 ガンビアの公用語は英語だが、現地ではウォロフ語、マンディンカ語、フラニ語など複数の民族の言葉が話されており、当然ながら現地語の方が融通が利きやすいことが多々あった。筆者は当然現地語は話せないので、現地をガイドしてくれた方々(Bintou氏の知人や親族、お抱えの人など)に頼ることになる。

3-b. ガンビアの現状を知る

 税関を抜けると、宿の送迎の方が待っていた。空港から車でしばらく進むと、大きなゲートが現れる。

ゲートでは警察による検問も行われている。

 ガンビアの道路は多くが未舗装である。さすがに空港周辺は舗装されていたが、都市部の幹線道路でも未舗装の区間が多く、車の乗り心地は決して良くない。また、乾季には尋常ではないほど砂埃が立つ一方で、雨季には普通の車は使い物にならない程ぬかるむという。さらに交通信号などもない(国内で1か所だけあるらしい)ため、渋滞や事故も頻発するという。渋滞する道をしばらく進むと、Yundum(ユンドゥム)という都市に入る。

都市部では幹線道路沿いにも屋台や露店商が多い。
Yundum のメインストリート。商店が多く人通りも活発。

 さらに進むと、1週間お世話になることになるヴィラに到着した。この宿、なんと電気が有料で、一定量使うごとに500ダラシ(約1,100円)請求された。しかも、多い日は一日4~5回停電する。なお、湯沸かし器も電気式で、総じて電気の必要量は多い。宿泊料は高いがもっと便利な場所に普通のホテルもあるので、お金に余裕のある方にはそちらをお勧めする。

Old Yundumにあるヴィラ。1人1泊3,000円ほどと安い。寝室3室とリビングルーム。
水回りは安宿によくあるトイレとシャワーに仕切りがないタイプ。

 荷物を置いて、出かけた。まずは持ってきた米ドルやユーロを現地通貨に両替する。ガンビアの通貨はダラシ(GMD)。執筆時点、渡航した当時とも1ダラシ = 約2円というレートだが、日本円から直接両替できる場所は存在しない。飲食店のメニューなどでは、数字の頭に大文字のD(Dalasisの略)をつけて表すことが多い。
 筆者は、両替所で50ユーロ紙幣を渡す。すると、札束が出てきた。全部で3千と数百ダラシだが、主に50、100、200ダラシ紙幣の3種類しか流通していないのでこうなったようである。

100ダラシ紙幣の束。1週間の滞在に事足りるとこの時点では思い込んでいた。

 続いて、送迎の方の案内で夕食を食べに行った。ここで、想定していたより食費がかなり高いことに気づく。コカ・コーラの小さい缶1本とメインメニュー一皿で1,000円近くしたと記憶している。ガンビアは農産物を含めほとんどの物品を輸入に頼っており、一人当たりGDPが約772米ドル(2021、世界銀行)の国(同年の日本は39,313米ドル)とは思えないほど物価が高い。なお、水と塩だけは安い。

この日行った店。屋台ばかりではなく、普通のレストランも多い。
送迎の方。ガンビア人は写真が好き。
Yassaと呼ばれる料理。ガンビアを含むこの地域では米が主食である。
ガンビアでよく見かける水。1本あたり10ダラシほど(約21円)で買える。

 翌日(2月15日)、別の方にスーパーマーケットと、ガンビアをリゾート地たらしめるビーチのひとつに連れて行ってもらった。ガンビアの物価がどれほど高いかは、ボックスティッシュが1箱で125ダラシ(約260円)だとか、ガソリンが72.5ダラシ(約150円)/Lだとか説明すれば容易にご理解いただけるだろう。無論、日本のように税金はかかっておらず、物品そのものがこの値段である。

スーパーマーケットの例。大半が欧州やインド、中東などからの輸入品で、隣国セネガルから輸入しているものもある。
Brufut(ブルフット)という都市のメインストリート。この日の案内人が住んでいる。
Brufut市内のビーチ。外海で波は荒く、遊泳には向かないかも。

