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春日三球・照代のメタ地下鉄漫才

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地下鉄漫才で昭和の演芸界の花形だった、春日三球・照代師匠。


「地下鉄はどこから入れるんでしょうね?それを考えると、夜も眠れない」と言う三球さんに対して、妻の照代さんが「あなた、そんなこと考えてるんですか。おかしな人ですね」と応える。


三球さんは、「まず地下鉄をつくって、それを埋めといて、そのあとに駅をつくる」という推察をする。
「何をバカなことを言ってるんですか」と、常識の立場からツッコミを入れる照代さんの存在に、お客さんは安心して二人の不思議な会話に笑う。


しかし、あるとき、三球さんが照代さんに「じゃあ、あなたは、地下鉄はどうやって地面の中に入れたと思うんですか」と聞き返してみたとき、昭代さんの説はもっと非常識だったのである。


「そりゃあ、駅の階段から入れたんでしょう」


これは明らかに、照代さんのほうが異常なことを言っている。
地下鉄の車両をつくって土で埋めたあとに地上に繋がる駅を建造するという三球さんの説が、常識的に思えてくるほどだ。


ボケとツッコミという役割を担い演じていることを了承した上で、その芸能を見ているから、みんな、照代さんの狂気に気づかない。気づいているのは、私だけだ。
物事の内容より立場や関係性を重視するほうが、思考したり感覚を研ぎ澄ましたりしなくて済むから、たぶんラクなのだろう。
しかし、すべては、二人の笑顔に集約され、お客さんはハレを楽しみ、寄席や劇場の空気を振動させたり、お茶の間のテレビに拍手したりする。


東京メトロと都営地下鉄とに分裂する複雑な現代の地下鉄事情を抱えた21世紀のTOKYOに、シンプルな地下鉄漫才が去来する。
どちらも結局は、空想しか言っていないという、三球・照代のナンセンスな漫才を、いまこそ思い出すべきだ。


無意味に向かうための意味が必要なのであって、意味のための意味なんて、それこそ意味がないのだから。


戦争とアメリカナイズの昭和、精神的孤独と分裂の平成を経て、偽りのダイバーシティで誤魔化された令和の時代に必要なのは、春日三球・照代の地下鉄漫才にほかならないだろう。


三球さんは、東京漫才のパイオニアのひと組であるリーガル千太・万吉の弟子。照代さんは上方漫才の春日目玉・玉吉の娘。昭和が終わる少し前までの20年間を、何の意味もない軽やかな地下鉄漫才で彩りました。


ちなみに、私は、地下鉄をどこから入れたのか、まったくわかりません。
きっぷを買うのだって、むずかしい。




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