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爪を切るように、髪を切る

かれこれ10年以上、自分の髪を自分で切るということを続けている。
いわゆるセルフカットというやつだ。

それを人に伝えると驚かれることもあるけれど、べつにとりわけ難しいことをしているわけではない。
その気になれば誰にだってできる。

まずは全裸になる。これは切った髪が服にかからないようにするため。
あとは思いのままにカットすればいい。
前髪は普通のハサミを使って、鏡を見ながら程よい具合に切る。横と後ろはすきバサミを使って、手の感覚を頼りに適当にざくざく切る。
ある程度カットしたら、スマホの動画撮影で360℃ぐるっと頭の仕上がりを記録し、もし壊滅的に変なところがあるようなら、また適当に切ってみる。

大切なのは、多少のいびつさを許容することだ。その道10年の私ですら、3回に1回くらいは失敗してへこむ。完璧を求めすぎてはいけない。

それから、セルフカット中の自分の姿を俯瞰で想像しないこと。素っ裸の大人が部屋の真ん中でひとりちょきちょきと髪を散らしている光景は、控えめに言って滑稽だ。
余計なことは考えず、いま、ここに集中する。


自分で髪を切る習慣が始まったのは、高校生の頃だった。
そのときはまだ鏡で見えない部分を切る際の加減がわからなかったから、翌日の私の後頭部はカラスの巣よりも乱れていた。
同級生から指をさして笑われたこともあった。

そうまでしてセルフカットに挑んだ理由は単純で、毎月のように理容室へ通い続けるのがおっくうで仕方がなかったからである。

私の高校では、「前髪の長さは眉毛にかからない程度」という校則があった。しかしそれを守るには、あまりに髪がのびてくるペースが早すぎる。せっかく眉上に合わせたのに、数週間もすると髪はまたじわじわと眉毛を侵食してくる。

切っても切っても切りがない。際限なく、性懲りもなく、勝手に生えてくる。なんだ髪の毛って。無作法だ。礼儀がなっていない。
どうせまた粗雑に生えるのだから、こっちも粗雑に切ってやれ、と思った。

それに、理容室で髪を切ってもらう時間も苦手だった。
席に着くと私はいつも、眉毛にかからないくらいで、とだけオーダーする。変に凝ったことを言って、店の人に「色気づいてんじゃねーぞ、思春期め」などと思われたくなかった。
その後の会話にしても、お互いに間合いをはかって言葉を選びながら喋るのが疲れる。鏡ごしの自分の顔を長時間ふたりで凝視しているのも何か嫌だ。

あの空間にいるだけで、どうしても「自意識が暴走する内気な自分」を意識せざるを得なくなる。
散髪へ行くのは常に憂鬱だった。


かくして始まったセルフカット生活は、その後もしぶとく続き、今ではすっかり日常に馴染んでいる。
もはや私の髪に「ヘアスタイル」などという概念はない。
あるのは、髪が長い状態と短い状態だけ。長くなったら短くする。爪を切るのと同じことだ。

代わり映えこそしないものの、私はこの生活を結構気に入っている。
慣れれば気楽でいいものである。

ヘアスタイルは、その人の魅力や個性を引き立てる重要なファッション要素だ。それには100%同意する。
精巧に整えられた髪の造形や、それを作り出す理容師・美容師の手さばきを見ると、なんて美しいんだと思う。

それでも、だからといって自分自身がその美しさの中心にいなければならない道理はない。
美しさと関わる心地よい距離感というものが、人それぞれにあるはずだ。
こだわりを追求して得られる喜びがある一方で、こだわりから離れることで得られる心の安らぎもたしかにある。

テレビを見ると、またいつの間にか菅田将暉の髪型が変わっている。
いかしたヘアスタイルに目を奪われる。プロの技だ。カッコいい。美しい。

それはさておいて、私は今日も使い古したハサミを手に取る。
ゆったりと静かな心で部屋にひとり立ち、私は今日もおもむろに服を脱ぐ。

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