 夕刻、案内人の紹介でリゾートホテル内にあるレストランに向かった。ガンビアにはこのような観光客向けのレストランも多く、衛生状態も悪くない。ただし、値段は高い。

海に面したプール付きのホテル(Balafon Beach Resort)。右の建物がレストランである。
欧州人観光客が客の大半を占める。
デザートやアフリカ料理の並ぶメニューのページ。Dに続く数字が価格である。
450ダラシ(約1,000円)のDomoda (Chicken)。こんな調子では3,000ダラシ程度すぐになくなる。

 翌日は宿でゆったり過ごし、2月17日未明にやっとBintou氏が合流。昼になると最大の都市Serekunda(セレクンダ)のSenegambia(セネガンビア)地区に向かった。まずは、ずっと手に入れられていなかったSIMカードを買いに行くことに。
 日本のキャリアではガンビア国内でデータ通信ができないため、ここまで外ではインターネットが使えなかった。ガンビアにも大手通信会社があり、一応4G通信と銘打って、旅行者向けにも物理SIMの他にeSIMも提供している。筆者は不器用で物理SIMの入れ替えに難儀することが予想できたのでeSIMを選択した。勝手に携帯の言語設定を英語に変えられたが、設定まで係の方がやってくれた。日本の4Gの印象ほど早くはないが、しっかり繋がった。しかし、価格は出国の2月21日までの4日分で2,200ダラシ(約4,800円)。容量無制限とはいえ、非常に高いだろう。初日の50ユーロ分を使い切ってしまった筆者は、両替所へ駆け込むことになった。

Senegambia地区の観光客が訪れるエリアにあるafricell社の支店。両替所も銀行も近くにある。

 なお、ガンビア人の大半は電話番号を持っているが、ガンビアの回線を使うことはまずない。Meta社のプラットフォームであるWhatsappに電話番号を登録して、無料通話やチャット機能を利用することが大半らしい。筆者も、現地の人やBintou氏とのやり取りではWhatsappを利用した。LINEの影響力が大きい日本ではあまり知られていないが、世界的には広く利用されていて日本語にも対応している。なお、ガンビア人は電話が好きなようで、案内人たちもしょっちゅう誰かに電話していた。スマートフォン自体の需要は非常に大きい。
 この日は、その後Tropicという地区内のショッピングモールへ向かった。ここで通常の旅行では考えられないものを受け取ることになる。

Tropicの外観。結構大きい。
清潔なフードコート。現地人も観光客も多い。

 しばらくすると、もう一人の人が現れてガンビアについてS氏にいろいろ説明していた。フードコートは水だけでも買えば着席していいらしく、同じような使い方をしている人も見受けられた。
 ここで、翌日の2月18日に首都Banjul(バンジュール)で行われる、イギリスからの独立58周年記念式典の招待状が筆者とS氏に手渡された。なんと、ガンビアどころかアフリカへの渡航経験さえ今回までなかった筆者も式典に参列できるとのことである。この日は、その後ガンビア最大の商業地であるKairaba Avenue(カイラバ通り)に立ち寄り、宿に戻って翌日に備えた。

Tropicの前の通りとKairaba Avenueの交差点。africell社の広告が幅をきかせる。
Kairaba Avenueの中では落ち着いたエリア。
Kairaba Avenue沿いにある八百屋のような店。多種多様な野菜や果物、調味料などを売っていたが、相変わらずほとんどが輸入品で高い。
もちろん、街でも独立記念日に行われる式典について広告されていた。
式典の実際の招待状。見開きでプログラムなどが書かれている。

3-c. 独立記念日、ガンビアにとって特別な日

 そして迎えた2月18日、朝10時に始まるとある式典に間に合うように早朝に宿を出発する。Banjulまでは30kmほどしか離れていないとはいえ、ここはガンビアである。途中もれなく渋滞に巻き込まれながら、Banjulを目指す。Banjulまでは1時間半ほど。先を急ぐ来賓らしき車が渋滞の中を無理やり突っ切っていくさまなどを見ながら、9時半頃にBanjulのMcCarthy Square(マッカーシー広場)に到着した。
 筆者らは時間に間に合ったが、結局あまり席が埋まっていない。10時半頃になってやっと式典が始まる。ガンビア人は良くも悪くもおおらかである。その後アダマ・バロウ(Adama Barrow)大統領が車から出てきてスピーチ、続いて軍によるパレード。最後にガンビアの小・中・高校生らによる行進が行われた。

