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沖縄旅を終えて

先週まで用事をかねて沖縄、那覇に行っていた。沖縄は小学校のとき以来。あの土地の戦争の爪痕に衝撃を受けて長い作文を書いたけれど、ひめゆりの塔にも糸満の平和祈念公園にも足を運んだはずなのに、まるで初めて見たような気持ちがした。それだけ社会が変化したことと、沖縄の置かれた厳しい立場について様々な人の声やものを見聞きしてきたせいなのかもしれない。

ひめゆり平和祈念資料館と学徒隊について描かれた絵本

個人タクシーで南部戦跡(ひめゆりの塔、平和祈念公園、旧海軍司令部壕跡、平和の礎等)を回る前日たまたまテレビで、中山トヨさんという方が亡くなったニュースを観た。中山さんは太平洋戦争末期に看護要員として動員された白梅学徒隊の一員で、生存した学徒隊の語り部の中心的存在だったという。

日本で唯一の地上戦として、巻き込まれた一般人が20万人近くも亡くなった沖縄戦。それがいかにむごたらしいものであったか、何故か沖縄以外の場所では詳しく語られて来なかった。語られて来なかったからこそ、米軍基地がそこに置かれることを是とする声は本州から決して消えることはない。

それでもひめゆりの資料館にはわたしの行ったその日修学旅行生らしい沢山の若い人が来ていて、生存者の証言映像をじっと見入っていたり、とても真剣に展示をまわっているように見えた。ひめゆりや沖縄戦のことを名称として聞くだけではなく、地元に来て実際にその目で見ることが誰にとってもいかに大切かを深く思わせられた。

当時17歳かそこらだったひめゆり学徒隊の証言者の声に「軍国教育を受けていた私たちにとって、戦争は特に疑問ではありませんでした。動員命令が出た時もこれでお国の役に立てると皆喜びました」というのがあった。けれども野戦病院化した場所で苦しみのたうち回る兵隊を見て想像とはるかに違う現実にショックを受けたこと、軍の解散命令が出たとたん兵隊は逃げてしまい(旧海軍司令部では上官たちが自決)、爆弾が雨のように落ちてくるなかを学生だけで必死に逃げ回るうち、射殺されたり敵に捕まるくらいならと集団自決するものもあって、さながら生き地獄のようだったとも話していた。
ひめゆり、豊見城から程近い喜屋武岬では、そうした人々が戦火に追われ、逃げ場を失った沢山の人が身を投げたという。

糸満のヒカンザクラ。一月末の時期はちょうど見頃

琉球王国最高の聖地であり究極のパワースポットともいわれる斎場御嶽(せーふぁうたき)の見学中も、頭上近いところを飛ぶ米軍機の爆音が聞こえていた。戦争の爪痕残る歴史的場所が数えきれないほどあり、学校では沖縄戦について子供たちが普通に語り合う。政府広報となって久しいNHKですら、沖縄の地方ニュースでは連日戦争と平和についての文言が当然のように取り上げられていた。

旧海軍司令部壕前のガジュマルの樹木

思いきってタクシーの運転手さんに、「現地のかたは基地の辺野古移設についてどう思われてますか」と聞いてみた。品のいい優しい声で話すその方は、暫く黙ったあとでぽつりと、「嘉手納があまりに危険すぎて、仕方ない選択でした。ただ、何故いつも基地は沖縄なんでしょうね。辺野古は本当に美しい所なんです。だからとても悲しいし怖いです。戦争は恐ろしい。でも軍備力だけで全てが解決するとはとても思えないです」と仰った。

美しく楽しいリゾート地の明るい面を持つ沖縄という土地の、決して癒えることのない深い傷を思い、基地のない場所で呑気に暮らすわたしは、返す言葉が見つからなかった。

個人宅を守るシーサー。旅の間、いろんなシーサーを見かけた

戻ってきてからも気持ちがなかなかまとまらなくて、この拙い手記を書き終えるまで少し時間が必要だった。小学生当時、沖縄旅について何十枚も感想文を書いたあのときのような、子供らしい正義感とはまた違う感情が今のわたしのなかにある。沖縄基地をめぐる凄惨な事件があるたびに、涙を流し憤りながらも結局なにも変えられずに来たこの国に住む一人の人間として。そして、大きな転換点を迎えつつあるこの国を、背負う、責任ある大人の一人として。

最後までお読みくださり、有り難うございました。