踊ってくれませんか

 細い手首の内側に慎ましくまかれた腕時計が夕刻を指している。
 白いヒールの足を組み替えては、朱くなり始めた空を見上げた。
「由姫!」
 後ろからの声に振り替えると、呼び出した本人がこちらにかけていた。周りを歩く人々が皆、すれ違いざまに振りかえる。真っ赤な包みを片手に、黒いタキシード姿を着た彼の姿は、まさに舞台俳優らしかった。
 彼を追う視線の先で、明らかに似合わない自分に恥ずかしくなって安物のワンピースの裾に目を伏せた。
「待たせてごめん」
「ううん、大丈夫。待ってない」
 早口で言う私の頬に彼の手が触れる。
「ごめん」
 まっすぐに私を見る彼が私を捉えていた。
「これ、君にプレゼント」
 包よりも深い赤のリボンのついたそれを私は両手で受け取った。
「ほら、行こう」
 私の返事も待たずに、彼は手を取り、待ち合わせ場所だっだ劇場へ向かって歩き出した。いつもはこの時間には鍵がかかっているはずの扉を開けると、彼が私を中へと促す。吹き抜けのロビーを抜けて、熱いじゅうたんの敷かれた廊下を行くと、関係者専用と書かれたドアをためらいもなく開けては進んでいく。
「ねえ、良いの? こんなところ入って?」
「大丈夫、今日は貸し切りだから」
 大丈夫じゃない、と思いながらもこうなった彼をとめられるわけがなく、連れられるままに舞台袖の控室にやってきた。入ってすぐの大きな鏡に私と彼がうつる。彼の隣に立つ自分に改めて目をそらしたくなる。そんな私に気付いた彼が、プレゼントを指して言う。
「それ、あけてみて」
 促されるままにリボンを解いて、包み紙を開いていく。真っ赤な箱のふたをとると、真っ白なドレスが収められていた。
 なめらかな布地を持ち上げれば、ふんわりと裾が広がる。胸元には控えめなレースのリボンがつけられていた。
「誕生日おめでとう」
 柔らかい声が聞こえて、彼の方を向くと目じりにしわを寄せて微笑んでいた。

***

 その白いドレスを見たときから、笑った由姫が着ている姿が目に浮かんでいた。目の前の彼女がドレスを手に取った瞬間、表情が華やいでいく。
「それを着てくれないかな。一緒に来てほしい場所があるんだ」
 嬉しそうにしながらも、戸惑いを混ぜた彼女が小さくうなずいた。
「じゃあ、外で待ってるから。着替えたら出ておいで」
 もう一度頷いたのを確認して、扉の外に出た。見慣れた廊下の壁に背を預け、彼女が現れるのを待った。長くないであろう時間が過ぎるのはひどく遅く感じた。
 ゆっくりと開いた扉の先に、想像以上の姿の彼女が現れた。
 ひざ下までのスカートに、清潔感のある三角襟、袖口の折り返しにカフスが輝く。似合っていると告げれば、それを身に纏った彼女の肩は固く上がり、恥ずかしそうに頬が紅く染まっていた。
 緊張した彼女の腰にそっと手を添えて舞台まで案内する。ライトだけがついた空っぽの舞台の前で彼女に向かい合う。
「改めて、誕生日、おめでとう」
「その、ありがとう」
 驚きと、喜びと、困惑とを混ぜ合わせた彼女の瞳が、僕を見つめながら言った。
 僕はゆっくりと深呼吸をし、彼女に問いかける。
「僕と、踊ってくれませんか?」
「そんな、踊れないよ、それにこんな舞台に立てるわけない」
「大丈夫、君のためのステージだから、今日は僕ら二人きりだよ。それに、君が一番ここでの僕を見てきたんだから、踊れるよ」
 言い終わるかどうかのうちに、彼女の手を引いて歩き出す。躊躇う間もなく踏み出した一歩に、風をうけたスカートが揺れていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?