工事中の道路の脇を走る。あまりに砂埃が多いので散水車が出ているが、焼け石に水。大量の砂埃が筆者にも襲い掛かる。
Banjulの街並み。Serekundaに比べてはるかに小さな街だが、道がすべて舗装され歩道も分かれていたのはさすが首都といったところ。
McCarthy Squareの前。ガンビアの警察だけではなく、セネガル軍なども警備にあたっていた。
ガンビアの軍人たちがパレードの列を作っていた。
学生らが校名のプラカードの後ろに整列する。国を挙げた運動会のような様相。

 式典が終わると、参列者らは自由に席を立って動き出した。筆者も参列者に配られた大きなカレンダーの扱いに苦慮しながらついていく。地元の子供たちが何やら大人に指示されながら参列者が置いていったペットボトルなどのゴミを回収していた。一方で広場の方に目をやると、みんなやりたい放題。ある人は楽器を鳴らし、ある人はカメラを持ち、またある人は踊りながら広場の中に集まっていった。このあと、筆者らにとんでもないことが起きるのだが、この時はそれを知る由もなかった。

式典後の広場はこの状態。もちろん警備は厳しく、犯罪などは見受けられない。

 その後、筆者らはBintou氏に「大統領夫人との約束がある」と聞かされる。とんでもない人混みをかき分けて大統領官邸の門にたどり着くと、所持品すべてを検査された末に敷地内へ入ることを許された。この時点では他にも何十人もの人が庭園に入ってきて、やがてバロウ大統領がやってくると皆自らとの写真を撮りたがっていた。なお、本来は大統領官邸の敷地内での撮影は禁じられている。筆者は撮る前に止められた上にフォルダー内をチェックされた。
 ひとしきりの盛り上がりを見た後、Bintou氏についてくるよう言われる。そして、連れられた先はなんと建物の中。携帯電話や財布を含むすべての手荷物を入口で預けたうえで、なんと筆者と案内人を含む4人も大統領官邸のリビングルームで行われていた独立記念パーティーへの参加が許された。
 
ソーセージやパンなどの軽食、デザートに加え、タマリンドジュースなど日本ではなかなかお目にかかれないようなものも振る舞われた。招かれた国民の中には若い人も多く、バロウ大統領と写真を撮りたがっていた。一方のバロウ氏は国民そっちのけでプレミアリーグをテレビ観戦。時に視線をふさぐ人に表情を曇らせるも、怒るわけにもいかない立場からか撮影に一応応じてはいた。
 その後、大統領の脇の席に案内され、筆者らが彼に紹介される。なんと、アフリカに来たのも初めての日本人オタクが、一国の大統領と一対一の対談をすることになったのだった。筆者はBintou氏らからウォロフ語のニックネームをもらっているので、すぐにそちらの名前で呼ばれていくつかの質問をされた。大統領に最初に聞かれたのは「この国はどうだ?」ということだった。筆者は英語での受け答えにあまり自信がないが、

「ガンビア人はみんな親切で優しいし、治安もよくていい国だと思います」

というようなことを言ったつもりである。これは紛れもない事実で、帰国まで一度も窃盗を含む犯罪などにも遭わなかった。ガンビアは一般的な注意をしていれば何も起こらない国である。やがて大統領第一夫人のファトゥマッタ・バー・バロウ(Fatoumatta Bah-Barrow)氏(Madam Fatou: マダム・ファトゥー と呼ばれている)も現れ、さらに錚々たる面々の中に意味の分からない日本人が存在する状況になった。
 それだけに飽き足らず、なんと追加の食事まで振る舞われた。マダム・ファトゥーも筆者をニックネームで呼んでは「もっと食べなさい」と言わんばかりに現地語でまくしたてる。一国の大統領一家といえど、それを構成するのは人間であるということを改めて強く感じた経験となった。
 最後に、バロウ氏、マダム・ファトゥーそれぞれとのツーショット写真までいただいてしまった。今考えてもとんでもないご縁である。インターネットに掲載する特別な許可をいただいているので、以下に示しておく。

