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体験は、名もない料理のように

「どうしてあげたらいいんだろう」
「何をしてあげられるだろう」

“体験”を多くさせてあげたい

長男と長女の育児

長男が生まれた頃の話。
少しずつできることが増えていく彼のそばにいて、考えていた。
2人目の妊娠中、1人目と同じく、安定期までの体調が芳しくなかった。
調子が良い日に、なんとか長男と散歩に行って、好きなだけ葉っぱや石で遊び満足するのを待って、お昼を食べて一緒に寝る。
連日は無理で家の周辺で過ごす時、外国でお庭のある家に住めて助かったと毎日、思っていた。お庭にはスグリの低い木があって、何もしていないのに毎年おいしい実をつける。
お庭にレジャーシートを引いて、のんびり過ごす。風を受けて、芝生の上を歩いているだけでも“体験”だった。
お隣のご夫婦のところに孫のナティが遊びに来ている時は、一緒に遊んでくれたりもした。

2人目が生まれて半年して、急に毎月1週間、体調が悪くなった。それでも我が子たちには“体験”をさせてやりたい。
「私に何をしてあげられる?」
夜寝る前の入眠タイム。絵本を読むのも、寝る前にポジティブな言葉のシャワーを浴びさせるのも、自分ができる最大限のことを、と考えて始めたことだ。
そんな肩に力を入れていた「体験」に対する考えは、3人目を産んで、崩れていく。

次女が生まれた頃


当日6歳の長男は怖がりで、まだ1人でお風呂に入れない!と言う。
2月。真冬で乳児、幼児2名を含む4人で小さなお風呂に入り、湯冷めさせないことにとにかく気を配る。
もちろん全員一緒に寝かしつけ。
絵本の冊数も制限をかけた。
長女をベビーカー、次女を抱っこで長男を幼稚園に連れて行く。
お昼寝時間と幼稚園のお迎え時間が被って長女は寝不足になり不機嫌に。
全員公平に、何か体験を、そう思っていたけれど、精神的にも体力的にも無理だった。
諦めよう、と。

次男が生まれた頃


4人目が生まれた時は、長男長女が一緒にお風呂に入ってくれて、ずいぶん楽だったのを覚えている。
それでも、また幼稚園送り迎えは2人の乳幼児連れ。何かの体験をと、どこかに連れて行くより、寝ていたかった。
そうこうしているうちに、社会復帰をする。
ある時まで次女と次男には、体験させてあげられなかった、という負い目があったように思う。

体験は、名もない料理のように

長男は、今年の12月には21歳になる。
彼の興味や関心を考えると、彼が体験したことが多く影響しているな、と思う。
だから、〇〇に連れて行く、と言うような体験をたくさんさせてことは、良かったと考えている。
その一方で〇〇に連れて行く、自然にたくさん触れる、と言うような目的のある体験だけが、子どもの“体験”ではないと感じるようになった。
結局「何を」よりも「誰と」なのではないかと思うようになったからだ。
我が家で出てくる料理はほとんどが、名もない料理だ。
その日冷蔵庫にあるもので作ってしまうから。
〇〇に連れて行く体験が「名のある料理」だとしたら、毎日一緒にいて、同じものを見て、ああだ、こうだと話すことは、名のない料理と一緒ではないだろうか。

「〇〇に連れて行ってあげることもできない」
と言う負い目や後悔、焦りの気持ちで一緒にいるよりも
「一緒に時間を過ごすことができる」嬉しさ、喜びを素直に伝える方が、ずっといい。

ママ歴を成人の分だけ重ねて、ようやく今思うこと。
毎日バタバタしていて、焦りを感じている誰かの参考になれば、と思う今日この頃。

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