3-d. 出国、そして帰国

 パーティーを終えて宿に戻った筆者だったが、翌日以降体調が振るわず、残りの丸2日を宿で過ごした。ガンビアの食事の味はおいしいが、油の質が筆者の胃に合わず常に胃腸を壊していた。そしてついに2月21日、帰国の日である。出発は夜なので、ある家に招かれて昼食が振る舞われた。

初日にも食べたYassaだが、ムスリム式の大皿から取り分ける食べ方である。
時計もムスリム式。

 空港に着くと出国客でごった返している。出国料(入国料と同額)を支払うが、帰りの航空券にトラブルが見つかり、この時点ではブリュッセルまでの搭乗券しか発券されないことになった。ともあれ、荷物は成田まで預かってもらえたので、不安を抱きつつブリュッセルへ飛び立った。この便ではプレミアムエコノミーに無償でアップグレードしてもらえた。

バンジュール国際空港。最低限の機能の小さな空港だが、この通り混むときは混む。
搭乗機は再びのOO-SFB。
ブリュッセル航空のプレエコはこんな感じ。

 ブリュッセルに着くと、緊張の一瞬。搭乗券を持たないのに、持っている前提のエリアで審査を受けてシェンゲン圏に入域しなければならない。搭乗券の発券はチューリッヒ便の搭乗ゲートで行われる。拙い英語で筆談も交えて説明し、受託手荷物の控えを見せたことで何とか通してもらえた。チューリッヒでも無事に出域が許可され、帰国便に乗ることができた。
 帰国後に税関で出発地を聞かれたが、「ガンビア共和国です」と答えてもあまりピンと来ていない様子(アフリカにあることは御存知だった)。最後の最後に改めてガンビアの日本での知名度の低さを思い知ることになった。

搭乗券を受け取れた時の安心感は今でも覚えている。
チューリッヒ便は満席で出発した。
帰国便の搭乗ゲート。チューリッヒではシェンゲン域外便は別の建物から発着する。
2月23日朝、成田に到着。

4. あとがき

 ここまで、出国から帰国まで10日間にわたるガンビアの旅の模様をまとめた。ガンビアは日本から遠く離れているし、お世辞にもインフラは整っていない。物価も高く、手に入らないものも多い。(車のエアコンのフィルターが砂埃で詰まってエアコンが故障し、冷却液も漏れて頻繁にオーバーヒートしていたが、部品がないので直せないという。)また、交通機関も未発達である。しかしながら、(税関が賄賂を要求してくるなどの多少のことはあれど)多くの人は非常に親切で、筆者のような見ず知らずの変な外国人にも優しく接してくれた。聞けば、この国はこのような国民性と、人の笑った口のような海岸線の形から"Smiling Coast of West Africa"とも呼ばれているという。(なお、日本人が現地人の前を通ると高確率で「チャイナ?」とか「你好」と声をかけられる。そういう時は「ジャパン!こんにちは!」と応えれば、向こうも「こんにちは!」と真似してくれるだろう。日本の車がたくさん走っているので、日本のことを知らない人はいない。)
 筆者は不慣れだったからこそ様々な問題に直面したが、慣れている方や適切なガイドをつければ良いリゾート地といえると思う。犯罪がないわけではないが、観光地では入口で検問をやっていたり、そうでないところにも随所に警察官が立っていて、日本で一般に「アフリカ」と言ってイメージされるよりはるかに治安がいい。露店商などの押し売りも一度も見なかった。

 今回筆者をガンビアに招いてくれたBintou氏は、日本ではガンビアの知名度がまだまだ低いので、まずはガンビアのことを知ってほしいという。本稿も日本でのガンビアの知名度向上に一役買うことを願いつつ、これにて締めさせていただく。

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